クィア・ファミリーの夢


本日は淵野辺での用件を終えて、池袋に到着したら、時間があったのでシネ・リーブルで映画。上映直前だったので、午後6時35分の『イースタン・プロミス』が満席に近かったら、6時55分の『JUNO』にしようと考えていたら、金曜日の夜なのに、同じフロアのレストラン街は人であふれているのに、映画館には人がいない。『イースタン・プロミス』の整理番号が14。結局、上映時には全体で観客は30名くらいか。とはいえ、上映が終わったとき、次の回の観客がたくさん待っていたので、私が見た時間帯には人がいないのかもしれない。


イースタン・プロミス』は、どんな残酷映像が出てきても見てやるぞと覚悟していたら、案外地味で、しぶい映画だった。内容は、ネタバレになるので書けないが、まあ『アフタースクール』と同じようなといえば、どちらも見た人なら、なるほどと思うかもしれない。


ただそれにしてもヴィゴ・モーテンセン、どうみても、人相の悪い「なだぎ武」(それもディラン・マッケイの)といったところで、その発想から離れられなくなったので、ナオミ・ワッツも、友近に見えてしまい、困った(ナオミ・ワッツ友近は似ていないが)。いや、どうも緊張感に欠けた姿勢だったかもしれないが、冒頭、首を切られる凄惨な暴力シーンから、張り詰めた雰囲気の中で物語が持続するかと思いきや、案外そうでもなかったりして、暴力シーンも、思ったほどない。R18にするほどのものではないと思った。死体いじりがあっても、そんなに長くない。そのうちに徐々に緊張感が薄れてしまい、ヴィゴが、なだぎ武になってしまい……*1


またヴィゴの話す英語は、リアルにロシア語訛りの英語になっているのだが、やはりそれはどうみてもステューピッドな英語なので、肩透かしをくらう。ヴァンサン・カッセルふんするバカ息子のロシア語訛りの英語がステューピッドなのは違和感がないのだが、かっこよくて怖そうなヴィゴ・モーティセン(作中での登場人物名は、ナボコフの小説からとられているらしいのだが、ナボコフの小説についてよく知らないので、なんともいえず)のロシア語訛りの英語は、違和感マックス。それでいつかしかヴィゴはなだぎ武に。


ちなみにこの映画ではロシア語訛りの「クィアqueer」という英語を何回聞いたことだろう。まあ「変態」という意味と、「男性同性愛者」と同義で使われていて、「クィア(男性同性愛者)だ」という噂を流されて起こったバカ息子のヴァンサン・カッセルが、噂を流した仲間を殺させるところから物語は始まる。ヴァンサン・カッセルは、「クィア」ということを常に気にしていて、運転手のヴィゴに、「クィア」じゃないことを証明させるために、娼婦とのセックスを強要する。


ただし映画の展開でわかるのだが、ヴァンサン・カッセルクィアは根も葉もない噂ではなくて真実である。彼は女性に欲情しないクィアであることがわかる。クィア性は、このロシア・マフィアの世界では忌み嫌われ、嘲弄と否定の対象となっている。しかしクィア性を否定してしまうと、ロシア・マフィアの悪魔性をどうやって出すかが問題となる。結局、この映画のなかで、クィア性は否定されつつも、ロシア・マフィアの悪魔性の構築に必要とされるのであり、まさにデリダ的代補ということができよう。


つまり何度も否定されるクィア性が、ロシア・マフィアあるいはここに登場するギャング連中の特徴に仕立て上げられて何度も召喚されるのである。このことは、この映画でのクライマックスともいえる、サウナ風呂(英語ではpublic bathhouse)での大格闘シーンからも見て取れる。ヴィゴはサウナの客として来ているから素っ裸である。そこに殺し屋が二人、着衣のままで殺人用ナイフをもって登場する。裸で丸腰のヴィゴと、黒いレザーを着た、ナイフを持つ殺し屋二人との壮絶な格闘シーン――ナイフが容赦なくヴィゴの裸体に突き立てられ、皮膚を切り裂き、血しぶきと悲鳴を引き出すとともに、殺し屋たちもヴィゴからの反撃にあって刺し殺される――は、ヴィゴの裸体(モザイクは入っていないが、チンポコは見えるか見えないかの状態)、そして裸体地面を埋め尽くす刺青、そしてまた出血によって、エロチックな興奮すらもたらす。まさに、この映画を代表する場面であろう。


