グローバル化II

前回は少し怒りすぎたので反省。まあロバートソンの本は、定評のある本で、グローバル化を考えるときの基本文献。参考にさせてもらった部分は多い。また前回のコメントからもわかるように、原著は、きわめて広範囲にわたって、英米圏の人文社会系の言論を渉猟している。そのため、参考になることが多いのだ。惜しむらくは、翻訳者が、原著者の思考の幅と奥行きを持っていないことである。たとえばアラスデア・マッキンタイアの本についても言及がある。この翻訳では『徳に倣いて』と訳している。マッキンタイアーの本After Virtueを指しているのだろうが、またAfterがどんな意味なのか、原著にあたってみないとわからないから、こう訳したのだろうが、「徳に倣いて」というのはなんじゃい。あほかい。驚くべきは、この翻訳が出るまえにマッキンタイアの本は、すでに翻訳がみすず書房から出版されていたことだ。タイトルは『美徳なき時代』*1。ほんとうにこの翻訳者、社会学のことしか知らず、社会学を含む、人文社会系の知識は皆無に等しいのだ。なにをえらそうに、翻訳し、あとがきを書いているのか……。


あ、また怒りが沸いてきたので、やめる。


これに比べるとジュディス・バトラー+ガヤトリ・スピヴァク『国家を歌うのは誰か?』竹村和子訳(岩波書店2008)は、竹村氏の優れた翻訳と丁寧な本作り、そして対談であること、またさらに分量も少ないこと、いろいろや要素から安心して一気に読める本である。


またそのぶん、内容をじっくり検討できる本になっている。そしてその内容だが、ふたりの論客の丁々発止というかたちでの対論ではなく、最初、バトラーがずっと話をし、つぎにスピヴァックが応答するのだが、その間、第三者の質問が入り、スピヴァックは応答的なコメントが多く、まとまった主張なり議論にはならない。そのため短い本ながら、全体像がちょっとつかみにくい。


丁寧な本作りというのは、このつかみづらい内容を、訳者の竹村氏が巻末のあとがき*2で、的確に要約して示してくれているからである。正直言って、このあとがきを読んだほうが、内容を把握しやすい。あとがきを読んで、なるほどそういうことだったのかと、認識をあらたにした部分もある。


またふたりが前提としているグローバル化(「グローバル・ステイト」と呼ばれているもの)も、従来の左翼系のグローバル化論とは異なるといえよう。そう、先のロバートソンの本には、べネディクト・アンダーソン、アルジュン・アパデュライ、ギデンズ、ジェイムソン、ウォーラースタインらのグローバル化論が紹介され論評されているが(そこに欠けているのは、ネグリ/ハートの帝国・マルチチュード論だけだ)、そうしたポストモダングローバル化論は出てこない。『国家を歌う……』で可能性を分析され批判されるのがアレントアガンベンだけなのである。そのためこの『国家……』で前提とされるグローバル化というのが、何を指しているのか、いまひとつはっきりしない。というか、実は、単純な前提で議論しているのではないかという疑いが生じてくる。個々の国民国家の枠を取り払い、世界が一つになることをグローバル化と呼び、それに対して異議を申し立てるのが、批判的地域主義だと言っているにすぎないところがある。これだとあまりに単純すぎる。


というのも、ポストモダン論であれ、グローバル化論であれ、グローバルなものとローカルなものは連動するという認識が、いまや強まることこそあれ、弱まることはない。実際、ロバートソンの本では「グローカライゼイション」という言葉すら存在しているのだ*3。ローカルなものは、グローバル化によって、産出され、そしてこれが重要なことなのだが固定されるのであって、そこにグローバルなものへの、世界システムへの、批判性を期待するのは、危険なことでもある。


もうひとつバトラーは、アーレントに逆らって読むといっているが、ここまで逆らうと、それは読みではなくて、曲解あるいはたんなる自説展開にすぎなくなる。


たとえば

その著作[『人間の条件』]では、政治を公的領域として論じるさいに古代ギリシア都市国家をモデルにしており、他方、私的領域(ついでながら彼女はこれを「暗い」領域、必然的に暗くなる[暗くなるに傍点]領域だと述べています)については、奴隷や子どもや公民権のない外国人が物質的生の再生産にかかずらわっている領域と考えているのです。彼女にとって後者の領域は、政治的ではけっしてないのです[けっしてないに傍点]。けれども政治は、公民権のない人や無給労働者やほとんど不可視の人たち、あるいはまったく不可視の人たちの領域を、措定しつつ排除するものなのです。(pp.10-11 引用は、竹村氏の翻訳を全面的に信頼するので、そのまま使わせていただいた。原文とも照合していない)

ここにあるのは、政治というと抑圧的なものと考えるポストモダン的偏見にすぎない。アーレントの本には、ここで述べられているようなことが、もちろん書かれているが、アーレントにとって政治的なものは解放的なものなので、評価は逆になる。


次の引用はどうであろう――

公的領域を追求しようとする彼女[アーレント]の主張は、彼女が他方で述べている公私の区別と齟齬をきたしているのではないでしょうか。公的なものが立ち現れるときには、かならずある種の住人を私的な事柄に、つまり前政治的事柄に追い遣るのではないでしょうか。そしてこのことは、ラディカルな民主主義の政治的展望としては、根本的に受け入れがたいものではないでしょうか。そしてまさにこれこそ、アーレントのなかの反民主主義的な心性を証拠立てるものであり……。(pp.15-16)

