やっちまったな


本日は、1年生と2年生に映画を通して英文学案内をする第1回めの授業。たんに映画を作品紹介の手段とするのではなく、映画の魅力も語ろうとして、第1回はウィンターボトム監督の『ジュード』と『めぐり逢う大地』(「カスターブリッジの市長」の翻案)を扱い、とくに『ジュード』について語った。


とはいっても小説の内容のほうに比重がかかってしまうのはやむをえなく、話の中軸は、ジュードのような境遇の人間が、大学それもエリート大学に入ろうと考えるのは、猫が人間になろうとするようなもので、どだい無理である。しかし、たぶん猫は、人間になろうとは思わないだろう。いまある自分に満足せず、なにかになろうとすることは、実は人間的であって、誰もジュードを責められない。もし猫が人間になろうと考えたとすれば、その時点で、猫は、すでに人間になっている。――と、このあたりは話の中心なので、5回くらい繰り返して学生を飽きさせてしまうのだが。


大学に行く夢も破れ、破滅してゆくこの男に対して、ハーディはなんの救いも用意していないように思われる。しかし、この小説のタイトルには、ある種の救いが隠されている。人間あるいは若者は夢を持ったほうがいいなどと、昨今、無責任な言説が垂れ流されているが、簡単に実現できる夢は、夢ではなく、たんなる計画であって(まあ、計画は実現したほうがいい)、簡単に実現できないから夢なのであって、だとすれば、夢がかなう人はほんの一握りで、あとは夢破れて敗残者の群れが残ることになる。こうした負け犬たちをケアしてくれるのは誰か。メディアはなにもしてくれない。しかしキリスト教はそのケアを用意していた。聖人ユダ。希望なき者の最後の希望として。負け犬たちをabsolveしてくれる聖人として。


Judeという名前は、何を意味しているか知っていますか。これは「ユダ」の英語形です。え、ユダ!? キリストを裏切った弟子? ちがいます。あれはイスカリオテのユダであって、こちらはイエス・キリスト使徒の一人で、『ルカ伝』では「ヤコブの子」とされ、『マタイ伝』、『マルコ伝』では「タダイ」と記されている、聖人ユダ・タダイのことです。イスカリオテのユダの英語形はJudasです。そしてかわいそうなことにこのJudeのほうは、Judasと間違われたり、その影に隠れてしまって忘れられたりと、さんざんなめにあいます。Jude the Forgottenといわたりするのです。そしてこの表現は小説のタイトルJude the Obscureと似ているでしょう。このジュードは、人生の敗残者です。日陰者で、負け犬です。でもここまで裏切られ、負け続けているジュードは、その負けっぷりによって、敗残者の守護聖人、希望なき者たちの最後の希望として、列聖されているような気がするのです。


ジュードは、わたしたち負け犬たちに対して、いいんだよと語りかけてくれる聖人なのです−−「わたしたち」といっても、大学の教員であるお前は、夢がかなって満足している側の人間ではないかと、思うかもしれないが、私も含め、誰でもみんな負け犬ですよ、私の夢など、とっくに破れています、ええ、ええ、誰が大学の教員になろうと思ったのでしょうか、なりたいものにはなれず、なりたくないものになってしまった、まさに敗残者です、私は。そして一般論としても、この歳になれば、誰でも負け犬です。あとプリントの冒頭で”I can’t always get what I want”というローリングストーンズの歌の一部(タイトルでもある)を入れておきました*1ジュードは、この腐った世の中では負け犬であることのほうが正しいのだと、そう語っているように思えるのです。この小説のなかで、もっとも戦慄的かつ感動的なのは、ふたたびクライストミンスターに戻ってきたジュードが、創立記念祭のパレードかなにかを見ながら、群集たちにむかって演説をするとこですよ。あれはまさに聖人の演説です。聖人まひるの星ユダの演説です。


と同時に、この小説は大学にいけなかった男の話ではなく(大枠ではそうなるのですが)、結婚をめぐる物語でもあるのです。ふつう恋愛小説だったら、結婚というゴールへ向けてあれこれ事件が起こるのですが、この小説では、恋人たちが結婚できるのに、躊躇するということで、結婚というゴールが当然視されていない。それどころか懐疑の眼をむけられているという、かなり面白い話になっています。そしてここから、結婚というのは女性にとっては、合法的なレイプにほかならいといったボーヴォワールの『第二の性』まではあと一歩のところにきています。


