プライス


新劇の翻訳劇、いえ新劇でなくても翻訳劇一般というのは、日本人が、外国人(たいては白人)に扮して、相手をジャックとかベティとか呼びあって、たとえいくら着ているものが洋装であっても、また身ぶりがなんとなく外国人であっても、どうみても日本人にしかみえない男女が、日本語で、会話をかわすという違和感あるいは茶番感が耐えられないと考えるむきもいるかもしれない。外国の文学を翻訳で読むのは、さほど抵抗がない。頭の中で違和感なく外国の風俗習慣、外国の風景、外国人の喜怒哀楽が想像できる。しかし外国の芝居となると、目の前に生身の日本人が出てくるために、どうしても違和感が払拭しきれない。滑稽ですらある、と。


しかし、それは舞台で翻訳劇を、いや、そもそも舞台を見たことがない人間が考えることである。たとえ日本人でも、それをニューヨーク在住にユダヤ人に見立てるという見立ての想像力こそ、演劇の本質であり、これによって男女のジェンダーの壁も乗り越えられる。男が女を、女が男になること、それこそが演ずることであるなら、日本人が外国人になる演技を許容できないのは、たんなる想像力の貧困でしかない。


しかしである、そうしたこと以前に、本場の劇と、それを翻訳した劇との関係は、本物と偽物、重厚と茶番、真摯と滑稽というような関係では絶対にない。たとえばシェイクスピアなり、ヘンリー・ミラーなりの芝居を、本場のイギリスやアメリカで、英語で上演される舞台をみることは、すばらしく充実した劇的体験が得られるであろうが、その翻訳劇となると、本場の本物には、どうしても負けてしまう、いや、負けどころか、本場の迫力のまえに、あとかたもなくなる、と、そう考える人がいたら、それはまちがっている。イギリスやアメリカで、本場であるはずなのに、気が抜けたような演出のシェイクスピア劇やヘンリー・ミラー劇は多いのだ。劇団「民藝」が、ミラー劇を民藝劇として自負しているとしたら、それは嘘偽りなく真実として受け止めていいし、そこになんら誇張も歪曲もない。つまり民藝のミラー劇は、本場をしのいでいておかしくないのである。


くりかえすが、もしあなたが演劇ファンだとして、日本で翻訳劇としてみている演劇作品を、イギリスやアメリカの地でみたら、本物に接する興奮を味わえると想像していたとしたら、その想像は、実際に、イギリスやアメリカに行ったら、たちどころにで裏切られることはたしかである。気の抜けたような腑抜けの芝居は多い。日本の翻訳劇から伝わってきた緊張感など微塵もない演劇が上演されていたということはざらにある。日本の翻訳劇を馬鹿にしてはいけない。それは本場の演劇をしのぐことが多いのだ。外国から演出家を招いて、翻訳劇の演出をさせることもあるが、まあ、国際交流としてそういう試みがあってもいいが、日本人の演出家のシェイクスピア劇やアーサー・ミラー劇のほうが、まちがいなく本場の演劇をしのぐことは、ごくふうつに生じている。


劇団民藝の『プライス』を紀伊國屋サザンシアターでみた。


日本初演といこうことで、確かにこの芝居が、翻訳はあっても(私はどういうわけか早川書房アーサー・ミラー全集のこの作品が入っている巻だけをもっている(『代価』のタイトルで翻訳されていた))、これまで上演されてこなかった理由はわかるような気がした。台詞が多い地味な芝居だからともいえようが、それよりもなにも、解釈がわかれるからである。プログラムを買ったが、けっこう活字の多いプログラムで、読ませる文章も多いのだが、そうした文章を読んでみると、執筆者たちがいろいろなことを書いているものの、どれも重なり合うものがない。多様性といえば聞こえはいいかもしれないが、最終的にさまざまな解釈をひとつに収斂させるような核心めいたものが、この芝居からみえないからである。


と同時に、またこの点を認知していないがゆえに、多くの評者が「傑作」とほめていても、どこが傑作なのかうまく説明できないでいることとは、この作品がサイード的な「晩年のスタイル」で貫かれていることである。救いもカタルシスもない。最後に、なんとなく笑ってごまかしているところもあるが、対立は対立のままであり、そこに弁証法止揚があるわけでもなく、和解と協和が達成されることもない。最後まで対立は残り、安易な解決を峻拒する。


登場人物四人は、みんな「負け犬」である。社会的にもっとも成功しているらしい兄の医師も、心を病んでいる。有能な警察官としてキャリアを終えようとしている弟も、ほんとうは化学の研究者をめざしていたため、結局、負け犬である。そもそも父親が大恐慌で破産した負け犬であった。その父親にふりまわされたあげく、兄弟対立に陥った人物たちは、対立し抵抗することはあっても、抵抗が功を奏するとは夢にも思っていない。だが、抵抗はつづけられる……。


