盲者の記憶


盲者は映画を含む視覚芸術のなかでは特権的位置を占めている。もちろん、ある意味で、それ以上に、どのような地域、民族、国家の文化であっても、盲者の特権的位置はかわらないように思われる。視力を持たない人間の脆弱さと寄るべなさ、その絶望と悲惨は、ある意味人間の弱さの究極的シンボルであり、また同時に、視力のない人間の強靭さと異能は、呪いではなく祝福に思え、人間の悲惨のなかの栄光、脆弱さに転換される強靭さへと通ずる文化的シンボルでありイコンである。


そしたまた盲者は、文学と映画のなかでは意味づけを変える。そもそも白紙のうえのしるしを情報源として、さまざまな事実なり論理なり映像なり情動なりを頭のなかで構築する読者(文学にかぎらず、さまざまなエクリチュールの読み手)は、ある種の盲者である。小説の読者は、三人称で語られる主人公の顔を、ただ頭のなかにぼんやりと思い描くことしかできない。これに対し映像なり視覚芸術に接することは、まさに文学の読者が対峙している白い闇から、色彩の世界へと参入することである。文字から映像への転換は、白い闇から解放されて視力を得ることである。だが映像の世界で、わたしたちは例外的なものをみる。それが盲者である。


視覚化されることで、私たちにみえるものは、かつての、あるいはそうであるときの、自分の姿である。つまり文字/文学の読者であったときの、あるいは文字/文学の読者であるときの、自分の姿。したがって視覚世界によって可視化する盲者は、文字/文学の読者であった自分の姿、白い闇のなかで暗中模索する自分の姿であるが、同時に、視覚世界、光と色彩があふれる世界では、無力さをさらけださるをえない自分のかつての/別モードでの姿。しかし、わたしたちは、盲者が、その内面においては、視覚世界にも劣らぬ豊かな想像世界なり論理世界をたずさえていることを知っている。視覚世界で盲者は、視力を欠落させた人間だが、同時に、視覚世界では、盲者は、視覚世界にはない内面性の保持者として、視覚世界に欠落しているもののシンボルともなる。


映画の歴史において盲者は特権的地位を占めるとともに、伝統的表象として地歩を固めている。そう映画『ブラインドネス』を上演している映画館の近くで、あるいはシネコンのなかで、いまもなお綾瀬はるか演ずる女座頭市映画『ICHI』が上映中である。盲者は、映画のなかで途絶えることなく登場しつづけている。たとえば数年前も木村拓哉が盲目の剣士を演じた『武士の一分』がある。その時、木村拓哉山田洋次監督から、演技の参考に見るようにといわれたのがアル・パチーノ主演の『セント・オブ・ウーマン』である。あるいは今回の『ブライドネス』では、出演者のひとりダニー・クローバーは監督からドキュメンタリ映画Black Sunを見るように進められたという――視力を失った芸術家のドキュメンタリ映画である。探せば盲者をテーマにした映画のネットワークはすぐにみつかるだろう。それほどまでに映画において盲者は特権的伝統と化している。


今回の『ブラインドネス』は、座頭市のように盲者がひとりいるのではなく、謎の伝染病によって全員が盲者になることである(唯一この伝染病に感染しなかった女性が主人公になるのだが)。今年公開された映画で、ナイトシャマラン監督の映画『ハプニング』では、通常、絶対にお目にかかることのない映像を見ることができた。それは、自分の命を、なんの価値もないごみのように捨てる人間の姿。みずからすすんで、なんの苦悶も、苦悩も、また喜びも悲しみもなく、たんたんと自分の命を捨てる人間たちの、驚くべき映像があったが、今回は、すべての人間が盲者化するという世界が出現する。これほどまで多くの盲者を一度にみることはなかったのではないかといえる世界。


しかも彼らは伝染病患者として社会に脅威を与える人間として隔離され監禁される。ここから二つの表象が生まれる。ひとつは、ゾンビーのそれである。隔離され放置され、死滅することを期待される盲者たちは、視力を失っているので、すべて聴覚と手探りでしか行動できず、動作もにぶくなる。半死半生の状態へと社会的に追い遣られる彼らは、まさに半死半生の監禁生活のなかで、手探りでしか動けない身体条件のなかで、ソンビ化する。


映画の後半では、監禁状態から解放された彼らが荒廃した都市に足を踏み入れるとき、そこを彷徨する盲者の群れは、まさにソンビの集団である。ジュリアン・ムーアがスーパーから食料を調達して帰るときに、盲者に襲われるのだが、それはまさに数多あるゾンビ映画の一場面を想起する。ただ、死者から蘇ったゾンビは、そんなに体力も活力もないので、動きが緩慢なのだが、最近は、ゾンビ、吸血鬼物では、この設定を覆して運動性能を高めている。『28日後』と『28週間後』の感染者たちは吸血鬼になると、猛烈な勢いで走り出す。走るゾンビ=吸血鬼も登場している昨今だが、本来は、ゾンビは動きは鈍い。そして動きの鈍いゾンビから逆に考えると、ゾンビ表象の起源は、盲者かもしれない。


