キャンディ ゴールデン・エイジ 2


『エリザベス ゴールデン・エイジ』には、前作からウォルシンガム役のジェフリー・ラッシュと、エリザベスの侍女のちにウオルター・ローリーの妻役で、アビー・コーニッシュが出ている。ジェフリー・ラッシュのウォルシンガムは、前作にくらべると、丸くなったというか歳をとったという感じで、前作のときのような、精悍な切れ者で、冷静沈着かつ残忍な参謀としてスパイ組織の長にのしあがる人物というイメージはない(実際、こちらの映画の最後では老衰で死を迎えるのだから)。しかしこのジェフリー・ラッシュとアビー・コーニッシュのふたりがいっしょにいると、オーストラリア映画『キャンディ』*1を思い出してしまう――ヒース・レジャーがいないのだが、彼はこの世にももういない(今年は映画関係者の早死にがめだつ。いまから1週間後にはアントニー・ミンゲラ(監督)が54歳の若さで死去する)。


アビー・コーニッシュも『ゴールデン・エイジ』では、多少芯が強そうだが、可愛くて綺麗な女の子という、なんだか毒気を抜かれたふつうの女性になっていて、たとえば『プロヴァンスの贈り物』((A Good Year(2007)dir. by Ridley Scott)に出ていたときの、力強さというか元気がちょっとない(そういえば『プロヴァンスの贈り物』では、『ゴールデン・エイジ』に出ていたトム・ホランダーが、アビー・コーニッシュとからんでいたが)。アビー・コーニッシュの初期の映画はみていないのだが、『キャンディ』は強烈な印象を残す映画だった。


映画『キャンディ』については、手元にあるDVDの外装をみると、「SEX&ドラッグに溺れて、/愛し合い傷つけあった/恋人たちを描く、/鮮烈なラブストーリー。」とある。
さらにこういう紹介文もある:

画家と詩人になることを夢見ながら。SEXとドラッグに溺れ、刹那的な愛に生きるふたり、キャンディとダン。しかし、キャンディに小さな命が宿ると、ふたりはそれまでのドラッグ依存の生活から抜け出すために、中毒の後遺症と戦う決意をするが……。

どうして「SEX」と、そこだけ英語の、しかも大文字になっているのかよくわからないが、まあ、この紹介文でまちがはないだろう。おまけにこの紹介文は、「“キャンディ”は、ヒロインの名前であると同時にドラッグの隠語でもある。」と、けっこう有益な情報もつけているくせに*2、ある重要なポイントを、意図的に隠しているか、失念しているか、最初から知らないのか、提示していない。


映画は、まさに、この紹介文どおりのものだが、察しのいい人は、映画を観ている途中で、また、紹介文からの情報にじゃまされた私のように鈍い者でも、映画を観終わってからしばらくしてから、はたと気づくはずである。これは『ロミオとジュリエット』のアダプテーションだ、と。


この認識への契機は、ジェフリー・ラッシュである。中年の、大学の化学の准教授で、ゲイ(その自宅には、いつも若い男の愛人がいる)である、ジェフリー・ラッシュが、なぜ、ふたりの若い恋人を暖かく見守り、いつも無償の愛で援助してやるのか、不思議な感じがする。ジェフリー・ラッシュは、大学の実験室で麻薬も作れる人物であるが、なぜ、このふたりの恋人たちに対して、実の親以上に暖かい感情をもっているのか、説明がない。同じジャンキーとして心がつうじあるのか。


で、いうまでもなくこのジェフリー・ラッシュは、『ロミオとジュリエット』の僧ローレンスFriar Lawrenceである。というと『ロミオとジュリエット』を知っている人なら、納得できると思う。今年、『ロミオとジュリエット』を扱った卒論で、ロレンスが、薬草からつくる薬あるいは、ロレンスの薬作りに着目して、それが舞台の小道具のレヴェルから、作品の主題のレヴェルにいたるまで、重要なはたらきをしていることを分析した、すぐれた卒論(ほんとうに掛け値なしに優れた卒論)を読んだのだが、ロレンスと薬物との関係は、これまで案外、重視されてこなかった『ロミオとジュリエット』の要素である。


