ボリビアから来た少年


**様
本日、大学で修士論文の個人面接のあと、時間が余ったので、映画を見に行きました。
銀座テアトルシネマで『敵こそ我が友−−戦犯クラウス・バルビーの3つの人生』*1というドキュメンタリ映画です。7月26日土曜日から公開。監督は、昨年日本で公開された劇映画『ラスト・キング・オヴ・スコットランド』の監督ケヴィン・マクドナルドなのですが、興味深いドキュメンタリーだと思っていたので。


30分前に到着したので、早すぎたかと思ったのですが、早すぎませんでした。大ヒットで、ようやく前から4列目の席があいていました(全席指定席です)。本日3回目の回でしたが、第1回と第2回は満席で、第3回目も満席になりました。終わったら第4回の観客があふれて待っていました。ほんとうに大ヒット。


良いニュース:予想通り、すごく面白いドキュメンタリーでした。一見の価値はあります。いろいろな発見もあります。90分の映画です。**さんの自宅あるいは大学から有楽町線副都心線ではなく)で乗り換えなしで一本で行けます。銀座一丁目にある映画館ですから。


悪いニュース:高齢者、多すぎ。午後3時30分の回でしたが、週日のこの時間帯に映画をみることができるのは、たしかに若い学生か老人くらでしょう。若い人に見て欲しいと思う映画ですが、いるのは老人ばかり。私もまあ中高年ですが、二十代の学生にもどったような気分になって、年上の人間ばかりなので緊張してしまいました。


これはものすごく面白おかしい映画でもない、ある意味深刻なドキュメンタリ映画ですよ。最近『山桜』という映画を見に行った男子学生が、周りが高齢者ばかりで若い人間は自分だけで緊張したと報告してくれましたが、『山桜』は藤沢周平原作の時代劇映画。こっちはナチスの戦犯の話ですからね。みんなが喜んで見に行くような映画ではないはず。テレビで宣伝でもしたのでしょうか。「戦犯」という言葉に、老人は敏感に反応したのでしょうか。


返信:
最近はどこへ行っても老人パワーですよね。時間とお金があって、知的欲求も高く、いろいろな問題に対して考えたりする余裕があるのが、老人しかいないのかもしれませんよ。



ブラジルから来た少年』という映画(日本では劇場未公開、テレビ放映され、DVD化されている*2)があった。ナチスの残党が南米でヒットラーのクローン人間を作っていて、産まれた子供を世界中に養子に出し、そのなかからヒトラーとして育った人間を総統として第三帝国復活を目指すというもので、エイリアンが地球を侵略するというようなSF映画よりも、ずっと現実味があるという評価があったものの、当時、無知な私は、テレビでの放映をみながら、エイリアンが地球を侵略するのと同じような荒唐無稽な映画だという感想しかもたなかった。


しかし今回の映画をみて改めて思ったのは、たしかに『ブラジルから来た少年』は、エイリアンが地球を侵略するというSF映画よりははるかに現実味のある映画だということだった。実際、南米は、ナチスの残党の本拠地であったからである。もう少し新しい映画ではコスタ・ガヴラス監督の『ホロコースト――アドルフ・ヒトラーの洗礼』 (2002 *3(補注2)。


補注2 この映画で私が衝撃をうけた箇所がひとつあって、それは南米に渡り、またバルビーとも関係のあったナチス関係者としてハンス・ルーデルの名前が映像とともに示されたことだ。正確にいうとルーデルはナチス党員ではなかったが、ナチス復興を画策する右翼であったとは、かなり衝撃的だった。彼は第二次世界大戦ルフトヴァッフェパイロットで、Ju87急降下爆撃機パイロットして数え切れないほどの戦績をあげ、「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を当時のドイツ全軍でただ一人授与された大戦のまさに英雄中の英雄であった。近年日本のプラモデルメーカー長谷川製作所がユンカースJu87の1/32の大型プラモデルを発売したとき、初回限定のオマケとしてルーデルのフィギュアを付けたくらいの有名人である。ただ有能な軍人としてその活躍とか戦記はよく知られているが、彼がナチス礼賛者で、南米に逃亡し、ナチス残党の互助組織を作っていたことは知らなかった。『ブラジルから来た少年』でも言及されていたらしいが気づかず。ちなみに私は長谷川のそのプラモデルは買っていない。


