No Country for Young Men

ポール・ハギスの『父親たちの星条旗』(クリント・イーストウッド監督)の脚本は、アメリカ中心的な世界観ながら、戦争そのものを脱構築した衝撃的な内容で、圧倒された記憶がある。


第二次世界大戦中、硫黄島での日本軍とアメリカ軍の戦闘において、アメリカの海兵隊員たちが星条旗を立てる写真は、おそらく第二次大戦においてもっとも有名になった写真のひとつといってよいだろう。それをもとに彫像も作られた。『父親たちの星条旗』は、この写真にまつわる事実を丹念に解き明かしてゆく。ひとつは写真にとられた星条旗は、二番面に立てられたもので、最初の星条旗は、記念に欲しいという軍高官がもっていったため再度立てられた、そのときの写真である。というような内部事情の暴露は、それ自体興味深いものだが、そこからさらに、星条旗を立てた海兵隊員たちの半数が、それから戦死していることなどがわかってくると、硫黄島での戦闘が、第二次大戦における一挿話的立場から、俄然、現代性を帯びてくる。


島を制圧したアメリカ軍が記念に戦場に立てる星条旗は、これまでの激戦を記録するだけでなく、多くの犠牲のもとに成立した平和を記念するモニュメントに思われた。しかし実際はそうではなかった。戦闘のさなかに星条旗は立てられた。いやたしかに星条旗をたてるくらいの余裕はあったのだから、日本軍の抵抗はおさまったかにみえたが、その後も、地下坑道を利用した日本軍の執拗なゲリラ的な抵抗は続き、双方に多くの戦死者が出た。戦争終結にシンボルにみえた硫黄島星条旗は、戦争のさなかに立てられていた。それはまた偽りの終戦、つまり戦争が終結するかにみえて、その後に泥沼化が続き、いっこうに終わった気配が見えない、たとえば現在のイラク情勢とそれは直結するからである。


星条旗をたてた兵士たちの生き残りは、まだ硫黄島での戦争が終わっていないときに本国に召還され、戦時国債を国民に買わせるために、キャンペーンに参加させられる。ここでも戦争が終わっているのか継続中なんか、戦中なのか戦後なのかが、わからないようになっている。かつては世界の危機的状況を戦前の思想として論じることがあったが、いまや世界は、戦中と戦後が不分明にまじりあっている、脱構築状態が続いていることになる。第二次世界大戦の一挿話である硫黄島の激戦が、イラク戦争後(?)の、終わらない戦争をかかえたアメリカの状況と重なってくる。


と同時に硫黄島での戦いは民間人を巻き込まない軍人同士の戦いだったが、イラク戦争となると民間人を巻き込む大量虐殺になる。戦闘員と非戦闘員、軍人と民間人との境が不分明になる。そしてそこで人間の命の価値の限りない下落が起こる。この戦争を生き抜いて帰ってきたアメリカの兵士たちを襲う悲劇というのがこの映画のテーマなのだろうが、この映画は、二十世紀になってずっと海外で戦争を行ってきて、多くの復員兵をかかえたアメリカの復員兵物語の伝統に連なる作品でもある。


私は昔、映画『羊たちの沈黙』について、連続殺人犯が復員兵らしいこと、つまりアジア(ヴェトナム戦争の影もあるが、日本の影もある)で軍務に服してきた海兵隊員が、帰国後、アジアに蔓延している同性愛という風土病にかかり、女性と一体化する幻想を抱き、連続殺人犯となった(女性を殺害して皮を剥ぎ、その皮をまとって女性になろうとした)ことに着目し、この映画による犯人のプロファイリングは、頭のおかしくなった復員兵であると考えた。アメリカ社会に適合できなくなった復員兵――それはたとえば『わが人生、最良の日』から『帰郷』『ランボー』にいたる映画のなかでさまざまに描かれてきたのだが−−、まさにそうした復員兵物語に所属すると『羊たちの沈黙』について論じたのだが、『告発のとき』も、いまひとつの復員兵物語である。


