グローバル化

グローバライゼーションについて勉強しようと、関連文献、基本的文献を読み始めた。最初にR.ロバートソンの『グローバリゼーション――地球文化の社会理論』(東京大学出版会1997)。翻訳者はすでに死去している。また以下の記述から、翻訳者の名前は明記しない。日本語の翻訳者によって全体の半分ほどを訳した抄訳である。原著者と翻訳者は知り合いであり、原著者の了解もとっているのであろう。


東京大学出版会は優れた学術書や叢書を出していて定評があると思うのだが、翻訳書のレヴェルがこれだと、東京大学出版会の翻訳書のレヴェルは相当ひどいことになる。たとえば、p.200「ステフェン・カーンが……」とある。まず翻訳者がスティーヴン・カーン(Stephen Kern)のことを知らないというのは驚きだが、東京大学出版会の編集者が、翻訳者に対して「英米人にステフェンという名前の人はいません、先生、これはスティーヴンではないですか」と、なぜ言えない。もし大先生だから言えないというのなら、そんな奴に翻訳なんかさせるな。もし気がつかなかったら編集者失格だぞ。だいいち言及されているスティーヴン・カーンの本は、『時間の文化史』のタイトルで法政大学出版局から二巻本の翻訳で出ている。しかも、このロバートソンの翻訳が出る4年位前に、である。巻末の文献表には、翻訳文献も併記してあるが、このカーンの文献の翻訳は全く無視。翻訳者も編集者も気づかないのか、なさけないわい。


本書の第2章はCultural Turnと題され、そこで、原著者は、文化の問題から文化研究までを論じているのだが、日本語の翻訳のタイトル、笑いますよ。なんと「文化の曲り角」。昔は「お肌の曲がり角」というコピーがあったが、その親戚ですか? 吉見俊哉氏の本に『カルチュラル・ターン』(人文書院)という本があるが、そのカタカナのタイトルって、日本語に直すと「文化の曲り角」だとは!?


ちなみに訳出されなかった原著の第3章はMapping the Global Conditionだが、翻訳のなかでは終始mappingが「地図」と訳されている。「地図」と「マッピング」は違うって。またperspectiveというのは、訳しにくい英語だが、本書では「透視図」と訳して、そこに「ペースペクティヴ」とルビを振っている。パースペクティヴの訳語として「透視図」は最低でしょう。だったらカタカナで「パースペクティヴ」としたほうが、ずっとわかりやすいし、滑稽感もない。第一、この訳者は、原著者ロバートソンを、グローバル化の概念を提唱した最初の人物としての栄誉を担う人であり、アンソニー・ギデンズが自分こそ最初の提唱者だと主張しているのはおかしいというとき、「ギデンズの……クレジットの主張」という、わかりにくい日本語の表現を使っていながら、なぜパースペクティヴが「透視図」なのか。


そのほかにも「コエヴェ」のヘーゲル解釈という変な表記がでてくる。ちなみに「コエヴェ」のヘーゲル講義は、国文社から、コジェーヴヘーゲル講義として、この翻訳が出る前にすでに翻訳出版されている。またゲマインシャフトゲゼルシャフトの話は、やたら出てくるのだが、その概念の提唱者については「テンニース」という表記だから、あきれる。それからこの翻訳者は、フレドリック・ジェイムソンのことを、終始一貫して「ジェイミソン」と表記。「ジェイムソン/ジェイミソン」について原著者は重視しているのだが、翻訳者は何も知らないことは歴然としていて、巻末の文献表にも日本語訳の翻訳についての情報は出てこない。


あと「ポスト」をすべて機械的に「脱」と訳しているため、「脱構造主義」「脱植民地主義」「脱近代性」「脱近代主義」が頻出する。いったいこれはいつの時代の翻訳なのか、明治時代の翻訳なのか。まあ実のところ「脱」には、「ポスト」とルビが振ってあるので、わからないわけではないが、しかし「ポスト植民地主義」と「脱植民地主義」があることを翻訳者は知らないらしく、「脱近代主義」には「ポスト」とルビがあるのに(しかしこれは「ポストモダニズム」のことなんですけれどもね)、「脱植民地主義」にはルビがない。まあ翻訳者、頭おかしいのだろう。


しかし、頭がおかしくても、たとえ訳語がおかしくても、固有名詞の表記がまちがっていても、正しく翻訳してくれれば、それでいいともいえる。この原著は、基本文献である。原著はもっていないが、原著からよく引用される文がある。原文と翻訳を並べてみる。

Globalization as a concept refers both to the compression of the world and the intensification of consciousness of the world as a whole.(p.8)


グローバリゼーションの概念は、世界の縮小と、一つの全体としての世界という意識の増大の双方に言及する。(p.19)

