The Embarrassment of Riches

Night Watching


昔、ピーター・グリーナウェリの映画をイギリスでテレビでみていたとき、太った男はチンポコが小さいと、おばさんたちが話すシーンがあって、その後、全裸で眠っている中年のデブ男ふたりが映し出されたとき、ほんとうにチンポコが小さかったので、笑ったのだけれども。今回の映画『レンブラントの夜警』(2007)*1も、レンブラント役のマーティン・フリーマン(『銀河ヒッチハイク・ガイド』の主役。それにしてもこのレンブラント役は、熱演じゃね)も、小太りで、チンポコは小さい。勃起したチンポコも小さい感じがしたが、あれはCGかもしれない(モニカ・ベルッチが地下道で延々とレイプされるフランス映画『アレックス』(だったか。)では、レイプしたあと男のチンポコがズボンからはみ出ているのがみえるのだが、メイキングをみてみると、あのチンポコはCGで書き込んでいる。自分のチンポコを見せるのは恥ずかしいかもしれないが、自分のチンポコをCGで作ってもらうのは、もっと恥ずかしいぞ)。しかしこの映画ではCGに見えないのは、いうまでもなくこの映画が演劇性を前面に出しているからだ。舞台でチンポコが見えたとき、それをCGとは思わないのと同じように、終始、舞台で展開するこの映画の物語ではチンポコも本物にみえる。小さいのだが。



本日は家を出る前にRobert Stoneの小説を読んでいた。正確にいうと今日から読み始めたということになる。主人公の男性がシャワーを浴びながら、The thing itself。Unaccommodated manと心の中で思う。おや、『リア王』かと、読んでいると驚くが、すぐに、この主人公は俳優で舞台でリア王を演じたばかりだという説明がはいる。そしてすぐにリアの台詞が入っている。 “Unaccommodated man is no more than such a poor bare forked animal as thou art.”『リア王』の台詞だと書いてあるから、読者は戸惑うことはないだろうか、しかしなんのことわりもなしにシェイクスピアの台詞のもじりがはいってくる。 “Bronwen was nothing if not funny” これはシェイクスピアのある悲劇のなかの台詞のもじり。どこの台詞かは教えない。


ところで読んでいた小説のなかで『リア王』と出会ったのは、因縁めいている。この映画は、ある意味でリア王である。そもそも、映画のつくりが、演劇的になっている。映画ではなく舞台をみているようだ。そしてその板敷きの舞台には、大きな天蓋付きのベッドが鎮座している。完全に演劇として演出するなら、舞台上のこの大きなベッドを中心にして、アクションを組織することになるだろう。そこは、休息の場というよりも、性の営みの場であり、レンブラントと3人の女性の性関係が物語の原動力となる。そこは出産の場であり、幼い命が生まれ育まれる場であり、そしてそこは人が死ぬ場所でもある。生まれ、育ち、セックスをし、そして死ぬ。人間のはかない人生がベッドに凝縮される。ベッドで生まれ、ベッドで死ぬ。この道化の大舞台This great stage of fools(『リア王』だい)は、またベッドそのものなのだ。


しかもこのベッド、天蓋付きの豪勢なベッドである。それは玉座のようにもみえるし、また贅を凝らした宮廷の一室のようにもみえる。名声と栄誉を一身に集めた画家が王のごとく、この世界に君臨する。このベッドは、レンブランドが集める声望と名誉と畏敬の念の集約ともいえる。


だがベッドである。そこでは虚飾を剥ぎ取られ、寝間着一枚、ときにはその寝間着から、裸体が垣間見える。いや、裸体そのもののでもある。Accomodationの典型たるベッドに横たわる“Unaccommodated man”脆弱で壊れやすく傷つきやすい生身の人間。グリーナウェイお得意の裸体の展示が、ここではリア王的主題と連結している。


そうリア王レンブラントは目を潰されたりしはなかったが、デリラの裏切りにあい、襲われ、いままさに目を潰され苦悶するサムソンを描いた作品がレンブラントにはある。またレンブラント自身、片目が悪い(たぶん見えない)と映画のなかで語られる。色弱であったという説もある。視力に問題をかかえ、画家として視力を失うかもしれない恐怖、また真実を暴露したがゆえに報復として目を潰されるという恐怖。目と視力と目を潰されるというのは、まさにシェイクスピアの『リア王』のテーマである。史実とは異なり、映画の最後でレンブラントは目を潰され、視力を失う。映画の冒頭での悪夢が実体化して、視力を失うレンブラント。だがそれはレンブラントが真実を見抜く視力を身に着けていたがゆえに、報復されるたということである、これが映画の重要なテーマである。


だがレンブラントは画家であるので、不正と腐敗を文書あるいは言語で告発するのではなく、絵画表現によって真実を暴くのである。それは諷刺として。もちろんこの映画で語られるていることは、発掘され実証された事実ということではないだろう。『夜警』という、よくわからない不思議な絵にこめられ、いまでは失われた風刺性なり社会批判性は、こうではなかったのかという推測的物語が、この映画の中心となるのだが、まさにそうとでも考えないと理解できない、不思議さをレンブラントの作品がたたえていることを、映画はあらためて教えてくれる。


