1枚の写真


朝日新聞4月5日土曜日・夕刊 p.5 「花まる先生 公開授業」シリーズで、今回は、掛け算を図にして簡単に理解するという授業をしている小学校の先生の紹介があった。掛け算の仕組みを、面積を求めることに置き換えて理解しようとするもので、それはそれでなるほどと思えることだった。


小学校の数学は、中学生以上だったら、たとえば方程式にして簡単に解けてしまえることでも、言葉で説明しなければならず、私のように数学のことがわかっていない人間には、言葉で説明するのは至難の業である。というかできない。それを簡単な図形で図示するというのは、実は、それもけっこう面倒なのだが、直感的に理解できる仕掛けとしては有効ではないかと思う。


ただし、それはさておき、新聞の写真では、左端にある黒板に、右手にもったチョークで数字を示している先生の姿がみえる。それは問題ないのだが、先生は黒板に対して90度の位置に立っている。で、先生の背中のむこうに授業を聞いている生徒の姿がうつっている。焦点は先生のほうにあっているから、生徒たちの姿はすこしぼやけている。


で、その生徒たちの姿をみていると、なにか緊張がないないのね。頬杖をしてぼんやりとながめている女の子たち。壁際の男子たちは、黒板の方向だが、先生のたっている場所とは違った方向をみていて、なにか微笑んでいる。放心して黒板ではなく窓際のほうを向いている女の子がいる。後ろの生徒と話をしているような男の子がいる。いったい、どうしちゃったのでしょう。


ゆるやかな学級崩壊のようにもみえる。もし音が聞こえたら、先生の説明する声とほぼおなじくらい生徒たちのざわめきが漂っているような気がする。東京国立学園小学校の授業風景と新聞では紹介している。私立の有名校でしょう。それがこれ。まあいまの平均的な小学校の授業風景がどうなのか、まったく知らないのだが、この国立学園がマイルドな授業崩壊を起こしているのか、あるいはこれがこの小学校での、あるいは有名校での日常的な授業風景なのだろうか。


見れば見るほど生徒たちの様子が気になる。本郷界隈の、東大の正門からまっすぐ西に行くとある5差路の戦後の日常的な風景を撮影した有名な写真*1があるが、あれと同じようなものを連想してしまう。授業で黒板を使って説明する先生。ただぼんやりと聞いている2,3人の女の子。ノートに何か書いている女の子。後ろの生徒としゃべっている男の子。窓際のほうもみている女の子。すべてがばらばらで統一的な空気を醸成しないながら、それでいて、ある種の怠惰な日常性を確かな手ごたえとともに伝える写真。


とはいっても、これではわかりにくから、強いていえば、こんな状況を想像していただきたい。取材中に、授業中の先生の姿が上手く撮れなかったので、取材カメラマンが、先生の姿だけをズームしてもう一度撮影しようとする。生徒たちには、もう授業が終わったのだけれども、撮影が終わるまでまだ教室を出ないように先生に言われ、しばし、先生が交番の前でポーズをとっているところを、ぼんやりリラックスして見ている。授業は終わっているので、後ろの席の子とおしゃべりをしてもいい。先生だけは、黒板の前で説明しているポーズをとる。生徒たちは、リラックスして、それをぼんやりみている。これを想像してもらえれば、写真の性質がわかってもらえるかもしれない。


問題は、そんな取材をするのだろうか。やはり先生の姿は、実際の授業風景のなかで切り取ろうとするだろう。あとでポーズなどとってもらうことはないだろう。となると、この写真、マイルドな学級崩壊的写真は心霊写真よりも怖いものがある。

*1:木村伊兵衛『本郷森川町』1953年4月7日撮影。今日から55年前だ。これは4月7日に書いている。