しかし根本的に受け入れがたいのは、このバトラーの偏見でしかないアーレント評価であり、政治的なもの=抑圧的なものという偏見から逃れられないバトラーはここまでいうのかと唖然とするし、これは彼女の高慢と偏見以外のなにものでもない。


アーレントの、政治的な領域のモデルが、古代ギリシア都市国家というのは、問題があるかもしれないが*4、しかしアーレントは現代において、政治的な領域は実現していないと述べているのである。アーレントの考えを図式的に述べれば政治と経済との対比があり、政治があるべき公的領域の場に、経済(節約、生存、家庭、オイコノミーの世界)が居座っているのが現代の不幸な状況なのである。もはや公的の場に、政治的なものは存在せず、経済的思考と景気配慮だけが存在する。


選挙の際、政治家たちは、あるべき社会や国家のヴィジョンを掲げて、あるいは差別撤廃を求めて、人権擁護を掲げて、防衛問題を押し出して、闘いたいであろう。しかし実際の選挙で勝敗を決するのは、給付金問題であり消費税問題であって、経済的問題、国民生活の生存と利害に関わる問題を前面に出さなければ選挙に勝てない。もはや政治は死んでいるというのがアーレントの主張である。


公的領域では、経済が政治を排除して君臨している。このどこが問題かといえば、「奴隷や子どもや公民権のない外国人」の存在が、直接的な生存の問題でもなければ景気回復の問題でもない、つまり経済問題ではないので、隠蔽されてしまうからである。バトラーは上記引用のなかで語っている――「公的なものが立ち現れるときには、かならずある種の住人を私的な事柄に、つまり前政治的事柄に追い遣るのではないでしょうか」、ちがう、まったくちがう。逆である。バトラーが理解しようとしないこと、それはアーレントによれば、経済が支配する世界では、「かならずある種の住人は」闇のなかに追い遣られるのであり、それを救うのは政治の世界でしかないということである。政治の世界でなら、直接的生存の利害に関わることのない権利や正義や公正の問題を議論できる。しかるに現在では経済が公的領域を支配しているので、ある種の住人を救う回路が存在せず、解放のアジェンダが成立しない。


バトラーは言う――「公的なものが立ち現れるときには、かならずある種の住人を私的な事柄に、つまり前政治的事柄に追い遣るのではないでしょうか」。まったくちがう。公的な領域における政治的な議論や措置や配慮が、つまり経済ではなく、政治的なるものだけが、「奴隷や子どもや公民権のない外国人……公民権のない人や無給労働者やほとんど不可視の人たち、あるいはまったく不可視の人たち」を可視化でき救済の手を差し伸べられるのである。そう主張するアーレントは、民主政治の可能性を全面的に信頼している。そんな彼女が、なぜバトラーから「根本的に受け入れがたい」だの、「反民主主義的な心性」だのと言われねばならないのか*5。繰り返せば、それは政治的なものを、抑圧的なものとして、一面的にしか考えず、対抗戦略を、路上のパフォーマンスにしか求めない、カリフォルニアの能天気なポストモダニストの前提を、バトラーが、無批判に反復しているということだ。そんなことだからシュワルツネッガーのような反動的知事を容認してしまうことになる。まあ、それはともかくとしても、バトラーは、アーレントの読者ではない。


そしてこの本を20ページも読まないうちから、私は、バトラーの読者ではなくなった。いや、最後まで丁寧に読ませてもらったが、よき読者でなくなった私は、この本のバトラーについて、あと何を語るにしても曲解するしかないと予想されるので、それではバトラーに失礼なので、コメントはこれで終わる。ただ、数多い、バトラーのよき読者には、このアーレント読解の問題点は考慮に入れて欲しい。そしてまたこの本のタイトル「国家を歌うのは誰か」は「国家」ではなく「国歌」ではないかと、いぶかるこれからの多くの読者には、これは決して誤訳でも語表記でもないが、しかし、内容は「国歌を歌う」ことと関係し、その議論はいろいろ考えさせる、きわめて魅力的なものであることを、私としても責任をもって保証したい。

*1:アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』篠崎榮訳(みすず書房1993)。

*2:「「グローバル・ステイト」をめぐる対話――あとがきにかえて」とあるが、りっぱな「あとがき」でもあるので、以下「あとがき」と表記。

*3:グローバル化」を「グローバリゼーション」という気持ちの悪い表記にしたくない理由もここにある。globalizationとlocalizationを合体させてロバートソンは、glocalizationという言葉をつくっているわけだが、その翻訳では「グローカリゼーション」と表記していて、「グローカリゼーション」では、そのなかに「ローカライゼイション」が含まれるのが見えてこないではないか!

*4:ルソーの自然状態に関するアーレントの議論について、<自然>状態という仮説を一種のフィクションとしてではなく、あまりに真剣に、つまり字義通りに受け取りすぎている(p.32)とバトラーは批判しているくせに、アーレントギリシア都市国家について、バトラー自身は、一種の仮説でありフィクションであるという読み方はしていなくて、あきらかにアーレントに対して冷たい。バトラー先生、それでは意地悪おばさんですよ。

*5:もうひとつ例をあげれば、バトラーは「彼女が経済的なものを看過あるいは周縁化したこと、事実それを政治それ自体への脅威として危険視したことによって、協同行動や無国籍の再考をともにひどく制限してしまったことです」(p.18)と述べているが、これも逆であり、経済ではなく、政治こそが、無国籍の問題を取り上げられるのである。トヨタの会長が無国籍の問題に、解放的・改革的な見地から関心を示すと思いますか、バトラー先生? トヨタの会長は政治に対する脅威ではありませんか、バトラー先生?