文化と抵抗

本日、サイードの『文化と抵抗』について話をするように頼まれたので、午前中、2時間のうち1時間ほど話をして、残りを質疑応答の時間とする小さな会(15名くらい)で話をした。話と言っても、中身は読めばわかるので、あえて触れずに、パレスチナ情勢を、ユダヤ人の移民から現在のロードマップの破綻まで解説することにした。幸い、ちくま学芸文庫版の巻末には、地図・図表が13ページにわたって、ついている。それに、さらにこちらで数枚地図を補って、複雑怪奇で、いまなお先の見えないパレスチナ情勢を説明したが、さすがに、めんどうなエルサレム管轄問題の前で息切れしてしまった。エルサレム問題は省略。とはいえ日本ではまだまだなじみの薄いパレスチナ問題について始めてまとまった説明を聞いた人にとっては、わかりやすくて有意義だったようだ。


説明のあと、サイードを偲んでヴィデオ映像のほんの一部を見た。『アルジェの戦い』の映画監督ポンテコルヴォに関する、サイードがナレーターとプレゼンターをしているドキュメンタリーで、アメリカ版『アルジェの戦い』のDVDの特典映像に入っているものほんの一部。もうひとつは『最後のインタヴュー』と題されたイギリスのDVD。インタヴュー時期は、『文化と抵抗』の最後のインタヴューと重なる。イギリス版DVD『最後のインタヴュー』の冒頭では、やつれたサイードが病気の話をしていて、自分は、強い意志と集中力をもってすれば、病気など克服できるという信念をもって生きてきたが、残念ながら、そんなことはできないとわかった、一日の午後4時になると脱力してしまって何も出来なくなるという愚痴から始まるインタヴューで気が滅入るのだが、しかし、それでも三日間のインタヴューをこなして、200分に近い映像となって残った。すごい人だとつくづく思う。


質疑応答では、ふたつのコメントが気になった。一般読者でもあるので、あまり込み入った答えはできないのだが、ひとつは、サイード世俗主義――サイードがアフマドとも共有している世俗主義――は、やはり西洋の合理主義の考え方に毒されたものであり、西洋の教育をうけたサイードにとってはしかたがないものかもしれないが、宗教の力、あるいは原理主義の力なりその意義なりを無視しては中東も含め非西洋世界は語れないのではないか。世俗主義は、サイードの特徴というよりも、むしろサイードの限界ではないかというコメントだった。


これに対して、私は、こう答えた。西洋は合理的・啓蒙思想であり、非西洋は宗教原理主義であるという考え方こそ、西洋が勝手に捏造したものである。オリエンタリズムという言葉は使わなかったが、非西洋を、マニアックで非合理的な宗教原理主義と同一視し、そこに非西洋を神秘と野蛮のなかに閉じ込めようとする見方(まさにオリエンタリズム)こそ、西洋のお得意のものである。たしかに宗教原理主義が20世紀の後半、第三世界に台頭し、そこを席捲しているようにみえるが、それだって客観的事実として認識できる部分と、西洋による捏造である部分とがまざりあっている。そして非西洋における宗教原理主義に基づくテロに苦しんでいるのは、西洋の人間だけではなく、非西洋の人間もそうである。非西洋の宗教原理主義を批判するのは西洋人だけだというのは、まったくの事実認識に反するだけでなく、非西洋の人間に自省能力と批判能力と認めず、あくまでも野蛮状態に封じ込めようとする暴力以外のなにものでもない。


以下は、言いそびれたことだが(実のところ、翌日『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』を見て言いそびれたことを思い至ったのだが)、非西洋の専売特許としての宗教的原理主義を云々することの問題性は、とりもなおさず、それが西洋における宗教原理主義の暴挙を隠してしまうことになる点である。宗教原理主義と非西洋との結びつきは、宗教原理主義は非西洋にだけあって、西洋にはないことのイデオロギーとして機能する。正確にいえば西洋というよりも、アメリカだろうか。アメリカのキリスト教原理主義ブッシュ大統領もそうだが)のもつ恐ろしさこそ問われ、告発されなければならない。アメリカのキリスト教原理主義のすさまじさ恐ろしさこそ、アメリカ人を含む世界中の人間が非難し消滅させなければならない。非西洋の宗教原理主義がどうのこうのだの、世俗主義はサイードの限界などと、能天気なことを言っている場合ではない。それこそ西洋のもつ術中にはまることではないか。いや、西洋というよりも、くたばりぞこないのネオコンの言い分の後追いではないか。


もうひとつのコメントは、イスラエルに旅行したことの自慢でもあったので、そのコメントの問題性を強く非難はしなかったが、それは、イスラエルという国は、旅行するとわかるのだが、小奇麗な文明国で、周辺のアラブ諸国とは全然違う。それが周辺の野蛮な国の、なにもわからない無知な若者たちのテロにあって攻撃され危険なめにあっているのは、なんともしのびない、というものであった。


