子守唄


むかしこれでも雑誌に映画評をひとつか、ふたつ書いたことがあって、その時、映画配給会社が行う試写会で映画をみた。映画館ではなく、映写室のようなところでみたのだが、その時驚いたのは、高名な映画評論家が映画の上映中眠っていたことである。あとでその評論家が、その映画を褒めていた映画評を読んだことがある。眠っていたわりには、よくこれだけ褒められるものだと感心したが、まあ、長い論文を書くわけではなく、短い紹介と評価を書くだけの映画評だから、試写会で眠っていても書ける。


それに褒めるのだから文句もでないことになる。もしけなすのなら、しっかり映画を見て、自分の責任によって判断を下すわけだから、もし眠っていて、ろくに映画を見てないことがわかったら、けなされた側は、ただではすまさないだろう。映画会社の宣伝係と化している映画評論家は、褒めることしかしないから、眠っていてもかまわないだろうし、映画会社としても眠ってくれたなら、評論家も、罪の意識かどうかわからないが、悪い映画評を書くことはないから、逆に安心なのだろう。私が、あとで知って、驚いたのは、試写会で眠るのは、けっこう慣行となっているということだった


ところで評価と居眠りとの関係はけっこう複雑である。鈴木宗男氏が裁判で有罪になったとき、審理の途中で、裁判官がずっと寝ていて、これは国策裁判であると記者会見で批判していたが、裁判官の居眠りは、有名なことで、その指摘は嘘ではないないだろう。居眠りをしていて、無罪にされたのなら、腹も立たないが、有罪にされたのなら、激しい怒りがわくことは理解できる。裁判官の居眠りは、審理をないがしろにしているというよりも、結果が最初からわかっているからだろう。審理を必要としないのだ。結果が最初からわかっているから、つまりなにがあろうとも有罪にするという有形無形の圧力があるから、審理は形式的なものにすぎなくなる。いきおい居眠りもしたくなろうというものだ。ただ、有罪にされる人間のことをおもんばかって、たとえ最初から結果がわかっていても、殊勝な顔をして、真剣に判断しているというふりをするというほどの偽善的ごまかしすらしない、居眠りをする裁判官の人間的感情の喪失には唖然とするが――まあ、相手は、有罪の人間だから、傷つけないようにする配慮など不用で、とことん侮辱し屈辱感を味あわせてやるのだという理由から居眠りをしているのかもしれないが、しかし、それはbegging the questionだ。


ただし映画の場合、実は、居眠りをしてしまう映画というのは、つまらない映画かもしれなくて、居眠りをした評論家が、私は試写会で眠ってしまった、だからこの映画はつまらない、出来は良くないと述べてもいいようなものだが、しかし、それは居眠りをする裁判官と同様、許しがたいことなのである。