Genesis

昨日、日曜洋画劇場で『スーパーマン・リターンズ』(2006)を放映していた。すでにDVDで見ていたので(ブライアン・シンガーにはXメンの続編を撮ってもらいたかったので、このスーパーマン物は映画館ではなくレンタルしたDVDで見たにすぎない)、テレビでは見なかったが、パナヴィジョンのハイテック・カメラ、〈ジェネシス〉で撮影された初期の映画である。ほかにも私が見た映画のなかでは、第一次大戦の空中戦もの『フライボーイズ』(2006)もジェネシスで撮影されたらしいのだが、両作品ともCG画像を多用しているため、ジェネシスの映像がどの程度のものか判定できない(トニー・スコット監督の『デジャヴ』でもジェネシスは使われていたようだが、そういえば既視感はあるのだが、あれもCGの多い映画であったから、ジェネシスの威力は発揮されているのかどうか)。むしろCGを使わない映像のほうが、ジェネシスのよさがあらわれている。


そう思ったのは、本日、大学の帰りに近所のシネコンで『彼が二度愛したS』(2008)を見たからだ。これがまさにジェネシスの威力を、嫌というほど見せつけられる映画なのだ。見ながら、なぜ映像がこんなにも鮮明なのかと驚嘆した。透明感あふれる鮮明さとでもいえるものがそこにある。それは夜の場面に顕著で、ガラス張りの高層ビルの使用されていない会議室なりオフィスの一角で、深夜まで黙々と会計監査をする会計士の主人公の孤独、そして鮮明で無機質な、さむざむとした光景。ほとんどのビルの窓から光が漏れているのに、暖かさどころか空虚な冷気を感じさせる、その映像感覚。すべてが〈ジェネシス〉ならではのものだろう。


そう、ジェネシスの映像は、鮮明で寒い。映画の終わりのほうでスペインが出てくるが、スペインですら、まるで北欧であるかのように空気が澄みわたり、細部が鮮明に浮かび上がり、そして寒々としているのだ。こんな寒そうなスペインは見たことがない。そしてその冷気と寂寥感は人物たちが感ずる孤独と、彼らを取り巻く寒々とした人間関係とよくあっている。その意味でこれは一見の価値のある映画であろう。


いや、急いで付け加えないといけない、一見の価値のあるのはジェネシスの映像であって、この映画そのものではないと。『彼が二度愛したS』とういタイトルに魅かれたのは事実で(たしかにこの日本語のタイトルはすごすぎる(とはいえこのタイトルの形式には既視感もあるのだが)。官能ラヴサスペンスとか、見ていて飽きないと、ずっとはらはらしていたとか、先が読めないとう日本人のネット上でのコメントがあり、エンターテイメント映画としては、面白そうだと期待したのだが、原題がDeceptionであることを映画の冒頭で知ってから抱きはじめた予感は最終的に見事的中して、先が読めない部分もあるが、同時に、先が読めすぎるところもあり、はらはらはしない(いらいらはしても)、そして途中で飽きる。そもそもDeceptionという、このべたな原題はなんだ。こういう官能サスペンススリラーは、どんなものでもdeceptionでしょう。テレビの2時間物のサスペンス・ドラマの内容は、どれもdeceptionではないか。


善良な一般市民あるいはサラリーマンが、色仕掛けで騙され、陰謀とか犯罪の片棒を担がされるという映画には、最近では、クライヴ・オーウェン主演(ヴァンサン・カッセルジェニファー・アニストン共演)『すべてはその朝始まった』Derailed(2005)がある(アリ・カウリスマキ監督の比較的最近の映画にも、そんなのがあったような気がするが……)。しかもこのDerailedのほうが、原作がよいのか、ずっと面白いし迫力もある。そしてDerailedを観ていると、共通の要素が多くて、Deceptionの先が読めてしまう。Derailedにはない新機軸もあるのだけれども、Derailedより面白くない。


ユアン・マクレガー、ヒュー・ジャックマン、ミシェル・ウィリアムズといった演技陣は、みかたによっては薄気味悪いところをもっている役者たちだが、同時に、通常のみかたをすればみんな善人顔で暖かい人間関係にはぐくまれている役柄こそ似つかわしく、都会の孤独というタイプではない(ユアン・マクレガーがYoung Adam(日本語タイトル『猟人日記』)にみられたような冷酷さや孤独感を表出していればと思うのだが、それもない)。ミシェル・ウィリアムズは、私としては、あどけない、ぽっちゃりとした頃の彼女が好きなのだが、『ブロークバック・マウンテン』のときよりもさらに年齢がいった彼女は、映画の中では、妖艶な美女という役どころなのだが、でもあどけなさが残っているのだ。ヒュー・ジャックマンは善悪の両面を出せる役者だが、そのボディ・ビルディングのマッチョ体型とあいまって、どちらかというの野生派、肉体派なのだが、映画の中では残忍な殺人と同時にCIA並みの情報収集能力がないと出来ないような犯罪を犯すわけで、まったくミスマッチである。マギー・Qも、あれだけしか出てこないのは惜しい。


映画では、男性が電話で呼び出された女性(名前も、職業もわからないが、だいたいエグゼクティヴ・クラスの女性たち)とセックスをするという設定なのだが、では呼び出された行ってみると、相手が老いた女性だったら、若い男性はセックスの相手ができるのかということで、盛り上がっている日本のサイトがあったが、映画のなかでは、その老いた女性、シャーロット・ランプリングなのですよ(最近の若い人は知らないかもしれませんが)。とはいえシャーロット・ランプリングを、あんなに短く登場させることの意味はなにかとなると誰も答えられないだろう。


そして、盛り上げがない。いや、盛り上げ損ねている。このような官能ラヴサスペンス(とはいえそれほど官能的でもないのだが)は雰囲気とムードがすべて。せっかく都会の寒々とした孤独感を主題とし、また映像的には、けっこう凝った撮り方を終始しているのだから、映像だけでなく、全体で都会の孤独感を盛り上げてほしかった。それを見ながら酔いたかったが、盛り上げも足らなくて、しかも酔えず。これはつらい。こういう映画で酔えなかったら、どうなるというのだ。


ジェネシス止まりの映画としかいえないのだが。