しかし映画のなかでアメリカの元議員の女性が語ってたいが、ナチスは戦争に負けたのである。ドイツ国民を抑圧し、ユダヤ人を絶滅させようとし、さらにヨーロッパの諸国民を圧迫したにもかかわらず、連合国敗れたのであり、その全体主義的姿勢は、勝利をもたらさなかったにもかかわらず、なぜアメリカは、CIAはナチスを利用しようとしたのだろうか。相手は負け犬である。ドイツのどんな科学技術をもってしても、ナチスのいかなる抑圧体制をもってしても、戦争に勝てなかったのであり、そんな愚かな敗者から、連合軍は何を学ぼうとしたのだろう。ナチスの残党が共産主義の脅威を誇張し、再就職に励んだのであろうことは予想がつく。しかし共産主義勢力と戦うためとはいえ、ソ連に負けたナチスの残党をなぜ雇い入れたのかは、不思議なところである。企業戦争で、間違った経営方針と無理な事業計画によって自分の会社を倒産に追い込んだ経営陣を、大企業が目的をもって雇い入れるということがあるのだろうか。あるいはこういえる。食品偽装発覚によって自分の会社を倒産させた経営者を、大手食品会社が雇い入れるとしたら、その会社も食品偽装を考えているということになる。この件で、もっとも近似値といえるのは、警察が、ギャング撲滅のために、もとギャングの男を雇い、情報とか戦略を聞き出す、時には、その元ギャングを潜入捜査官として送り込むということか。いぜれにせよ、これは不正の手口を、悪を、悪から学ぶということなのだろう。ただそうであれ、これは、戦後のナチス残党の生き残りの再雇用には、まだまだ謎がありそうだ。


この映画ではバルビーの足跡を丹念に追いながら、戦後まもなく、なぜバルビーが戦犯としてフランスで裁かれなかったのか、ボリビアへ、あろうことはユダヤ人に化けて逃亡したあと、どのような活動をし、政治と陰謀と暴力の世界に関わっていたかを映像と証言によって再構成しながら、映画冒頭の場面にもどる。それはボリビアからフランスへ移送されるバルビーの姿であった。そして映画は裁判の場面に移る。


映画は、裁判でバルビーの弁護をしたジャック・ヴェルジェスの主張にある程度、同意をあたえているようにみえる。つまりバルビーはひどいやつだが、彼を利用した大国(フランスを含む)のエゴもまた許しがたいものであるという。まあ、それがこのバルビー問題の落としどころではある。しかし、私としては映画からすこしべつの感想を持った。


まずこのジャック・ヴェルジェス弁護士の擁護論。よくもまあ、こんないい加減な弁論が、法廷で通用したのかと、唖然とする。簡単にいえば、バルビーのやったような残虐行為は、戦争中ならば誰でもやっている。だから彼だけが裁かれるのはおかしいというものだ。駐車違反を摘発されて、違反切符を切られそうになったドライヴァーが、ほかにも多くの人間が駐車違反をしているのに、なぜ自分だけが摘発され罰を受けるのかと抗弁するようなものである。駐車違反をすれば見つかれば罰を受ける。あらかじめお目こぼしがあって摘発されないようなシステムがあれば、そのときに限り、なぜ自分だけと抗弁できるが、そうでなければ、たまたまつかまったからといって、自分は無実だとはいえないのである。


それと同じで戦争中に、戦闘行為ではなく、後方の占領地区における指揮官として残虐行為を命じ、自らも実行したとなれば、いくら同じようなことが、それこそ第二次世界大戦を超えて、現代にいたるまで行われていようとも、それをした人間が免罪になるというのは、いかなる理屈なのか知りたい。


ましてはクラウス・バルビーは、ポール・ド・マンではないのである。ポール・ド・マン――かつてアメリカのアカデミックな批評界において一世を風靡したともいえる脱構築批評の領袖ともいえる存在であったド・マンは、戦時下のベルギーで親ナチス的・反ユダヤ的評論を書いていたことが死後、発覚し、大スキャンダルになった。しかし、ポール・ド・マンは、当時に、ヨーロッパの知識人の多くが、いやほとんどが、親ナチス的思想を抱き、それを指示する文章をこぞって書いていた、そんななかで、きわめてアカデミックな評論や書評(誰がそんな専門的な文章を読むかという類のもの)において、行きがかり上、反ユダヤ的発言をほんのすこし記したというだけで、死後、攻撃されるとういうのは、不運(もしくは政治的に利用された)としかいいようがない。ポール・ド・マンの場合だったら、バルビー弁護に使われたロジックを全面的に適用できて確実に擁護できる。当時は、知識人のほとんどが反ユダヤ・親ナチ的主張ももっと大々的に派手に展開していた。ナチスにおもねる場合もあったかもしれないが、本気でそう信じて書いていた者がほとんどだった。またド・マンは、影響力のきわめて少ないアカデミックな書評の一篇か二篇の、そのごく一部においてそう書いたのであって、人を殺したわけでもない。誰もが親ナチスであったときに、親ナチスであったからといって裁けるのだろうか。まさに、テリー・イーグルトンいわく、にもかかわらず「ポール・ド・マンは、ニューヘイヴンのクラウス・バルビーであるかのように、さらしものになってしまった」〔ニューヘイヴンは、ド・マンが所属していたイェール大学の所在地*4〕。