これに対して、ここまでパレスチナ人を圧迫し、いえ、虐殺しておいて、イスラエルのとこが文明国といえるのかと答えておいた。もし私の国が、いくら国家というものが、他国民や他民族に対する暴力を行使するものとはいえ、いま現在(過去の話ではなくて)、いま現在、イスラエルのように他民族を殺しておいて文明を謳歌していたら、はっきりしって私は恥ずかしいくて生きていけない。それこそ、命がけで、自分の政府に抗議するか、海外に移住する。イスラエルが文明国でありつづけることを、私は望むが、血塗られた文明国であって欲しくないし、またイスラエルは野蛮国、ならず者国家でありながら、野蛮性を他国や他民族に押し付けることだけはやめてほしいし、そのことは絶対に許せない。


たしかにイスラエル自爆テロの脅威にさらされているのは事実であろう。しかし、自爆テロイスラエル人一人を殺したら100人のパレスチナ人が殺されるのである。だからイスラエルこそ、パレスチナ人を殺す口実として、自爆テロを望んでいる。テロは絶対にしてはいけない。結局、それは戦略的にみて敵の思うつぼなのですから。


さらにいえば、周辺のアラブ人のものもなにもわからない若者が、年寄りの狂信者に騙されてテロに走っていると、もしイスラエルが考えているなら、絶対にイスラエルは許せないし、そんなことを真に受けてはいけない。いいですかイスラエルは、パレスチナの学校を閉鎖している。この学校閉鎖というのは、ほんとうに許しがたい暴挙としかいいようがない。字もろくに読めないパレスチナの子供がふえている。パレスチナの子供たち、パレスチナ人は、野蛮な状態に置かれている。そうして何もわからないまま、宗教的狂信に染まっていき、テロに走る。テロリストを育てているのは、パレスチナ人ではなく、イルラエルだ。イスラエルがテロリストを養成し、みずからの国民の一部を犠牲にして、パレスチナ人のホロコーストをたくらんでいるのである。


ここまで終わり。あと、つぎのように言いたかった。あんまり能天気なことを言っていてはだめですよ、イスラエルの悪辣ぶりをしっかりみるべきです。もしイスラエルまで行くとしたら、サイードのように、そうした野蛮なイスラエルにも、それを憂うイスラエル市民もいるという事実こそみるげきなのです。わかりましたか。この**とは言えなかったが。


池袋の会議室だったので、日曜日、終わったあと、近くのシネ・リーブルで映画をみることにした。『ネルソン・マンデラの名もなき看守*1』 。


実話に基づく映画とあり、「名もなき看守」という日本のタイトルは、看守には名前があって、2003年に病気で死んだということもわかっているので変なのだが、原題のままではなんのことかわからないので、まあしかたいかもしれない(原タイトルの意味は、映画を観ないとわからない)。ネルソン・マンデラ役のデニス・ヘイスバートDennis Haysbertは、マンデラにまったく似ていないのだが、『24』ではアメリカ大統領でもあって、威厳はしっかりとある。トッド・ヘインズの『エデンの彼方』Far from Heaven (2002)の庭師役でも、こんなりっぱな庭師はいないよと思われせるぐらいに人格者的なイメージがあって、そういう意味ではマンデラ役には似合っているのかもしれない。あと看守役のジョゼフ・ファインズとその妻にダイアン・クルーガーとくると――看守の妻役は、ダイアン・クルーガーにとっては「役不足」(正しい使い方です)だが――、一応、まあ、私が保守的なのかもしれないが、安心して見れる映画となっている(たとえば『ミスト』は、達者なベテラン俳優が多く出ているのだが、しかし、スーパーマーケットの内部という設定も手伝ってか、なにか日常的で安価な感じがいなめないのだ)。ただ、午前中にパレスチナの話をして、それについて、いろいろコメントをもらった。また、まったく先が読めないパレスチナ情勢と、こうしているときも、殺されているパレスチナ人の運命を考えると、この映画も、映画そのものというよりも南アフリカでのアパルトヘイト撤廃、いまもアパルトヘイトに苦しめられているパレスチナの人々を考えずにはいられなかった。


感動的な映画でもあるので、なにも私が特別なわけではないが、パレスチナ人の運命と南アフリカの黒人の運命とが重なりあって、涙なくしては観れない映画であった。イスラエルは、マンデラを大統領にした南アフリカと同じ運命を辿れるのだろうか。またイスラエルが良き南アフリカ化しても、それまでにどれほどの血が流されるしかないのだろうか。

*1:Goodbye Bafana (2007) Dir. by Bille August. 20世紀の終りにつくられた『レミゼラブル』の監督。