I am pregnant.

アーヴィン・D・ヤーロムIrvin D. Yalomの小説『ニーチェが泣くとき』When Nietzsche Weptが同じタイトルで映画化されたことは知っていたが、小説のほうは、すでに10年前に翻訳されていたことを、うかつにも知らなかった*1。恥ずかしい限りである。だとすれば、どうも日本では公開されないかもしれないので、残念というほかはない。『ジェイン・オースティンの読書会』と同様に、すでにDVDで見た*2。そして映画そのものがどうのこうのという以前に、いろいろ考えさせられた。いろいろな想念がわいてきた。“I am pregnant”とは映画のなかのニーチェの台詞でもあるが、それは映画そのもののテーマの一つであるとともに(実際、それはアンナ・Oの想像妊娠につながる)、私の精神状態そのものであった(このような用法は、女性の生産性の男性による横領と批判されかねないが、私はノーマルな男性を憎んでいる男性なので、ここではあえてこだわらない)。


そのため映画そのものについては、とりとめもない感想を述べることしかできない。アーマンド・アサンテもいよいよニーチェを演ずるようになったのかとか、ブロイアー役(映画の主役でもある)のベン・クロスは、実に見事にユダヤ人になりきっているのだが、私が見た一番新しいベン・クロスは、昨年、衛生放送で3夜(だったか)にわたって放送された、BBC制作のニュルベルク裁判の再現ドキュメンタリーのなかで、なんと、あの精神的に不安定で謎めいた行動をとったルドルフ・ヘスであったので、ナチスユダヤ人との両極端をみて、不思議な感じがした。ルー・アンドレアス・サロメを演じている女優は新人らしいが、ジェフリー・リース・マイヤーズの女性版という感じがして個人的には好きになった。また映画のなかでアンナ・Oは戯画化されすぎていて、彼女の後の活動(彼女を郵便切手に描かせることにもなった)や精神分析への貢献度を髣髴とさせるものがなにもなくて残念だ。


夢のシーンが特徴的で、基本的に、どこから夢が始まり、どこで終わるかは明確ではあるのだが、途中で、夢と現実の境がわかりにくくなるところがあって、現実と思えたものが、夢だとわかり唖然とし、夢でよかったと安堵するようなシークエンスなど、フィリップ・K・ディック(小説における)的なスリリングさがある。しかし夢の場面は、シュールというよも、スラップスティックな要素が多くて、喜劇的になる。同じ題材を扱ったリリアーナ・カヴァーニLiliana Cavaniの映画『ルー・サロメ善悪の彼岸Beyond Good And Evil/Al di la del Bene e del Male(1977)とどうしても比較することになるが、夢・幻想の場面では、カヴァーニの映画の衝撃のほうが大きい(日本公開時にも、山のようにボカシが入ったのだが)。


映画そのものよりも、映画の内容に思わず惹かれてしまったのは、私が以前、論文を書いたことがあるからである。ブロイアーとフロイトの関係、それもとりわけアンナ・Oとの関係について、これを三角関係/スリーサム関係として捉え、そこを基点にして、精神分析の誕生と、フェミニズムの誕生とを重ねあわせつつ、前者を後者が乗り越えてゆく瞬間を考えた論文。私自身、その論文は気に入っていて、折を見ては、さらなるリサーチをして論文をふくらませようと考えていた。そう考えていた。


だから、たとえばこの映画をみても、ブロイアーがベルタとだけしか語られない患者を診ているというだけで、それはベルタ・パペンハイムすなわちアンナ・Oのことだとすぐにわかるくらいの、その程度の知識ならある。ベルタ・パペンハイムについて日本人が書いた伝記的研究も読んだ。もちろんパペンハイムに関する外国語(主として英語だが)文献もある程度集めた。ヒステリー問題は文学研究でも盛んなことは言うまでもなく、そちらのほうの文献もある程度押さえた。おそらくフロイトの生涯について、またブロイアーとの関係についても、一次資料は出揃っているのだろう。だからこちらで一次資料を探す必要もない(もともと歴史家ではないから、リサーチはできないのだが)。むしろ一次資料ををどう解釈するかという段階なんだろう。ならば、こちらにも介入の余地はある、そうたかをくくっていた。


この映画はブロイアーが主役である。これはフロイトとの関係から脇役に置かれてきたブロイアーへの正当な評価を目指す点で画期的なものである。また『ヒステリー研究』の新訳を提供してくれる「ちくま学芸文庫版」*3でも、丁寧な解説の中で、ブロイアーの重要性が強調されている。フロイトよりも、歳が上のブロイアーは、決して、フロイトの引き立て役に甘んずるような凡庸な人間ではなかったし、優秀な内科医であり、また精神科医でもあった。