と、まあ、快調に話してきて、とりあえず映像をみてみましょう。とスクリーンを下ろす。外が暗いので、暗幕カーテンをしなくてもよいのは助かるというべきか。『めぐり逢う大地』のオープニングをみる。カリフォルニアの雪深い山中に舞台が設定してあって、『カスターブリッジの市長』とは似ても似つかぬ世界であり、冒頭の流れは、明らかに西部劇の世界です。それにしても白い雪と黒っぽい服装の人物たちで、まるで水墨画のような世界です。あとこれはハーディ映画では『テス』で衝撃的な登場をした、ナスターシア・キンスキーで、こちらは最近は映画監督もしているサラ・ポーリ。あとこちれはウェス・ベントレーで、原作ではスコットランドからウェセックスに流れてきた若者ですが、この映画では測量隊のリーダーの技師という役どころだと説明して終わり*2


つづいてジュードを見る。学校を辞めて去ってゆくフィロットソン先生についていき、街道で、クライストミンスターを遠望するところで終わるオープニングのシーンをみる。イギリス版の古いDVDで音も画質も悪いが、映すことができた。あとこの映画の代表的な場面で、ジュードとスーが砂浜で遊んでいるところからサイクリングと列車で移動するという、幸せな頃の二人の姿をみる。ポイントは、もうひとつあって、ふたりが下宿に帰ってくるとベッドがひとつしかなく、ジュードがスーの体に触れようとすると、スーが拒むところ。まだ用意ができていないといって。これは結婚前のふたりだから貞操を守ってセックスしないということではなく、セックスそのものが男女関係を親密にするのではなく、疎遠にする障害になること。スー自信がジュードを愛していても、セックスを嫌がっているということである。そこを確認して終わればよかった。


授業の終わりまでにあと10分。すこし小説と映画について、まとめの話をするつもりで、映像を流したまま、暗くした教室で話をつづける。


ジュード役のクリストファー・エクルストン、スー役のケイト・ウィンスレットというと、ちょっとどちらも個性的な俳優すぎて、えぐいと思うかもしれないが、ふたりがまだ若い頃なので、まだそんなにえぐくない。エクルストンはNHKの教育テレビでもやっていたドクター・フー(何代目かは忘れた)をするとは夢にも思わなかったとか、ケイト・ウィンスレットは、『タイタニック』に出る前か後かは知らないが、重すぎてタイタニックを沈めたといわれた頃のケイト・ウィンスレットに比べると、そんなに太った感じがしなくて……(まとめの話どころか、これでは雑談じゃい)。


と映像をみると、おいおい、ケイト・ウィンスレット脱ぎ始めたではないか。ふたりは愛し合っていても、セックスはしないと話したばかりなのに、おいおい、こらこら、え〜い、待たんかい。ここで映像を止めるのも、ばかばかしいし、もう手遅れだ。イギリス版のDVDである。素っ裸になったケイト・ウィンスレットのヘア丸見え。そこに裸のエクルストンがのしかかり、お尻の割れ目がみえてしまう。


学生からも、おーと、声があがり、こちらもあわてる。あー、これはイギリス版なので無修正。あと十八歳未満の人は見てはいけません。教室から出て行ってくださいという、苦し紛れのギャグを入れるしかない。私は、この映画では、ほかのところでケイト・ウィンスレットのヘアーが見れる場面があることを知っている。ヘアのぼかしを嫌って日本版のDVDではなくイギリス版を購入したのだ(このことも学生に見抜かれているでしょう。あ〜、あ〜、スケベオヤジに成り下がった)。しかしここじゃなかったはずだといっても、後の祭り。ここもそのひとつだったのだ。

*1:まあむつかしい歌ではないので、口ずさんでやろうかと思いつつ、そんな芸はないので諦めた。なお、最初は意図的に変えたのだが、途中から、変えたことをわすれてしまったのだが、本来の歌詞はIではなくYou。まあ、いつもYouをIに変えて歌っているので、ごっちゃになった−−このブログをみて、歌詞が違うのではという指摘をうけたので、ここで説明を追加。

*2:ウェス・ベントレーFour Feathersにも出ていて、そこでは、ヒース・レジャーと共演。イギリス軍の赤い軍服の話をさらにしようと思ったが、時間もないし、本筋からはずれるのでやめた。