と同時に『告発のとき』をみながら、また、たとえば、いまではDVDでも出回っている『インヴェイジョン』(かつての映画『ボディスナッチャー』のリメイク)とか『28週間後』(襲われる人間は20秒で吸血鬼に変身、走るゾンビと化す)というようなホラー映画を思い出した。一般市民をモンスターに変貌させる細菌が、かつては「共産主義」「ファシズム」「宗教的狂信」のメタファーと感じられたのだが、いまや、『羊たちの沈黙』あたりから、戦争が一般市民を吸血鬼にかえる細菌であり、復員兵は、一見、正常な人間にみえて、一皮向けば、人間性を完全に喪失したモンスター・殺人鬼というホラー状況がいまのアメリカの日常に生ずるようになったのだ。『ランボー』第一作は、差別的処遇をうけた復員兵シルヴェスター・スタローンが地方の警察やアメリカ軍と戦う話であった(いまでは想像もつかないかもしれないが)。それは社会に受け入れられない復員兵側に同情的な視線で貫かれていたが、『告発のとき』では、同情するしないの地平を超越したかたちで、殺人鬼あるいは殺人マシン化した兵士が、いまやアメリカの社会に野放しになっている恐怖あるいは悲哀が描かれる。彼らは、一見、ふつうの兵士たちにみえる。しかし戦争で心に負った傷のために、たとえば酔っ払ったりすると、死地を乗り越えてきた戦友でも平気で殺害するような冷酷な殺人鬼に変貌する。


妻を浴槽でおぼれさせた夫が逮捕される。かつてその夫は、妻の前で猫を浴槽で殺していた。妻からの訴えに対して、動物を殺したからといって、その人を告発できないと、妻の訴えをしりぞけたシャーリーズ・セロン扮する刑事が、現場にかけつけると、その夫は、軍人であることがわかる。『羊たちの沈黙』に通ずるような恐怖の世界がある。いまや一皮向けば殺人鬼である兵士が社会に拡散している。そのような政策を推し進めてきたアメリカの政府、指導層の責任は大きい。彼らは、みずからの社会の墓堀人を、自らの手で作り出しているのである。しかも誰もが望まないかたちで。またかすかに残された人間性のなかで、必死で助けを求める若い兵士たちの苦しみをよそに。いまや年寄りの国となったアメリカが、若者たちを戦場=市街地に送り込み、民間人や民間人の子供たちを殺してゆく。No Country for Old Menなどというのんきなことを言っていることに、唖然とすべきである。アメリカは、あるいは世界の国々は、No Country for Young Men & Young Womenになっているのだから。


それにしても国旗を上下逆に掲げるのは国際的救難信号であるということは知らなかった。ほんとうにそうなのか。だってアメリカの国旗のように左右上下非対称なら、上下さかさまにして掲揚できるのだが、日本の国旗あるいはイギリスの国旗のように上下左右対称の国旗は、どうやってさかさまだとわからせるのか。国際的救難信号を出せる国民と、出せない国民がいることにならないか。


世界の支配者たるアメリカ人にとって(あるいはそうした意識は一般的なアメリカ国民にはないかもしれないが)、救難信号を発するのは屈辱かもしれないが、しかしあえて救難信号を発し、また救難信号を受け止めるべきというのがこの映画のメッセージのひとつなのだろう。人間の皮をかぶった殺人鬼が解き放たれている社会では、救難信号を挙げないこと頑なさから、まず解放されるべきなのである。


雑感:No Country for Old Menでは、ただのボケ老人だったトミー・リー・ジョーンズ(まあ、トミー・リー・ジョーンズの最後のヤマなし、オチなしの老人の戯言で終わるNo Countryは衝撃的ではあったが)が、この映画では、耄碌老人ではないことを証明していてよかった。


原題『エラの谷』In the Valley of Elah旧約聖書第一サムエル記・第17章のエピソードだが、『コーラン/クアルーン』にも載っているエピソードだと語られていたので(未確認だが)、まあ、いいか。この但し書きがないと、やはりユダヤキリスト教的世界観でしかものを考えていないとしか思えなくなるのだが。


クリント・イーストウッドの奥さん(女優のフランシス・フィッチャー)、あんな公衆の面前で、いきなり上半身素っ裸で出てくると、トミー・リー・ジョーンズじゃなくても、びっくりするわい。