ミネ・ハハ2


ジョン・アーヴィン監督の『ミネハハ』(日本語のタイトルは、・が入らないのでした)は、残酷な終わり方をしていて、原作あるいは『エコール』では、ぼかされていた状況なり結末を露骨に示したことで、評判が悪そうですが、しかし、あのような結末は、『エコール』をみても、十分に予想できること、そしてさらにいえば一見問題がありそうで、実は、『エコール』よりも毒を少なくしていることを考慮すべきです。


アーヴィン版『ミネハハ』は、最終的に劇場で踊る少女たちの年齢を上げている。『エコール』の少女たちが日本で言うと小学生くらいなら、『ミネハハ』の彼女たちは日本で言うと高校生くらです。思春期の女性が性的欲望の対象となるのは、まあ、そんなにへんなことではないのです(と同時に『ミネハハ』では、女子寄宿寮にありがちなレズビアンが前面に出されています)。いっぽう『エコール』に登場するような少女たちが、性的欲望の対象となるというのは、これはあきらかにペドフィリアの世界ですよね。『エコール』が女性ではなく、小児への、性愛的眼差し題材にしていることはまちがいなく、たとえ、残酷なことは起こらないとしても、ペドフィリア的欲望は紛れもなく喚起されている作品なのです。


以下、アマゾンでの映画『ミネハハ』に対する感想です。

私は原作本の"ミネハハ"は読んでいませんが、この作品を観賞し終わって、同じ原作でこれ程違うか!?・・・と思いました・・・お話のメインになる少女達の年齢も、17歳前後になります。 大人になった分(?)ストーリーも残酷で現実的で俗っぽくなります。 はっきり言ってこの映画の中の学校関係者の大人はみんな犯罪者で悪人です。(みていて途中で少しイライラした) "エコール"のような神秘的な雰囲気や美しい映像は皆無と言ってもいいです。 "エコール"のような作品を期待して買うと残念な気持ちになるでしょう。(映像特典もありません)・・・でも、一つの作品としてみて星2つです。

この人の『ミハハハ』評に文句をつけるつもりはないというよりも、正しい評価だと思うが、問題なのは『エコール』を「神秘的な雰囲気や美しい映像」の作品として『ミネハハ』よりも病的な面をまったく見ていない点である(『エコール』に登場する女性のバレーの教師はエディット・ピアフだけれども、彼女も映画のなかでは犯罪者ですよ)。


次は「少女好き(東京都)」さんから。

……「エコール」は本当に少女と純心(イノセンス)の世界という感じでしたが、 この「ミネハハ」は思っていたよりも学園の少女達の年齢、少なくとも外見年齢が高くて、純心というよりは長年学園に閉じ込められている為ただの世間知らずという感じしか見受けられませんでした。 規則に忠実に従って生活している生徒。世間知らずで好奇心旺盛な生徒。 規則を破って報いを受けた生徒。学園生活はそんなどこにでもあるような感じです。 ですが「エコール」よりもストーリー性を求めて観賞をするのなら また別の捉え方があるかもしれません。 学園の中で起こる事件には失踪→殺人、負傷→殺人もあります。 ラストも「エコール」や原作のように曖昧ではなく、好みはどうであれちゃんと落ちがついていますので観終わった後に「…?」と思う事は無いと思います。自分の期待してた少女がもう少し低年齢だった事もありこんな意見ですが、出てくる生徒達には綺麗な子がバレエを踊っていたりしてちゃんといますのであまり拘りが無いのなら目の保養にはなると思います。 購入する場合は「エコール」や原作の「ミネハハ」のことをあまり考えずに、 世界観や雰囲気で決断するのがいいと思います。

ちょっと待って欲しいですよね。私は映画『ミネハハ』を擁護するつもりはまったくない。ただ『エコール』のほうが『ミネハハ』よりも残酷度が高くて、変態性も高いことが理解されていないことに唖然とするのです。映画をみればわかるように、『ミネハハ』では、映画のなかの刑事は、この寄宿学校のあり方を疑っています。それを疑ったがゆえに左遷されるのです。この寄宿学校は、赤ん坊の頃から少女を教育して貴族の性の奴隷に仕上げる悪徳学校なのです。そして赤ん坊は、人身売買もしくは拉致されてきたのです。私は勝手な妄想を書いているのではありません。映画のなかの物語がそうなのです。