またアンナ・Oとブロイアーとの関係も、精神分析史のなかでのみならず、いまでは誰もが知るものとなった。アンナ・Oは、ブロイアーの子供を宿したと空想したのである。想像妊娠である。そしてそれがわかったときブロイアーは治療から手を引いた。有名な話だ。この映画のなかでも、ベルタ・パペインはイムは“I am pregnant”と叫んでもだえ苦しんでいる。


この想像妊娠の問題は、私にとっても、フロイト、ブロイアー、パペンハイムのスリーサム関係を解く鍵となるものだった。……だが、ボルチ・ヤコブセンの本に出会うまでは。そしてその後、私の論文計画が費えされるまでは。


Mikkel Borch-Jacobsen, Remembering Anna O: A Century of Mystification (Routledge, 1996)は、ボルチ=ヤコブセンが、その本の出版以前から精神分析学界からは、蛇蝎のごとく嫌われていようとも、絶対に無視できない重要な本である。小著だが、ここには驚くべきことが書いてある。それはアンナ・Oの想像妊娠は、フロイトの証言以外に、確かな証拠がなく、フロイトの捏造に近いこと。それが捏造ではないことを確かめようとしても、フロイト関係者側が資料の公開を拒んでいて、すべては闇の中に消えているということだった。


映画のなかでブロイアーは年下の若き俊英たるフロイトに絶大な信頼を置いていて、時には、フロイトから貴重な助言を受けるし、フロイトのほうでもブロイアーに敬意を払い、この年長の高名な内科医との交友を真摯に受け止めている……だが、この仲むつまじい関係は、絵空事に近いということになる。実際、ちくま学芸文庫版の訳者金関氏の詳細な解説によれば、ブロイアー、フロイトの関係は、たとえ初期には、先輩と後輩の友愛関係だったかもしれないが、その後、微妙なものに変わっていき、フロイト自身、ブロイアーをライヴァルとして敵視していた観がある。となると、想像妊娠説も、まさにさもありなんとしかいいようがない。そこにはまた、ブロイアーの関与をなるべく少ないものにしようとするフロイトの姑息な戦略がみえてくるかもしれない。もしアンナ・O想像妊娠説が、捏造であったならば、それこそ精神分析の根幹をゆるがせかねない大スキャンダルだ。しかし、それが真実か捏造かは、確かめるすべはない。関係する資料は、フロイト側によって封印されているからである。


ただし、アンナ・O想像妊娠が、フロイトによる捏造だったとしても、そこから精神分析の誕生物語を、あらたなライヴァル関係という観点から立ち上げることも可能なので、私の論文の夢も潰え去ったわけではないだろうが、しかし、肝心の資料が公開されていない以上、嘘とも断定できないのである。不確かな基盤の上での構築は不可能である。


しかしこの映画をみて、また別の視点からも考えられるのではないかと思えてきた。精神分析、それも「おしゃべり療法」talking cureの名づけ親がアンナ・Oであることは有名な話である(フロイトに詳しい人なら、アンナ・Oが英語でこう語ったことを知っているはずだ)。精神分析は、いうなれば患者から教わっているというか、患者が生み出した。〈アンナ・O→このアナルの穴〉からは、精神分析が肛門分娩されたのである。医師は患者を癒し、治療するのではなく、患者から癒され、治療を受ける、まさに患者が医師を治療する、それが精神治療だとこの映画はいわんとしているように思われる(原作はどうだか知らないが)。この洞察に加えて、さらにもうひとつの重要な洞察がこの映画にある。それはまさに、ニーチェが、ブロイアーやフロイトの同時代人だったということである。


フロイトはもちろん、ブロイアーも実際にはニーチェ接触してはいなだろう。ただしのちにルー・アンドレアス・サロメ精神分析家となることからも、ひょっとして接点があったかもしれないという空想は、まったくの無根拠ともいいがたい。つまり、あくまでも映画のなかだけの設定なのだと思うが、しかし絵空事としては処理できないところがある。映画のなかでは精神分析の産みの親はニーチェなのである。ニーチェは同時代で最高の心理学者(比喩的にだが)であり、精神療法の達人(比喩的にだが)であると、映画のなかで語られている。ニーチェは、精神分析とりわけその治療法の発案者といってもいいくらい、理論的に完成した心理学を保持していた。というのがこの映画の結論だとすれば、ニーチェ精神分析の出会いをもう一度考えてみるべきかもしれない。精神分析は、べつの手段で継続されたニーチェ哲学であると考えてはどうか。あるいはニーチェの思想は、べつの手段で継続された精神分析であると考えてはどうか。この両者の出会いは、さまざなま可能性に開かれている。

I am pregnant.

*1:ヤーロム『ニーチェが泣くとき』金沢泰子訳(西村書店1998)。

*2:When Nietzsche Wept, dir. by Pinchas Perry, 2007.

*3:ヨーゼフ・ブロイアー/ジークムント・フロイト『ヒステリー研究』(上・下)金関猛訳(ちくま学芸文庫2004)。