イード的「晩年のスタイル」の特徴ともいえる、和解も求めず、成熟もなく、あるのは徹底した抵抗だけという状況は、この劇の世界と見事にシンクロしているのである。その意味でアーサー・ミラーのサイード的「晩年のスタイル」に接することはできた点で、私には貴重な演劇体験だった。


劇は前半と後半に分かれるが、前半は古い家具を見積もりに来た老古家具商人と、家具を処分しようとする警察官の弟との会話であって、事態はいっこうに進展しない。恥ずかしながら、私は前半で一時的に意識を失っている。後半はというと、兄弟の確執があらわになり、つぎつぎと虚偽が打破され、防衛のための精神的鎧がつぎつぎと無用の長物し、あわただしく一気に結末までつきすすむ。この後半は、眠ろうとしても眼が覚めてしまうほどの驚くべき緊張感が劇中世界を支配する。兄弟の対立の原因が暴かれ、掘り下げられる、まさに一瞬たりとも気を抜けないような緊迫したやりとりがつづくし、そこは劇作家としてのアーサー・ミラーの劇的構築力が遺憾なく発揮され、その劇的迫力は、見事の一語につきる。劇作家の晩年の作品だが、その創作力はいささかたりとも衰えていないともいえるだろう。


だが、たしかに後半の迫力には、並々ならぬものがあるが、長いキャリアのなかで磨かれ修練を積んだミラーの劇的想像力にとって、そうした緊迫した場面は、職人芸的に、機械的に――もちろん名人芸的に――創作されるものだろう。むしろわたしたちにとっては、ミラー自身が、名人芸ともいうべき技巧を駆使して構築する心地よい緊迫感が終始漂う後半よりも、前半の、どちらかといとアクションが展開せず、のらりくらりとした、とりとめもなく、つかみどころのないやりとりのなかに、まさに前半の弛緩したアクションのなかに、これまでにない、なにかを生じさせようとしながら、またいまだ到らずの状態がつづく、特記すべき事件といえる側面があるのではないか。象徴性なり状況整理と問題提起なりがともに含まれているのではないか。たしかに中古家具承認の89歳の老人の名前はソロモン。あの伝道の書の語り手ソロモンであり、そこでは、時間と人生、記憶と価値、古き良き時代と問題のある現在などが、とりとめもなく、だがそれでいて印象に残るかたちで展開するのだから。


繰り返すが、この劇の前半にこそ、意味がある。前半ではさまざまな楽器の奏者が音あわせをしている。わたしたちはそこにさまざまな音色を聞けばいい。後半、オーケストレーションが成功して、一気呵成に旋律が流れ始めるときは、その流れに身を任せるのはいいが、発見の旅はそれで終わりなのである。


だが、紀伊國屋サザンシアターの上演では、そうはいかなかった。四人の俳優のうち、男性三人の台詞回しがわるい。滑舌が悪すぎる。それがせっかくの舞台に大きなダメージを与えている。


まずいわなければいけないのは、滑舌がすべてではない。身体的演技、外見の印象、声の質など、俳優の魅力なり迫力なり存在感を構成するものは多いし、それは滑舌だけの問題ではない。それはわかる。ソロモン/里居正美氏のみごとな白いひげは、それをみるだけでも価値があるし、舞台に大きな視覚的焦点を構築する。しかし、今回、ミラーのこの『プライス』は、台詞が多い芝居である。前半、眠ってしまう観客も、後半では、眠っている観客はひとりもいないだろうと思わせるほどの緊張感がみなぎりる。ところが俳優の台詞まわしが悪くて、かんだりしていて、肝心の内容がつかめないこともある。がっかりする。


いや、最初はそうでなかったのだが、気づくと、俳優たちがカミはじめている。どうしたのか。この日だけのことなのか。時間がたつに連れて、膨大な量の台詞を発しているうちに、疲れが出てきて、舌がまわらなくなってきたのかもしれない。なにしろ男性3人は中高年であって、体力がもたないのかもしれない。しかし、それにしても、プロの俳優として、最初からであれ、途中であれ、台詞がまわらなくなり、滑舌が悪くなるというのは、なさけない。はっきりいおう、後半の緊迫した場面では、ことごとく俳優たちがかんでる、いや、ほんとにはっきりいおう、ろれつが回らなくなっているのだ。これが民藝の芝居かと思うと、愕然とする。いくら稽古しても、ろれつが回らなくなるようだったら、上演なんなんか、するな。恥を知れといってやりたい。


繰り返すが、何度でも繰り返すが、滑舌がすべてではない。朴訥な言い方が魅力的になることもある。訛りがあっても、それが魅力となることもある。多少、聞きづらい話し方であっても、それが個性であったり、台詞に色を添えることだってある。だから、なめらかな弁舌がすべてではないが、今回に限っては、男性俳優三名の滑舌が悪すぎる。噛み噛みになっているというだけではない。ろれつが回っていないとすら言えるのだ。よりにもよって、こんな台詞が多い芝居で。


かえすがえす残念である。金返せ。この劇のチケット・プライスは高すぎる。あるいは観客に高い代価を払わせすぎている。