それが「規則に忠実に従って生活している生徒。世間知らずで好奇心旺盛な生徒。 規則を破って報いを受けた生徒。学園生活はそんなどこにでもあるような感じです」というのは、言葉を失います。しかもペンネームが「少女好き」。そしてこの「少女好き」さんは、「学園生活はそんなどこにでもあるような感じです」と書いていて、どこにでもあるような、映画で明白に描かれている学園生活のレズビアンについては沈黙しているのです。


いいですか、たとえば「レイプ好き」とかいう名前で、ポルノのファンサイトかなにかで書き込みをするのは、問題はあるものの、許せます。なぜなら犯罪性を認識し、犯罪のファンタジーと戯れていることを自覚し、その戯れを、特定のファンどうしの間でのファンタジーとして楽しんでいるため、ある意味、まだ健全なのです。しかし、その犯罪性あるいは犯罪につながる/代用となるファンタジーに、まったく無自覚なまま、みずからの欲望を公言しているのは、許しがたい行為です。「俺は女をレイプするのが好きだ」と大声で町を歩いているようなもので、誰だってというか、よほど頭がおかしな人間でも、そんな馬鹿なまねはしない。それをこの「少女好き」は、しているのです。いや、その手の投稿が多くて、ほんとうに私も告発するために投稿しようと思ったくらいですが、やめました。


なぜなら以下のような投稿があったからです。

映画自体としては描き足りないと思うが、エコールに比べれば断然良い。エコールは、現実を見ようとしない、偽の美しさで表面をとり繕った、薄っぺらい世界。比べてこちらは「なぜ美しさが求められるのか、なぜ美しさは哀しいのか」を考えられる現実的世界。エコールを愛好する人達に、今一度考えてもらいたい…。犯罪を曖昧にごまかしたエコールの世界を、美しいなどと言ってうっとりする感覚は、幼児性犯罪擁護と表裏一体では?己の中に潜む犯罪性を認めているのならば、それもいい。しかし無自覚では危険すぎる。

まったくそのとおりです。このコメントをよく読んで欲しいですよね。もちろん『エコール』だって、その寄宿学校が不気味なところであることを何度も強調していることは、付け加えておきましょう。映画をみれば、それは認めますよね。『エコール』では、その外側にある恐ろしい真実は、ちゃんと暗示されているのであって、あなたがそれをみても、その危なさ、あやしさを理解しないのは、やはり驚きといえなくもありません。


とはいえ、あなたにもわかっていたと思うのですが、映画『キャンディ』の話をしようとしていましたよね。そのとき最近の映画『キャンディ』と聞いて、これは今年急死したヒース・レジャーとコニー・アーヴィシュが出ているオーストラリア映画かと思って、それがどういう関係があるのか質問したのですが、たぶん、あなた自身、うろ覚えだったのだろうと思いますが、私もうろ覚えでした。『キャンディ』ではなく、『ハード・キャンディ』のほうでしょう。


私もすぐに気づかなかったのですが、『ハード・キャンディ』*1なら、わかります。映画『リトル・チルドレン』*2で、欲求不満をかかえた主婦のケイト・ウィンスレットと不倫関係にいたるのだけれど、ほんとうは町でスケボーをしている少年たちを姿をみるのが好き(そのぶんケイト・ウィンスレットは報われない)という隠れゲイ(無自覚のゲイ)の男性を演じていたパトリック・ウィルソンPatric Wilsonが、小児性愛者で、14歳の少女から復讐されるという『ハード・キャンディ』。その復讐の死神少女を演じているのが、いまをときめくというべきか『ジュノ』の主役のエレン・ページEllen Pageでした。


いやそれをいうなら、いま名前をあげた『リトル・チルドレン』という映画そのものが、隣にいる小児性愛犯罪者もテーマとなっていて、タイトルも、子供のような大人たちという意味のほかに、小児性愛と子供たちとの危険な関係を暗示するものでした。そして『ハード・キャンディ』と『リトル・チルドレン』に共通する小児性愛の世界はまた、去勢の処罰とも関係してました。重たいテーマです。『エコール』の、かわいらしい女の子の姿をみて喜んでいる人間は、変態とはみなされていないということ自体が、問題なのであって、自覚がないのは、あまりに危うすぎる。


そしてあなたは『ハード・キャンディ』を通して、何か言おうとしていたのですよね。それを聞かせてください。


つづく

*1:Hard Candy, dir. by David Slade, 2005.

*2:Little Children, dir. by Todd Field, 2006.