そう教えてくれる。この映画は、観客よりも頭がいい。観客よりも偏差値が高いのである。もちろん作品解釈や作品解説は、諷刺と批判の対象とされた側から発せられる。これではまるで描かれた人物が、ローマ時代の道化役者ではないかと、諷刺された側が不満を述べる。なるほどそういう絵だったのかと、観客はあらためて納得できるのである。そうした教えられる要素はこの映画に圧倒的に多い。


集団による肖像画という、当時のオランダで流行した肖像画形式と、レンブラントの『夜警』が根本的に異なっているは、それまでの集団肖像画が、各人が一応ポーズをとって、いまふうにいうとカメラ目線で、見るものの側を見ている。彼らは地位とか職業にあった服装と態度をとっているが、あくまでもモデルとしてポーズをとっているのであり、それがいかにも演じているという芝居がかった大仰さをかもしだす。いっぽうレンブラントの『夜警』では、カメラ目線の人物は、ほとんどいない。スナップショットのような自然さを人物像はたたえている。いや、そこでは銃が発射されているから、大きな音と閃光までも認識できる。彼らは見る者を意識せずに、平然と演技を続けることができるプロの役者に近い。『夜警』は、そうした「役者」たちの群像である。ここでいう役者とはまた、悪事をしながら平然とかまえることのできる偽善者(ちなみに偽善者は役者の語源ともなった)をも意味する。かくして『夜警』は、その表現のリアルな生々しさと、描かれた人物たちがどっぷりつかっている腐敗と不正の悪の空気の生々しさの両方を伝えることになった。



『夜警』は陰謀渦巻き、時には殺人までもが行なわれ、無実のものが告発され処罰される不正のきわみとも言うべき世界を描いているのだが、それはまた、陰謀と殺人からなる演劇に近いのである。だから『夜警』が演劇的なもの、舞台を想起させるものとなっているとすれば、映画もまた『夜警』という作品にまつわる陰謀のからまりあいを軸に展開する、まさに芝居がかった世界であり、演劇性を前面に押し出していることも、これで納得がいこうというものだ。


映画と演劇は、相反する敵同士ではなくて、映画は、みずからを演劇たらんとする夢をみる。映画は、時として、演劇以上に、演劇的になるといったのはドゥルーズだが、映画と演劇の、本来は、敵同士かもしれない二者の関係は、まだまだ十分には解明されていないのである。


ただしこの映画は、結局、レンブラントの『夜警』という作品を静止した舞台と捉えているのだが、それならば、それはいずれ特定の場所とか受容者に束縛されずに多くの人間に見られ、また最初から静止しているのではなく、呪縛をはなれれば、いつでも生々しく動きはじめるイメージになってもおかしくなわけだから、まさに映画そのものということになる。『夜警』は、芸術史上、はじめて演劇ではなく、映画になった絵画ということになるだろう。


かくしてレンブラントの『夜警』は、当時のオランダの繁栄と腐敗のメタファーとなるのだが、同時にまた、現実を暴露し、現実に奉仕する作品ではなく、作品のそのような現実との関係のメタファー、まさに社会と歴史における芸術の役割についてのメタファーとも成る。社会を映し出した鏡だった『夜警』は、以後、社会と芸術との関係の鑑になるのである。



それはまた芸術が、闇を、夜を見る営みであるということにもなるだろう。いかなる脅迫にも懐柔にも屈することなく、闇を見続けること。レンブラントの『夜警』は、夜の光景ではなく、全面に塗られたニスが変色して夜の雰囲気になったのだが、本来は昼間の光景であるとして、タイトルを変えることが多い。にもかかわらず映画はNighwatchingと古いタイトルにしているのは、レンブラントのこの作品が、その内容ではなく、その社会的機能、芸術家の営みとして夜を見る「夜警」として評価されうるという暗示なのであろう。レンブラントのこの作品は、まさにそのような再読を限りなく要求しているように思われる。


ちなみに映画の世界では、栄華を極めるオランダの豪奢な品位ある品格ある、だが腐りきった生活と、レンブラントの薄汚い脆弱な肉体どうしの結合と離反の営みの世界、accommodatedの世界と、unaccommodatedの世界。この両者の対立を軸としていることも忘れてはならない。レンブラントのそれは、闇からの、肉体からの、貧困からの、下層からの視線なのである。


芸術家の仕事してみれば、これは晩年のスタイルである。脅迫にも懐柔にも屈せず、和解を拒み、妥協をせずに、芸術と真実に奉仕する、その苦悶と絶望と希望のなさと、そして頑張りこそ、まさに晩年のスタイルそのものではないだろうか。


