かもめが死んだ


かもめというのは、海、あるいは海辺に住んでいると思っていたら、陸地にも住んでいる。ユリカモメは陸地にも飛来するそうだが、かもめも、渡り鳥なので、陸地にも飛来するということか。それにしても英語でSeagullというように、かもめには海・海辺のイメージが強い。今回チェーホフの『かもめ』の上演を見て、あらためて、かもめが、ロシアの内陸にいることを不思議に思った。すくなくとも海には近くない。これまで、陸地のかもめにつて、この劇の解説で触れたものがあったのだかろうか(修辞疑問文ではなく、通常の疑問文であるが)。


チェーホフの芝居は、Actionの芝居ではなく、Passionの芝居である。もちろん行動はあるのだが、たいていそれは裏目にでるか、あるいは破滅するしかないものとなる。残されたのは、受難と受苦。チェーホフ的文脈でいえば、待つこと、暇をつぶすことしかない。このようなPassion Playであるチェーホフ劇を、赤坂ACTシアターのように、馬鹿でかい劇場で上演すること自体、最初から敗北を認めているようなものだ。実際に、俳優にもよるのだが、アーティキュレーションはしっかりしていても、大きな劇場で、しかも音響設備が悪いのようにも思えるのだが、客席の後ろのほうでは、聴取ぎりぎりの音量でしか聞こえない台詞が多い。事実、私は自腹(自腹だから、ぼろくその言えるのだが)で後方の席で見ていたのだが、眠っている観客のかすかなうわ言と、あるいは眠っていなくても、思わず観客のお腹からでる空腹の音、決して大きくない音が、台詞と同じ音量で伝わってくる。


美波扮するニーナの最後の台詞は、はっきりいって前方の席でしか聞こえないものだった。彼女のアーティキュレーションはしっかりしているのに、声が小さくなると、聞こえなくなるような劇場で上演するなよと、言ってやりたい。また逆に、大きな劇場だと、俳優の声の出し方の違いが如実に伝わってくるが、しかし、そうしたことを確認するために劇場に足を運んではいないので、やめてほしいわい。


もう少し小さな劇場だったら、台詞も良く通り、劇的緊張度も高まり、内面度と不条理度も感得できるのだが、つまりこの芝居、衝撃的な展開がないわけではないが、基本的に地味なこじんまりとした芝居であって、そのこじんまりとした不条理感を、大劇場で出すのはむつかしい。台詞をかんだりするような俳優は誰もいないが(それにしても一週間前にみた民藝の『プライス』のあの台詞のかみかみは、なんだったのか)、台詞がなんとなく、一歩引いたような、防衛的な、あるいは力を抑えたようなものにみえてしまう。


結局、麻美れい、鹿賀丈史といった実力のある俳優たちを配していても、彼らは、大きな空間での濃密なコミュニケーションを求めることなく、ただ、その大きな空間――もっと派手でアクティヴなミュージカルのような大音響の上演にこそ、ふさわしい大きな空間――のなかで、手もちぶさたというか、その空間で身の置き所がないような感覚のなかで、あたえられた、どちらかというと地味な、不条理な芝居を、100パーセントの力を出し切ることなく(出そうにも、その空間では無理だとあきらめているように、藤原竜也をはじめ、全員が、そんなふうにみえてしまうのだが)、ただ淡々と、与えられた役をこなして、上演時間が過ぎるのを、演技しながら、演技であることを意識しながら、どこか覚めた眼でおのれをみつめながら、耐えている、終わりを待っている、そんなパフォーマンスなのだ。そう、まさに演劇の劇中世界ではなく、パフォーマンスそのものが、まさにチェーホフ的なのだ。


今回の舞台をみて、チェーホフの『かもめ』について、沼野充義氏の新訳のよさは理解できたが、ただ、舞台上に、なんら新たな発見というか啓発されるところ、刺激を受けるところはなかった。だた、このなんとも不満の残る、劇場空間と、そこでのパフォーマンスのなかにチェーホフ的世界のメタファーをみたことが、唯一、面白かったというところか。とはいえ、それによって、チケットに1万円も使ったむなしさが帳消しになるわけではないが。



