光は東より


6月29日仙台で話をしたとき、あとで外国人の女性から質問というかコメントをもらった。その女性は、私よりも日本語が上手く―まあ私の日本語はひどいものだから、比較しても意味がないかもしれないが、その流暢な日本語は、Small Japanese, less Englishの私には、ただただ、うらやましいとしかいえない−その女性からコメントをもらった。


それは、私が話のなかで披瀝した考えは、さらにつきつめれば、こういうことではないですかという確認であった。しかし、それはまったくそのとおりで、私が考えたことの延長線上に、そういうことが言えたのだが、残念なことに、私はそれを自分で気づく、あるいは、そこまで思考を突き詰めることをしなかった。他人から指摘してもらっている。岡目八目という、いまでは若い人にはわからない諺のとおりといえば、それまでだが、ちょっと、恥ずかしくて、なさけないわい、自分としても。


と同時に、頭がいい人もいるものだと、かなり感服した私は、せめて名前(できれば所属)でも聞いておけばよかったと、反省した。彼女が導いてくれた、帰結は、私にとって、きわめて魅力的な帰結でもあり、私としては彼女に畏敬の念を抱いたと言っても、大げさなことではなかった。


そして本日、エレベーターを待っていたら、その女性に後ろから声をかけらた。「仙台では、どうも」と。え、え、え、私の大学の学生(留学生)。な、なんと。文学部に所属しているれっきとした外国人大学院生。東欧から。私の授業に出ていたということはない。いくらなんでも、そこまでボケていない。それにしても。