僧ロレンスについて、私が学生の頃は、運命の悪戯というか偶然によって二人の恋人たちを助けてやれなかった善意の僧侶というかたちで語られていたのだが、最近は、風向きがかわって、薬物作り、人間関係の画策について、善意の傲慢さが指摘されているようだ。いや、たとえそのような性格への批判的視点でなくとも、薬草とか薬物との戯れのなかに、危険な悪魔的なもの、神への冒涜をみる批評が一般的になっている。となると『ロミオとジュリエット』の悲劇は、両家の争いに巻き込まれた若い無力で無垢な恋人たちの悲劇というよりも、ドラッグの悲劇でもある。『ロミオとジュリエット』は『キャンディ』に直結する。そう、『キャンディ』。この映画が『ロミオとジュリエット』のアダプテーションだとすると、その鋭さにほんとうに圧倒される。


僧ロレンス→カスパー(ジェフリー・ラッシュ)
薬物を創造・精製する。恋人たちを助ける人物。僧のイメージからゲイのイメージ。『ロミオとジュリエット』はゲイ・ドラマだというのが私の持論だが、ロレンスのなかにあるゲイ的イメージについて、この映画から教えられたような気がする。


ロミオ→ダン(ヒース・レジャー)
親との縁が薄い。映画では孤児である。またマルヴォーリオ的な友人もいる、この友人はゲイでジャンキーである。現代のロミオとジュリエットには、親密な関係、あるいは結婚をはばむものは存在しない。むしろ恋愛とドラッグとの関係がふたりの愛を破滅へと導くことになるのだが、この映画ではロミオは、ジュリエットの家庭にはいりこむ。劇中で招待状を盗み読むところは、映画ではクレジットカードから鐘を引き出す犯罪と対応する。全体的に麻痺的な無力なだめ男を、どちらかというと意志の人を演ずることが多かったヒース・レジャーが演じているのが面白いが*3、ロミオも、基本的にダメ男である。


ジュリエット→キャンディ(アビー・コーニッシュ
過剰投与で一時的に仮死状態になる。錯乱して精神病院に入るが、劇中でドラッグを飲む前の錯乱状態が、映画では家中の壁にかかれた彼女の文字となってあらわれる。父親には可愛がられているが、母親との仲は悪い。ダン=ロミオ以外の男(パリス)にも言い寄られる。精神病院に入るという仮死状態から回復して、いよいよダン=ロミオとむすばれるかと思うと、結局、結ばれない。これは仮死状態から目が覚めているみるとロミオが死んでいたという戯曲と同様の結末を辿る。


ちなみに戯曲における二人の結婚は、映画では禁断症状の克服の壮絶な苦難となる。ふたりは結婚するが、子供ができないことによって、その愛は成就しないかにみえる。また最初の頃、ふたりはプールのなかで、水中で戯れる。これはもちろん『ロミオとジュリエット』とは関係ないが、バズ・ラーマン版『ロミオ+ジュリエット』とは関係する。オーストラリア出身の映画監督バズ・ラーマンの映画に対する、ある種のオマージュが仕組まれているのかもしれない。


ロミオとジュリエット』を、こうした壮絶なドラッグ破滅物語へと変貌させる手腕はなかなかのものだし、またこれが『ロミオとジュリエット』のアダプテーションだと分かった瞬間、みえてくるものがちがっていくる。この点を、もう少し、つきつめて別の機会に、考えてみたい。ちなみにこれは2008年3月21日に書いている。この時点で、私は、この発見をしている。発見を盗まないでね。

*1:Candy(2006) dir. by Neil Armfield.

*2:ちなみに私はドラッグのことは詳しくないが、「キャンディ」がドラッグの隠語だというのは、昔、フィリップ・K・ディックの『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕跡』を読んで以来、知っているのだが。

*3:またこの薬物依存は、ヒース・レジャーの若すぎる死を連想させてつらいものがある。ヒース・レジャーはドラッグによって死んだわけではなく、通常の睡眠薬の多量投与が死因のようだが。