べつにしめしあわせたわけではないが、学生とも出会った。千代田線赤坂駅でのホームで、卒論指導をしている女子学生にばったり出会った。藤原竜也が好きで、この新しい劇場をなんとしてものぞいてみたかったということだった。私はその学生に『かもめ』というのは、あなたが卒論で取り上げる『ハムレット』みたいなところがあるでしょうと話した。冒頭での野外劇の上演。劇作家・演出家としてのトレーブレフ(藤原竜也)は、まさにハムレット。女王的な母親アルカージナ(麻美れい)との愛憎入り混じった確執も『ハムレット』的だし、実際トレーブレフと母親は、それぞれハムレットと母親ガートルードの台詞を引用するのですよね。またたしかに母親の愛人で作家のトレゴーリンは、クローディアスだ。クローディアスとハムレットの確執が、トレーブレフ(藤原竜也)とトレゴーリン(鹿賀丈史)のそれと重なっている。邸宅を管理しているシャムラーエフはポローニアス的だし、その娘マーシャは、トレーブレフを愛していて、トレーブレフに煙たがられるオフィーリアみたいな存在ですよね。しかもこのマーシャ/オフィーリアは、ハムレットみたいに黒い喪服を着ている。と同時に、オフィーリアは「わたしはかもめ」のニーナでもあって、彼女の最後の、少し頭がおかしくなった台詞は、狂乱のオフィーリの台詞を思い起こさせる。そういう意味で、『かもめ』は『ハムレット』のアダプテーションといっていいところがある。


こう語ったところ、その学生は、いわく、私が卒論で扱うのは『ハムレット』ではありません。……ん? そうか、私はもうひとりの学生と間違えていた。指導学生は今年は3人しかいないのに、扱う作品を間違えているとは。なさけないわい。


院生も来ていたので、男性の院生とも話した。『かもめ』は『ハムレット』的だけれども、同時に、『ハレット』くずれなんだね。どんどんくずれちゃっていて、『ハムレット』かなんだかわからなくなっている。ただ母親の女王様ぶり(『ハムレット』の上演では、なかなかそんなふうに演出されない)は、明確になっているし、成功した作家と、新進作家とのライヴァル関係や確執なども、親世代と子供世代との対立というかっちで、よく処理されている。先王で父親のハムレット王よりも、クローディアスのほうが、ハムレットに近いともいえるところがあって、トレーブレフとクローディアス=トレゴーリンが、ともに作家なのは、実は『ハムレット』的でもある。


またトレーブレフの父親は、死んでいるようで、母親は作家と不倫じゃないかもしれないが、まあそれに近いところがあると、なんだか、ブルーム、モリー、スティーヴン・ディーダラスといった、ジョイスの『ユリシーズ』的なところもある。モリーの浮気を苦々しげにみつめているブルーム=ディーダラス父子、その構図は、『ハムレット』的というよりも『ユリシーズ』的だ。チェーホフは、明らかにジョイスをぱくっている。



ちなみに院生にとっては、『かもめ』に登場する若きトレーブレフの焦燥感は、とても他人事とは思えない、なんだか身につまされてこの戯曲を読んだとのこと。別に作家志望ではないが、将来、研究者を目指す若い院生にとっては、研究者となるための研鑽を積んでなおかつ、いかに自分らしさを出すか、その大きな課題に、押しつぶされそうになるとのことだった。


先生は、自分と違って、成功した作家トレゴーリンの視点で、劇をみてはいませんかと聞かれた。私は作家でも、成功した作家でもないが、一応研究者・教員としてポストを得ているので成功者の部類に入るという、院生からのおせじかもしれないし、同時に、トレーブレフがライヴァル心を燃やす、作家トレゴーリンと私を一体化して、エディプス的感情をいだいているのかもしれない。それが思わず出たか(私が作家トレゴーリンと同じように「女王様」が好きだということまでは、見抜いていないと思うが、聡明な院生だから、見抜いているか)。


しかし、私はこう答えた。いや、作家トレゴーリンと自分とを一体化してみてはない。私が一体化しているのは、ソーリン(勝部演之)だよ。このどこの家庭にもいる、独身のオジさん。これが私ですよ。このソーリン、「なりたくてなれなかった人」でしょう。文学者になろうとしてなれなかった人、結婚してよき夫になろうとして、結婚できなかった人。公務員・大学教授にはなったけれども、そんなものに、なろうなんて思ったわけではない。そう、このソーリンこそ、私ですよ。いずれ近いうちに、ソーリンと同じように、妹の家にやっかになり、へんな伯父さんになって(いやもうなっている)、耄碌して死んでゆく。いつも椅子に座ったまま、うたた寝をしていて、いつか妹の家で、椅子に座ったまま息絶えている。あれこそが、まちがいなく私の運命だと思う。