ゾンビは、ある意味、まさに「浮遊するシニフィアンfloating signifier」であって、さまざまなシニフィエを呼び寄せる。そうしたシニフィエは、社会に驚異的存在者であることが多く、人種的他者、民族的・性的マイノリティ、そしてunderclass一般となる。映画のなかで社会から見捨てられた社会的脅威者=伝染病患者=盲者たちが監禁される病院での悲惨な生活は、まさにブラジルのリオデジャネイロ郊外に広がる貧民外ファベーラを舞台にした映画『シティ・オブ・ゴッド』の監督フェルディナンド・メイレレスならではの強烈なスラム街のそれである。そこでは絶望的な明日なき状況のなかで、人々は耐え、そして助け合い、連帯すると同時に、不正と暴力と悪もまた蔓延する。映画を見ながら、これはもう『蟹工船』を越えていると思った。だが、超える、超えないというのはセンセーショナルなだけの無意味な評言なので、撤回して、こういいなおしたい。『蟹工船』に匹敵する、と*1
 

と同時にさらに、盲目であることがもたらす人間存在の根本的転換と認識の刷新、さらには盲目の状態であるからこそ、肉体性と内面性を発見できること、そしてそのように再発見され刷新された肉体性と内面性こそが、新しい人間関係の基盤となること。これはもうシェイクスピアの『リア王』の世界ではないかという気がした。『リア王』を大学で読んでいる。しかし、これまで学生として教師として、授業でもう何回読んだからわからない『リア王』については、新鮮さはなく、読み返すことなく、ただ学生の話を聴いているだけだったが、この映画を見て、もう一度、『リア王』を真剣に読み直さねばならないと思った。『リア王』が視力のドラマであるといったのは、演出家のピーター・ブルックだったが、この映画をみて、私は『リア王』が盲目性のドラマであると思った(ブルックに反論しているのではなく、ブルックの意見をべつのかたちで言い換えたらこうなるとういことでもあるが)。劇中で眼球を抜かれ、盲目となって息子に手を引かれてあるくグロスターの姿こと、『リア王』における中心的表象であるという思いを強くした。


いやそもそも寄る辺なきホームレス、見捨てられた狂人、病者、盲者、こうした底辺に押しやられた人々、そのすべてを、まさに社会的ソンビを見せるのが『リア王』であり、この『ブラインドネス』なのだ。だが盲目性にもどろう。


人間は寄る辺泣き裸の二本足の動物にすぎないという、ホームレス・ドラマでもある『リア王』の主題は、人間が盲目になることによって、最も痛切に自覚されるうる。しかも外的環境を見ることのない盲者の眼は、ひたすら内面を凝視しているかにみえる。盲者の、外的世界のなかで自由に動けない肉体は、そのまま内面そのものとなる。盲者とは歩く内面である。内面とは肉体、それも裸体であることを、この映画ではじめて教えられたような気がする(それはまた登場人物が固有名詞ではなく、ただ医者とか医者の妻というかたちで呼ばれていることこからもいえる)。そして、そうであればこそ、盲目性は、ある種の恩寵であり、目の見える人間には絶対に到達できない認識に到達し、人間をぎりぎりのところで裸のかたちで連帯させる特権的契機なのである。


そう、ここで私は、難解なため途中で投げ出していたデリダの『盲者の記憶』を思い出した。今度は最後まで読めそうだという予感に襲われた。


この文章の結末はふたつである。
1)IMDbに寄せられたこの映画のあるコメントによれば、ノーベル賞作家のジョゼ・サラマーゴの原作の映画化と思わなければ(映画化は不可能なので)、そしてこれを原作とは関係のない独自の映画とみれば、今年度のベストワン映画である。恥ずかしながら私はサラマーゴの原作を読んでいない(サラマーゴの『リカルド・レイスの死の年』は、ペソアの『不安の書』といっしょに私の本棚に並んでいる)が、たしかにどのような原作も映画化は不可能であるという一般論を排し、なおかつ原作を読んでいない状態で無責任なことをいえば、原作を損なうことのない優れた映画と映像になっているのではないかと思うし、まちがいなく私が見た限りでは今年度ベストワンである。


2)映画のプログラムは、プログラム史上異例の92ページであることをうたっている。ただし写真が多く、また余白も多いので、無理に買わなくてもいいといいたいところだが、数多く収められているスチール写真(映画の中の一場面ではなく)が、予想外に優れた写真なので、買う価値はあるかもしれない。中身は基本情報や監督・スタッフ・俳優へのインタヴューを除くと、滝本誠町山智浩らが書いているが、なんか話が薄い。吉田広明は、ノーベル賞作家の作品とその映画(化)というテーマで短い文章を書いているが、最後にベケットの『フィルム』をもってきたってしょうがないでしょう。またベケットのその映画については英文学者だったら、昔、高橋康也氏の優れた紹介があって、誰でも知っていることなのだから。フィルム・ノワールについて語っていろといいたいのだが、しかし、その文書は、他に比べたら、かなりましである。滝本、町山については、営業妨害はしたくないが、どうでもいいような文章書きやがって、デヴィド・リンチの映画じゃないんだから、おまえらひっこんでろといいたい。もっとほかにましな書き手はいなかったのか。残念である。

*1:ちなみに小説『蟹工船』に出てくる川崎船について、最初「かわさきせん」と読んでしまい、まちがった私は、長く、川崎船(かわさきぶね)の語源も形状もわからなかったのだが、今回、この文章を書くために調べたらわかった。まあ知っている人には、珍しくもない知識かもしれないが。成果は教えない。