Jacobean @ Heart

『ブーリン家の姉妹』を見に行ったという学生(女性)から聞いた話――彼女の友人(女性)と、映画を見ようということになって、映画を見て楽しい気分になりたいという友人は、『ポニョ』か『パコ』を希望したのだけれども、『ブーリン家の姉妹』をどうしても見たかった自分は、友人を説得して『ブーリン家』にした。でも、観終わったあと、ふたりともとっても暗い気分になって、どうしてあんな映画にしたのかと、友人からひどく叱られた、とのこと。


そんなにひどい映画なのかと尋ねたところ、ひどい映画ではない。でも、えぐいところがいっぱいあって、たとえば出産にまつわる場面が多かったりして、やはり、映画を観て楽しい気分になりたいという人にはお勧めできない。もう一度観たいかですか? いえ、二度と観たくない。


ということだったので、近くのシネコンで本日午後1時の回が最終日だったの、あわててそれを観に行った*1時も、それほど期待はしていなかった。チケット売り場では予想に反して座席指定。もう予告編が始まっている時間だったので、空いているという前の方の通路側の席でOKとした。幸い、予告編が始まる直前で、通路を挟んで両側の席は、ほぼ埋まっていた。予想外に人が入っている。観客には女性が多く、年齢層は高い。


学生からの報告もあり、また当時の大まかな歴史はわかっているので物語も予想がついたので、ただ虚心に観ていた。クリスティン・スコット・トマスはもう母親役をするほどになったのかとか、スカーレット・ヨハンセンは相変わらずだが、ナタリー・ポートマンの演技はすごいなどと素朴な感想いだきながら観ていて、終盤、いよいよ映画も終わりになるかという頃、泣いている自分を発見した。あれ、どうしたのか。本気で涙が出てきた。声が出そうになったので、思わず、ハンカチを口に入れようかとも思ったが、そこまではしなくてよかったが、涙をこらえながら映画館を後にした。


映画がひどかったから泣いたのではない――だいいち、そういう時は怒りこそわいてきても涙が出ることはない。やはり映画を観ながら、その内容に思わず涙したのである。もちろん、それはこの映画を観始めたときには予想もしなかったことだ。予想もしなかったことだけに、原因が他にあってもおかしくなかった。体調が悪いとか、日々に、悩み事を抱えていると、ささいな刺激にも涙が出てくることはある。体調もよくないし悩み事はあるが、それではない。まあ、歳をとると涙もろくなるということか。どうやらそれが原因かもしれないが、しかし、涙もろくなったとしても、なぜ涙が出てくるのか、そこのところがわからない。


同じスカーレット・ヨハンセン主演の映画で『アメリカン・ラプソディ』という映画があって、この映画は泣けた。むかしレンタルで借りたDVDを授業のあと研究室のコンピュータで見ていたら、涙が止まらなくなって、泣きながら大学から帰ったことがある。ただそのときヨハンセンに対して涙したのではなく、彼女の子供の時代を演じている猿顔の女の子に涙したのだが、体調が悪かったわけではない。ネットで調べたら、泣きたいときにはこの映画をみるというアメリカ人女性がいた。泣ける映画なのだ。そのヨハンセンの顔をずっと見ていたので、この映画のことがよみがえったのか。ひょっとしたらそうかもしれないのだが、それだけではあるまい。


兄だか弟だかが死に、いま断頭台に立っている姉の姿を見上げているヨハンセンは、これから姉との永遠の別れに直面することになる。こういう別れの場面に、私が弱いのかもしれない。肉親であれ、兄弟姉妹であれ、友人、恋人であれ、愛する者たちと永遠に別れなければならないという瞬間は、誰にとってもつらい。またそういうつらさを連想させる場面に、私がことさら弱くて涙したのかもしれない。それもあるだろう。