そうバルビーは大罪で裁かれるのである。彼以前に、裁かれた戦犯がもし自己弁護のために声を荒げるとすれば、バルビーを引き合いに出すだろう。「バルビーが南米ボリビアで、のうのうと生きているのに、バルビーほどの罪を犯さなかった、微罪の自分がなぜ裁かれねばならないのだろうか」と。バルビーが裁かれないのに、なぜ自分が裁かれるのだと無念の涙をのんだ罪人もいたかもしれないのに、あろうことか、そのバルビーを、なぜ裁かれねばならないのかと擁護するのは本末転倒もはなはだしいし、その場合だったら、バルビーよりも大きな罪を犯したにもかかわらず裁かれていない人間の存在を指示しなければいけない。いったいどこにバルビー以上の大罪者がいるのだろうか。


ジャック・ヴェルジェス弁護士のこんなちゃちな弁護にもフランス人が反論できなかったとするなら、ひとつにはこの裁判の頃より、ヴィシー政権下でのナチス協力がつぎつぎと暴かれ、多くのフランス人が戦時中、ナチスと同罪であったという苦い記憶が蒸しかえされ、まさにフランス人の多くがすねに傷持つ存在となったとしか考えられないのである。


裁判の場面の映像をみながら、いやこの映画の最初から、バルビーの顔をみながら、アイヒマン裁判を傍聴したハンナ・アレントが抱いた「バナールな悪」という言葉を思い出していた。最終解決の責任者であったアイヒマンは、どれほど悪魔的な人物だったろうと恐れ戦きつつアイヒマンの入廷を待っていたアレンとは、そこに、ごく平凡な小市民的官吏のような人物をみて唖然とする。これがあのユダヤ人絶滅を起案し実行した人物だったのか、と。同じことは、クラウス・バルビーについてもいえる。これがゲシュタポとして数々のレジスタンスを拷問死させ、ユダヤ人の子供までも絶滅収容所に移送し、南米ではCIAや軍事独裁政権の手先となってチェ・ゲバラまでも殺害した男だろうかと、誰もが我が目を疑うだろう。


おそらくここからは解釈が分かれる。アレントは「組織化された犯罪」という概念をうちたてた。ただし、それはジャック・ヴェルジェス弁護士の弁論と同じ構造をもっている。いまなお終わることのない戦争悪という、人格や個性を超越した構造のなかで、命ずるままに動いた/動けたのがアイヒマンであり、バルビーなのだということになる。


映画では、裁判の最後に自己弁護を許されたとき、バルビーが発言する映像を、その内容ともどもみせてくれる。映画で切り取られたかぎりの映像では、バルビーは、小ばかにしているというよりも、はにかみながらというのがぴったりくる、にやにや笑いで、フランス語で自分は「子どもたちを強制収容所には送ってはいません」と答えるのである。映画のなかでバルビーは、それまでにも、明らかに証拠があるにもかかわらず、「〜はやっていない」と、ぬけぬけと大嘘をついている。それは正々堂々と罪を認めることのできない、この人物の卑小さを印象付けるような気がする。またあまたある告発理由のうち、子どもたちを強制移送していないということにこだわるのは、殺人罪に問われている犯罪者が、しかし自分は、殺人の前にコンビニでは絶対に万引きしていませんと、万引きの無罪を訴えるような、たとえ(実際には万引きしていても)ひとつでも無罪の記録を残しておこうとする、吐き気のするような、せこさ、矮小さを露呈しているように思えるのだ。


バルビーには、ジャック・ヴェルジェス弁護士のいう、大きな抗いがたい戦争悪という巨悪をみずからに引き受け、それを背負うだけの力量も意志も欠落しているのである。こんな卑俗で低劣な人物に、世界悪が引き受けられるはずもない。弁護士の弁論は、この卑小な人物に、支えきれない巨悪を背負わせようとしていて、まるでパロディである。