私にはこの訳文がわかりやすいか、わかりにくいか判断できない。よく引用される箇所なので、すぐに意味がわかるからだ。だから私がわかりやすいと思ったとしても、あまり信用できないもしれないが、ただ、正確な訳文だと思った瞬間、最後の「言及する」というので、がっかりした。日本語を読んだけでも、原文はrefer toだろうと想像できる。事実そうなのだが、「言及する」というのは、基本的には人間が主語のときで、物が主語の時には、「言及する」とはいわない。「この本が言及しているのは」といえなくもないが、ふうつは「作者がこの本で言及しているのは」という。「概念」が何かに「言及する」とは、意味と無意味の境界線上にある(訳語としては「示す」、時には「あてはまる」「含む」なども可能だろう。機械的に「言及する」と訳すのは愚かだ。辞書で調べろ)。要は、上記の翻訳が、ただ横のものを縦にしただけで、単語の意味も辞書の最初に載っているt語義を機械的にあてはめるだけの、きわめてずさんな翻訳である可能性が高いということだ。誤訳率も当然、高いことが予想される。


となると原著を購入するか、借りて読むしかないのだが、問題はその原著である。


基本的文献であることはすでに述べた。グローバル化の議論に宗教社会学的見地をとりいれたことでも名高い著者の考え方を知ることのできる章は、「ファンダメンタリズム」(翻訳では、原理主義とは訳さずカタカナ表記のまま。ならばどうして透視図で、脱近代主義なのだ、アホ)を論じた章も含めて翻訳されなかったようだ。残念。しかし幸い、日本と宗教を論じた章がある。幸いというのは、原書を購入したり読む価値はないことがこの章からわかるからだ。


あまり信頼の置けない翻訳を通して読んだ結果なので原著者には不運なことながら、しかし、この章の内容はひどい。「日本のグローバル性と日本の宗教」と題された章を、私は、日本について語っているのだから、どうせいい加減な議論だろう、問題点を探してやろうという意気込みと、むしろ外国人だからこそ、日本的観点からは見えてこないものが見え、新しい洞察を示してくれるのではないかという期待をいだきつつ、かなり緊張して読んだが、具体的にわかったことは、日本では「創価学会立正佼成会が力を持っている」ということだけなのだ。それ以外に具体的な事実は出てこない。


数年前、大学院のある学科を受験する外国人留学生の書いた論文を審査のため読まされたことがある。日本語の論文で、日本語はよく書けている。しかし、読みながら、むかむかしてきた。論述の方法がおかしいのである。こうしたことを論じたと書いてあっても、どこで論じているのか、わからない。何度もページをめくったが、どこで論じてあるのかわからない。そしてろくな論証もせずに、次の話題に入り、議論の要約だけですませてしまう。いろいろ証拠となる箇所をメモして、「あなた、こんなレジュメのような論文を書いていたはだめですよ」とコメントするつもりで面接会場に行ってわかったのは、その論文がレジュメであるということだった。本体は膨大な論文なので、レジュメだけ読んでもらったというのは、その学科の主任の弁だが、その判断はよいとしても、一言、これはレジュメだからと断って欲しかった。レジュメのようだと思っても、レジュメと見抜けなかった私がバカなのはわかっているが、一言、断っておくのも混乱を防ぐためには必要だったのではなかったか。


こんなことを思い出したのも、この原著、まあ下手で信頼のおけない翻訳を通して、はっきりいっていい加減に読んだとはいえ、レジュメとは言わないまでも、レジュメに近いものがあり、全体で、レジュメと、文献解説で終わっている。重要なことや新たなパースペクティヴは示されず、過去の学説にどのようなものがあったかがわかるだけである。いや原著者の主張はあるが、その主張が、論証抜き、実例抜きで、ただ箇条書きされているところがあり、ただ、そうですかと拝聴するしかない。随所に面白いところもあるが、それは過去に、こんなことが議論されていたのかと発見するところであって、著者のコメントが面白いというわけではない。


時間とお金の無駄であった。世の中にはまだひどい翻訳もあるものだと確認でき、不備がある自分の翻訳も、これにくらべればりっぱなものだと思えてきた。だが、そのような自信こそ危険であって、比べる相手のレヴェルが低すぎるということもあり、こんなことで安心していてもしょうがない。


ちなみに翻訳者は、国際会議のシンポジウムで「ラポルトゥア」をつとめてたと、あとがきで語っている。この程度の英語力で、国際会議に出席して発言できるというのもおかしいし、そんな日本人のいる日本のことを世界で最もグローバル化が進んだ国として考える原著者も頭がおかしいとしかいいようがない。まあ、原著者もこの本も、東京大学出版会の翻訳書部門も、歴史のくずかごのなかに直行したほうがいいと思う。