障害者


18日金曜日夜日本テレビではピクサー/ディズニーのCGアニメ映画『ニモ』を放送していたが、同じ時間帯の石原さとみのドラマを見ていたので、コマーシャルの間、ちらっと見たにすぎないのだが、いろいろ思い出すこと、思いつくことがあった。昔、映画館で、このCGアニメを観たとき、ニモが障害者(肉体的)だということがわかり、驚いた。予想もしていなかったことなので、かなりあせった。私は障害者の子どもといっしょに映画館でその映画を観ていたからである。


筋書きのうえでは、障害者という設定は、必要であったのかどうかよくわからない。ニモに対して父親がついつい過保護になる。ニモが、それに反発した結果、人間に捕らえられてしまい、父親のニモ捜しが始まるということなのだが(原題はFinding Nemo)、過保護な父親という設定のために、子供を障害者にするのが必要なことだったかどうかわからない。障害者だからといって特別扱いすることは、子供にとっても負担で、結局は差別になると考えるべきか。また子供としても障害者というハンディなど気にせずに頑張れというメッセージを受け取ればいいのか。


オーストラリア近海の珊瑚礁の海の楽園的な光景は、観る者を陶酔させるが、そこには暗黒もある。海の凶暴な捕食者や、魚を捕らえる人間がいるということではない(それは当然の設定である)。そうではなくて、思い出すが、このアニメでは、海には潜水艦が沈んでいて爆雷まで放置されているのだ。潜水艦は無国籍のようだが、この海域に沈んでいるのは第二次大戦中の日本海軍の潜水艦だろう。処理されておらず、いつ爆発するかもしれない爆雷群。この楽園世界にも過去の歴史が沈殿している。楽園は天国的楽天ではなくて、終わらない戦後を引きずっているのである(なおこの『ニモ』を観たときの、馬鹿馬鹿しい後日談は明日、掲載する)。


映画『あるスキャンダルの覚え書き*1にも、障害者(知的)の男の子が登場する。ダウン症であると説明され、体は少し不自由なようだが、コミュニケーションは十分にとれ、むしろ陽気で明るい性格で、家族みんなから可愛がられている。


ちなみにこの映画、リチャード・エアRichard Eyre監督(有名な舞台演出家でもある)のStage Beauty(2004)の次の作品(『アイリス』(2001)からは二番目の作品)にあたり、映画の脚本はなんとパトリック・マーバーPatric Marber、音楽はフリップ・グラスPhilip Grassである。にもかかわらず、たとえば新聞、テレビでは、ケイト・ブランシェットとジュディ・デンチの共演(ともにエリザベス女王俳優。女王様物のファンとしては見逃していたのも変な話だが)ということだけが宣伝されていて、エア、マーバー、グラスという三つの情報が伝えられなかったために、完全に私の視界から消えていた映画で、いつものように公開最終日の金曜日にあわててて観にいくということもなかった。結局、レンタルでみて、あまりのすごさに仰天、即、購入した作品なのだが。


現代のイギリスの社会をリアルに描く映画には佳作が多くて、3月に亡くなったアンソニー・ミンゲラ監督の『こわれゆく世界の中でBreaking and Entering (2006)もまた再開発がすすむロンドンのキングズクロス駅周辺の光景を存在感たっぷりに捉えるものだったが(こちらの映画でも小高い丘の上のベンチが重要な役割をはたす)、この映画のなかでも、現実感のある生活が十分うかがえる。登場人物たちが暮らしている家とその周囲の空間そのものが、濃密な現実性を発散させる。ただ、それ以上に魅力的なのはジュディ・デンチとケイト・ブランシェットの演技で、このふたりのぶつかりあいは言葉を失うほどの迫力がある。たとえば、いや映画のクライマックスのひとつかもしれない場面――愛猫が死んで焼却されている間、付き添ってくれと迫るジュディ・デンチに対し、息子(ダウン症)の学芸会でのパーフォーマンスがあるからそれはできないと、言い争う場面。ジュディ・デンチの執拗な要求と、罪悪感と危機意識のなかで要求をはねのけるケイト・ブランシェット。車の外で争う二人に痺れを切らして、夫のビル・ナイが車から降りて、いい加減にしてくれ、早く、車に乗れと激昂する場面、あの場面は、パトリック・マーバーの脚本と演出の素晴らしさで、見ていて、ほんとうに失禁しそうになった。


また映画に登場する15歳の少年は、ほんとうに15歳で、セックス・シーンは演技だとしても、未成年に対して、芝居とはいえ、おまえ煙草吸いすぎだろうと言ってしまたくなるほど煙草を吸わせすぎで、よいのかと心配になる。そしてケイト・ブランシェットの息子という設定のダウン症の子供。体は大きいし年齢も10代後半かそれ以上の彼は、本物のダウン症のようにみえる。あれが俳優の演技だとしたら、そのすごさに脱帽する。逆に本物のダウン症の人間だとしたら、役者として使っていいのかと疑問になる。俳優の演技でじゅうぶんに再現できるにもかかわらず。実はこれは大きな問題のような気がするが、ただダウン症であっても俳優の仕事はできる。ダウン症の人間としてしか登場できないわけだから、役の範囲は狭くなるが、これからも俳優として頑張れとも言いたくなる。それでよしとすべきか。


ただしこの映画、ダウン症の人間まで使うくらいリアルでありながら、また現代イギリスの庶民の平均的な学校生活のカオスを赤裸々に示しながら、シナリオそのものは、マーバーだからというわけではないだろうが、マッチョな男性の画一的な女性観から一歩も出ていない。女は一皮向けば淫乱で、妬み深く、陰険であるというのが、この映画のメッセージなのだから、女性差別異性愛ジェンダー観の呪縛のもとにある。レズビアンを吸血鬼として悪魔化している点でも、それはいえる。


ちなみに語り手であり、ノートの記入者でもあるジュディ・デンチは、先ほどのダウン症の男の子について、ミドル・クラスの家庭の両親をなごます“court jester”とかなり冷酷でシニカルなコメントを日記に書く。しかし映画のなかでは、そうコメントする彼女もまたステレオタイプの人間として見られている。彼女は、一家の主婦であるケイト・ブランシェットの友人として招かれるわけだが、この設定の原型となるのは、どこの家族にもいる独身の伯父・叔父、伯母・叔母さんだろう。この「オジサン・オバサン」は独身者で、たいてい同性愛者である(たとえば映画『リトル・ミス・サンシャインLittle Miss Sunshine (2006)のなかで、子供たちには母方の伯父さんあたるスティーヴ・カレル(『40歳の童貞男』)は、カミング・アウトしたゲイで、大学の教員でプルースト(ゲイです)の専門家だった)。逆に言うと、そういう地位とか立場の人間には必然的に同性愛者のイメージがつきまとうということだろう。映画のなかではジュディ・デンチ扮する初老の独身の歴史教師は、そうした独身のオジ・オバの影があり、それだけでレズビアンなのであり、いよいよ彼女がレズビアンの本性を示し始めても誰も驚かないだろう。たとえそのレズビアンのイメージが悪辣なしつこい吸血鬼のそれだとしても(事実、私は、この映画の男性版のような映画をみたことがある。ただ、どこでどういう映画だったのかいまも思い出せなくて、いらいらするのだが)。


そして同じことは私自身についてもいえる。私もまた、現実には、映画のなかではよく登場する独身の「オジサン」なのだから。そしてそのような「オジサン」は一般に障害者とみられている。まあべつにかまわないが。

*1:Notes on a Schandal (2006) dir by Richard Eyre.