だが、バルビーの一見善人にみえるその容貌に、わたしたちは騙されてはなるまい。「子どもたちは、強制移送していない」とはにかみながら自己弁護する顔はまた、真剣というよりも小ばかにしているようにもみえてくる。あるいはそれは真剣とか深刻とは無縁の表情かもしれないが、にもかかわらず、ある決然たる意志を内に秘めているようにも思われる。バルビーは、審判を経ても、なにも反省していないし、悔い改めてもいない。彼は正しいことをしたのだと、揺るがぬ確信に支えられているようにもみえる。彼の場合、確信という鎧は、ほころびかけたら、自動修復されるように見えてくる。バルビーによる子どもたちの強制移送は事実であろう(子たちたちの強制移送は行われているので、バルビーだけが例外とは思えない)。しかしナチスを守るためにレジスタンスと戦い、共産主義勢力とも戦う、まさに聖戦を生き抜いてきた高貴な騎士たる自分が、無辜の子どもたちを、強制移送するという人道に反したことはやったはずがない。そして私は、聖戦の騎士は、そのようなことをしていないと、なんとしても、聖戦の神に、ラカン的にいうと大文字の他者に、訴えなければいけないと考えたのであろう。


子どもたちを強制移送していないという最後の無罪主張は、それを主張しておけば、あとは、フランス人のくずどもが何を裁こうと関係がないということを意味している。聖戦を戦った自分は正しいことをした潔白な人間である。子どの強制移送が冤罪であると主張すれば、彼の経歴は――学生時代は友人を密告し、戦場で敵と合間見えて戦うことではなく、逮捕されて送られてきたレジスタンスをいたぶり拷問死させ、ユダヤ人を大量に絶滅収容所移送し、共産主義者の捕虜を虫けらのように殺しまくり、バチカンとCIAに守られて破壊工作をし反共宣伝にいそしみ、ユダヤ人アルトマンとして南米ボリビアに渡ってからは、陰謀と破壊と拷問に関与し、隣人をユダヤ人と思って迫害し、誤解とわかると手のひらを返したように友好関係を結び、みずから拷問死させたレジスタンスの英雄の墓まいりをし……――という経歴は、一転の穢れもない純白なものであり、すべては悪との戦いについやされた高貴な人生だったのである。


まさに、そんなふうに、誰がなんといおうと確信しているようにみえる。あたかも純粋な少年の頑固さのように。結局、彼は子どもであった自分のまま、ナチスのレールに乗せられて、死ぬまで強制移送されていたのである。

*1:Mon Meilleur Ennemi,dir. by Kevin Macdonald, 2007.

*2:The Boy from Brazil, 1978.

*3:Amen, dir.by Costa-Gavras, 2002.)では、敗戦間近のドイツでナチスの将校が南米へと亡命する手はずをバチカンの神父に整えてもらうような場面があったし(補注1)、アイヒマンが亡命先というか逃亡先のアルゼンチンで捕まったことは知っていたが、今回、とにかくあらためてナチス(の残党)と南米とのかかわりを思い知ることになった(アイヒマンが逮捕された当時の統治者ファン・ペロン(エバ・ペロンの旦那)は、親ナチスであったことが知られている)。南米文学は、第二次大戦後、ナチスと戦っていたとみることもできる。  補注1 この映画は、バチカンナチスユダヤ人虐殺を黙認したばかりか、共産主義勢力であるソ連と戦うナチスに協力したことを暴く、いかにもコスタ・ガヴラス的政治映画だが、そのなかでこれまで見たこともない豪華な教皇庁の室内に圧倒された。バチカンもかつての罪を悔いて、こういう映画の撮影を許可したのかと思いきや、バチカンは撮影を許可しなくて、ルーマニアブカレストの、あのチャウセスクがつくった宮殿「国民の館Casa Poporului/ House of People」の内部を教皇庁の内部に見立てて撮影したとのこと。いやあ、この映画でみる「国民の館」の内部、びっくりするほど豪華。たぶんそのおぞましい豪華さは教皇庁の内部と通低しているのだろう。悔い改めろ、バチカン クラウス・バルビーはゲシュタポとして占領下のフランスで殺戮の手腕を発揮、夥しい数のユダヤ人やレジスタンス活動家を拷問、殺害、絶滅収容所へ強制移送した男として知られているが、戦後のドイツにおいて、アメリカのCIAに雇われ、“ナチス残党集め”の中心人物となったあと(映画との関連でいうと『オデッサ・ファイル』がこうした残党支援の活動を描いている)、バチカン右派の神父たちの策動により南米ボリビアに逃亡、ボリビア軍事独裁政権誕生のあとは軍部に加担、さらにはアメリカの軍部にも協力して共産制力との戦い参加、チェ・ゲバラの逮捕・処刑にかかわったとも言われている。1982年ボリビアが軍政から民政に移行するとバルビーは逮捕されフランスに送還され、そこで裁かれ1987年に終身刑に処せられる(フランスは死刑を廃止している)((なお記述にはパンフレットからの文面を一部そのまま使っている

*4:Terry Eagleton, Figures of Dissent, Verso, 2003, p.155.