他のサウナの客も含めて、男たちの裸体、そして肉体のぶつかり合い、それはまた実にクィアでもある。私の勝手な妄想ではない。ロシア・マフィアの入れ墨は、文字通り入れ墨で単色で、日本の刺青とは異なり、芸術性はなく、装飾性も最小限で、ただ本人の履歴のかわりをするような情報性をもつものとなっている。そしていま日本の刺青といったが、ヴィゴのサウナ風呂での全裸の格闘する肉体と刺青は、明らかに、日本のヤクザ映画から影響を受けている。その残酷さ、そのエロスを、そのクィア性ともども、この映画は全面的に引き受けようとしている。クィア性――イースタンな世界は、ロシアであれ、トルコであれ、暗示される日本であれ、どれもクィアだというのがウェスタンのステレオタイプ的な見解だからである。


事実、冒頭でロシア人を殺すアジズというトルコ人少年も、トルコ人であるということそれ自体でクィアであり、理髪店での主人とはクィアな関係にあるようだ。またクィアの噂に憤るクィアなヴァンサンカッセルと、ヴィゴとのロシア人どうしのクィアな関係。そしてクィア性を独身性との圏域とも連動させると、この映画では、結婚している人間は主要人物にはなく、主要人物はみんな独身だとわかる。ヴィゴは独身。ヴァンサンカッセルも独身。マフィアのボスも妻を亡くして男やもめ。ナオミ・ワッツも独身。彼女が身を寄せている家のおばも独身で、おじも独身のようだ。また黒人の医師と恋人関係にあって破局を迎えた助産師のナオミ・ワッツは、人種間の境界を超える点で、クィアであり、さらにふたつの世界を行き来するという意味では、ヴィゴもまたクィアである。ヴィゴは、マフィアの世界の住人でありながら、一般人の女性と接触するという点で、境界横断者であり、そしてもうひとつの点でも……。


映画は、その終わりでふたつのシーンをみせる。ひとつは、出産したあと死亡したロシア人少女の赤ん坊(赤ん坊はボスの子供なのだが、この点も、常盤貴子の子供が有力者の子供であることを暗示している『アフタースクール』と似ている)を引き取ることになった独身のナオミ・ワッツが、独身のおばの家で、独身のおじと、新しい生活をはじめようとしている光景。その擬似親子・擬似家族は、クィア・ファミリーである。クィア・ファミリーの門出となる。


明るい光景は、一転して暗いロシア・レストランの内部にかわる。そこではヴィゴが、どうやらレストランのオーナーにおさまっているらしい。彼の計画通りにことは運んだことがわかる。しかし、それはまたミイラ取りがミイラになったのではという暗示もある。結局、マフィアの世界にどっぷり長くつかった人間は、マフィアから抜け出ることできなくなる。あるいは闇の世界が彼をつかんではなさなくなる。こうして彼は21世紀になってクローネンバーグがつくってきた映画のヒーローたちに、『スパイダー』のレイフ・ファインズ、『ヒストリー・オヴ・ヴァイオレンス』のヴィゴ・モーテンセンに、連なるのである。ナオミ・ワッツとの別れは、それは最後の別れであったことがわかる。彼は闇の世界から帰還できない気配が濃厚なのである。


と同時にここにはもうひとつのクィアな人間関係が対照されているとみるべきだろう。独身者から構成される擬似家族となって新しい生活をはじめるナオミ・ワッツのクィア・ファミリーと、独身者たちを構成員とするロシア・マフィアという、もうひとつのクィア・ファミリー――ロシア・マフィアは、自分たちのことを「ファミリー」と呼んでいるのだ――、ふたつのクィア・ファミリーの光と影。影があるからこそ、光は、いっそう輝かしく感じられ、また闇の世界は、ほんとうにドアひとつ隔ててて光の世界と接しているという恐怖。闇であれ、光であれ、クィア・ファミリーはこの映画のなかで中心に位置しているのである。

*1:別に眠ったわけではない。ちなみにネット上には眠ってしまった人の感想があって、ヴィゴがなぜ命を狙われたかがわからないと書いてあったが、それは相当、寝込んだとしかいいようがない。映画をふつうにみていれば、なぜヴィゴが襲われたのか、わかるので。