この映画が、ときには『ハムレット』の一場面を髣髴とさせながらも、全体として『リア王』とのつながりが深いのは、視力の問題だけでなく、晩年のスタイルとも関係していたからである。私はこの映画を晩年のスタイル作品のひとつに加えるにやぶさかではない。



圧倒的に中高年の多い観客のなかで、映画の前後にひそひそ話をする女性(おばさん)のペアがいた。とくにこの映画のエンドクレジットは、音楽がなく、ただ文字がスクリーンを流れるだけだから、そのひそひそ話が聞こえてくる。


ひそひそ声というのは、けっこう伝わりやすく、あまりひそひそ話をしないほうがいいのだろうが、こういう場でのひそひそ話というのは、仲のいい女性どおしで、ついつい映画のエンドクレジットが終わるまで待てずに、話しかけてしまったというような、他愛もないことではない。


やはり悪意であり、この映画に対する批判を周囲の人間にも聞かせてやろう、自分は、満足してないぞということの意思表示なのだ。そうして満足している人間の気持ちに泥を塗る。これが中高年の実体なのだといいたいのだが、ひそひそ話は、そのおばさんペアだけだったので、あとの中高年は、むしろ礼儀正しい人たちだったのだが。


それはともかくこのくそおばさんペアのひとりが、最後に、吐き捨てるように『真珠の首飾りの少女』のような感動はないわねとい言ってのけた。結局、それがいいたかったのだ。映画に満足していなかったのだ。だから不満をぶちまけたかったのだ。こういう姑につかえる嫁は地獄の生活を強いられるだろう。


真珠の首飾りの少女』の映画*2。あのただきれいなだけの画面で、フェルメール役のコリン・ファースの渋面と、スカーレット・ヨハンセンの馬鹿面と、キリアン・マーフィーのクィア面しか印象に残らない、あんな空虚な頭が悪くなりそうな、感性が鈍化しそうな映画のどこがいいというのだ。情動的にも、知的にも、なんの感動も伝えない映画の、いったいどこがいいというのか。くたばれ。くそ***!*3


テレビ東京の番組『美の巨人』のなかで、グイド・レーニの「ベアトリーチェ・チェンチの肖像」を取り上げたとき、似たような構図の作品としてフェルメールの「真珠の首飾りの少女」をとりあげていた。フェルメールが、なんらかの主題で、レーニの絵画の存在とそのイメージを知り、自分の作品にとりいれたのではないかという推測が語られた(この推測は、それなりに話題になったようだ)。「真珠の首飾りの少女」という作品は、謎めいた作品であり、そこに、たんにイタリアの画家の作品を模写した版画をフェルメールがみて真似したというにとどまらない、闇があるのかもしれない。それは立証不可能だが、ここにもうひとつの闇を見る映画が作られてもおかしくないのだが、映画『真珠の首飾りの少女』は、そうした知的関心を封殺せんとしている、まさにレンブラントの作品で揶揄され嘲笑されたような、腐りきった金持と支配層におもねっている。



ちなみに本日のタイトルは、全盛期のオランダを扱ったサイモン・スカーマ*4の本のタイトルより。昔、NHKの番組で、京都大学の学生にキャンパスでインタヴューするコーナーがあって、答えている女子学生のひとりに、私は釘付けになった。彼女は、サイモン・スカーマのこの本を抱えているのだ。スカーマのこの本は、大部で英語が難しい。もし授業で、この原書を読んでいるのだったら、偉い。もし研究会とか読書会で、この原書を読んでいるのだったら、偉い。もし一人でこの原書を読んでいるのだったら、それも偉い。と、まあ、圧倒された記憶がある。

*1:Nightwatching (2007), dir. by Peter Greenaway.

*2:Girl with a Pearl Earring (2003), dir. by Peter Webber(『ハンニバル・ライジング』の監督).

*3:私が怒っているのは、大きな映画館で唯一の、ひそひそ声ペアが、一つ席をあけた隣に座ったということだ。いつものことながら、運の悪い私。

*4:確かにご指摘のとおり、私の記憶違いでした。Simon Schamaサイモン・シャーマの本は、知っているかぎりでも、2冊翻訳されていて、どちらも持っているのですが、いずれもシャーマという表記であり、また最近、日本版か教材版が出来たのか、BBCでやっていた英国史のDVDの宣伝をしています。研究室でもチラシを見ました。いずれの場合もシャーマであるのはまちがいないのですが、本のタイトルも違っていて、これはフロイト的錯誤行為か、記憶違いかわかりませんが、まあ記憶違いですが、シャーマのほうは、私の変態頭脳は、それをみるたびに、「スカーマ」と言い換えているのですよね。自分の表記が正しいと主張するつもりはありませんが、まちがえたのには、なにか理由があるようにも思うので、失われた記憶を辿りなおしたいと思います。なお、へんに検索がかけられないように、「スカーマ」のままにしておきますが、まちがいであることは、この注で明記しておきます。以下のスカーマもシャーマで読み替えてください。