しかし、この映画をみて暗い気持ちになったため、友人を叱り、友人から叱られている若い女性ペア中心に物事を考えているからこういうことになるのであって、このおバカ・ペアは無視して考えれば、この映画、男性中心社会において、男性たちのエゴに利用され、過酷な運命に翻弄されながらも、持てる力すべてを出しきり、あらゆる策略を通して、たとえ法に背こうとも、みずからを貫こうとした姉妹が、最後には傷ついたり、破滅して死んだりする物語は、ふつうに考えれば、誰であれ、男性であれ女性であれ、涙なくしては最後まで見れないものである。彼女たちを利用しようとした者たちが破滅するという報告、また妹が姉の子供をひきとって育て、それがのちにイギリスの君主になるというエピローグは、あってもなくてもよい付け足しであり、どうでもいいのだが、二人の姉妹の生き様にだけは、涙したくなる−−とりわけ涙もろくなった老人には。


とはいえ、暗い気持ちになって映画館を出たという若い女性のペア*2が、この映画の細部に引いてしまったことは理解できないわけではない。たしかに出産とか流産の場面が多い。中心は男性に搾取される女性の肉体、それも産む性を運命づけられた女性の肉体なのである。政治も社会も富も財産も、すべて下半身で動くという世界観は、きついといえばきつい。ヘンリー八世の子供を秘密のうちに流産したアン・ブーリンが、男の子を流産したことで、国王からの寵愛を失うことを恐れたあまり、最後の手段として考えること……。その必死さと、おぞましい解決策には確かに唖然とする。野蛮さや野卑さを残しながらも華やかなヘンリー八世の宮廷にうごめくのは、性欲と物欲と欲求不満と陰謀であり、これらがつぎからつぎへと畳みかけるように生起する物語、たしかにきつい。


しかも原作も歴史も大きく変えて、物語は時間を凝縮し、場面も戸外がほとんどなく、多くが宮廷の中、建造物の中であり、閉塞性と演劇的凝縮性を誇示している。そうまるで芝居をみているような緊迫観がある。役者の演技も、舞台演劇的な強度を誇っている。


そうかと、私は納得した。おばか女性学生ペア(失礼)が、暗い気持ちになったのもわからぬわけではない。この映画、設定はチューダー朝の前半、16世紀前半であり、エリザベス朝以前の物語だが、内容からすると、シェイクスピアの後輩劇作家たちがつくった演劇世界であるところのジェイムズ朝演劇Jacobean Dramaの気配が濃厚にするのだ。ジョン・ウェブスターの『白い悪魔』とか『モルフィ公爵夫人』、あるいはトマス・ミドルトンの『チェンジリング』とか『女よ、女に心せよ』(ミドルトンは、ジェイムズ朝演劇とチャールズ朝演劇とを又にかけているが)といった悲劇作品を思い出す。エリザベス朝以前の歴史を扱ったこの映画は、雰囲気と内容からしてエリザベス朝移行のジェイムズ朝的なのだ。


ジェイムズ朝演劇のおどろおどろしい世界に、思わずあとずりする読者や観客がいてもおかしくない。と同時に、シェイクスピア演劇とは異なり、女性を主人公とすることが多く、また女性や子供たちが犠牲になることも多く、かといってセンチメンタルに堕することなく、風刺と悲劇とを接近させ合体させたジェイムズ朝演劇の独特の魅力というものがある。今回、その魅力を、この、「前エリザベス朝時代」を扱ったこの映画から私は改めて教えてもらった気がした。

*1:週日の昼過ぎから映画というのは、よい身分というなかれ。授業は4限と5限が多くて、いや私が望んだわけではないのにほぼ毎日5限なので、夜の演劇には間に合わないし、映画も夜9時すぎの回くらいしか観れない。この点、演劇研究者、映画研究者の私としては、けっこうつらい。

*2:そのうち一人、つまり報告してくた女子学生には、仲のよい妹がいるとのことで、姉妹の醜い確執も描かれるこの映画に彼女が引いたかもしれないとは想像できるが、誘われた者が落ち込んで、誘った者を叱ったり、誘った側も叱られたりするような映画でない。これからは彼女のことをアン・ブーリンと呼んでやろう――そんなことををすればセクハラかパワハラと訴えられそうだが。