割れ鍋に割れ蓋

日本英文学会では、来年度の評議員を決める選挙の準備が始まった。各支部から1名の評議員を出してもらい、計7名の評議員評議員会が構成されるのが新体制なのだが、しかし、今年度は、英文学会の寄附行為(名称が異様かもしれないが、これは学会の「規則を定めたもの」と考えてください)を改めなかったので、旧制度のルールで評議員選挙を行うしかない。またそうしないと文科省に認めてもらえない。


繰り返すと、現在、日本英文学会を規定している「ルール」(寄附行為)の変更は行われていないので、評議員をはじめとして執行部は、更新変更前の、現行のルールに基づいて選出されるということ。現行ルールでは評議員の数は、10名以上(何名以下だったかは忘れた)と定められているので、7名の評議員では数が不足し、文科省に認めてもらえない。そこで大学代表会議(新体制に完全移行まで2年間残すことになった)から3名評議員を選ぶことになった。


新体制・支部体制支援派には、評判が悪いようだ。完全に新しい支部体制に移行しないばかりか、新体制が民主的ではないから、こうして新旧共存のかたちを2年間続けることに対して。


新体制案は民主的ではないと、はっきり書いてある文書がある(私が書いたのだが)。これに対して新体制支援は、むかついているらしいが、残念ながら、新体制支持派は、この私の認識がまちがっていると反論できない。事実、新体制案は、誰が見ても、民主的でないからだ。そのかわり、彼らは、旧体制だって民主的ではないと反論してくる。アホか、私は旧体制が民主的であるなどと一度も言っていない。旧体制は、いろいろな事情から維持できなくなった。文科省にも認められなくなった。そのため改革が必要となった。そんなことぐらい、私は知っている。私を旧体制擁護派だと決め付けたいみたいだが、それこそチンピラの言いがかりだ。問題なのは、民主的ではない旧体制を、新体制にする改革案が、旧体制に劣らず、民主的ではないのである。そこに私は、もっとむかついているのだ。


実際、新体制案が、もっとしっかりしたものならば、それらを構築した人たちを、私は批判する必要などないし、むしろの苦労と功績を長く、永遠と一日ほど、たたえるのにやぶさかではない*1。しかし新体制案には欠陥がある。欠陥のある旧体制を是正するときに、欠陥のある新体制案をつくって、それを押し付けてくるというのは、むかつくのである。


もちろん、現執行部は、前の執行部が決めたことを引き継ぐという約束のもとに発足しているので(実情を知らない時点で継承を約束させられたので、それは詐欺に近い。いまだったら、引き継がないとはっきりいえるのだが)、約束を破らず、新体制案に基づく移行の準備はしてある。しかし新体制案に対する異論・反論は出されているので、今年度中に寄附行為を書き換えることはせずに(そんなことをしたら、とんでもない禍根を残すことになる)、新体制と旧体制とを共存させ、議論を尽くして、寄附行為というかルールを変えることにした。新体制の評議員は4年任期である。旧体制の評議員は2年任期である。旧体制の評議員は2年でやめるので、その後は、新体制の評議員会となるが、しかし、支部体制の見直しもされたら、評議委員会もどうなるかわからない。


旧体制が民主的でないことはわかっている。大学代表とういかたちで、博士課程の大学院をもつを英文科の教員から大学代表を出してもらい、その代表会議で、評議員なり理事を決めるのである。それはエリート集団の会議である。会員全員が選挙権をもっていない。残念ながら民主的ではない。


では新体制案はどうかというと、会員全員が支部に入り、支部ごとに民主的選挙を行って学会全体の執行部を選出するということになる。これは民主的に思われる。エリート会議も存在しない。しかし、全員が支部に入っていないし、新会員は支部に必ず入るのだが、旧会員は、支部に入らなくてもいいとなると、選挙権のある会員とない会員にわかれる。しかも支部に入るには余分に支部会費を払う必要がある。結局、票を金で買う会員と、そうでない会員にわかれる。この状態が、移行期間の5年間をすぎても改善されるとは思われない。旧会員が辞めたり死んで、新会員が増えれば、この不平等は改善されるが、それには5年以上かかる。そしてひとりでも選挙権をもたない会員がいるかぎり、英文学会の民主化は遅れるのである。


まさに割れ鍋に、割れ蓋でどうしようもないのだが、新体制派は、これが矛盾であることは認めるという。認めればいいという問題ではない。この問題さえクリアすれば、あとは些細な問題にすぎない。この問題がクリアできないかぎり、新体制案などクズ案、いや、恐るべき不平等体制である。


個人的には、私は支部体制には反対である。ただし支部活動に反対ではない。支部は任意団体として残りに自由に活動すればいいし、会員も複数の支部に入ったりして、交流を深めることができる。そして執行部選挙は、もう直接選挙しかなくて、そのなかで支部が特定の代表に集団投票すれば、支部代表が評議員や理事や会長になる可能性も出てくる。全員が投票権をもち、直接選挙しかないと私は思っている(以前、このブログで、支部とはべつに機械的に地区分割をするとうい案を出したが、それとは別の案である)。


では、なぜ新体制案作成者たちがそうしなかったかというと、直接選挙をすると経費がかかるとか、作業が煩雑になるというような事務的理由もあったかもしれないが(将来的には電子投票なども可能になれば、経費は問題にしなくてよくなる)、それよりも直接投票にしたら、どんなへんな奴が評議員や理事になるかわかったものではないという理由なのである。


そのために支部体制にした。すでに存在していて伝統のある支部は問題なく、問題のない代表を選んでくるだろう。これは正しい判断であることはまちがいない。また英文学会の活動と支部の活動とが連動するという形も、そうした支部ではできているので、問題が生じない(とはいえ、その支部の管轄地域でも入会していない会員は少しはいるだろうと思われる)。


ならば支部が存在していない地域はどうか。その場合、その地域全員で、投票をして支部長を決めれば、その地域だけは会員が全員支部に入るという理想的な形あるいは本来あるべきかたちになる。ふつうそうである。古い組織は問題を引き継いでいるかもしれないが、新しい組織は、いろいろなしがらみなどなく、理想的に創設できる。ところが新しく出来た関東支部と関西支部は、いまでも地区の半分くらいの会員しか組織できていない。本来なら新しくできる支部は、地域の全会員を支部会員にできたはずなのに。


理由は、地区の全会員で、民主的な選挙をして支部代表を選ばせたら、どんなへんな人間が選ばれるかわからないという配慮である(あるいは特定の人間に支部を任せようとしたようにみえるが、確証があるわけではない)。結局、関東支部も関西支部も、民主的な組織である前にエリート集団として立ち上げられたのであり、しかも、地区の会員の半分からはそっぽを向かれている、そのエリート集団(関東支部と関西支部)からの評議員で新体制を運営してゆく? いったいどこが民主的なのか。旧制度の大学代表会議というエリート会議が民主的でないことは確かだが、支部体制を基盤とする新体制が民主的でないこともまたまちがいないのである。あるいはもっとひどい。


もっとひどい、などと書くと、旧体制を擁護していると非難されそうだが、くりかえすと、そういうことはない。新体制案擁護派によれば、選挙権の問題について。誰もが学会の運営に強い関心があるわけでははない。ほとんどの会員は、適当にどこかでうまく決めてくれればいいと思っているし、投票権がなくても、気にしないだろう、という。それは一理ある。しかし投票権は、たとえ実際に行使されなくても、全員がもっているのが原則で、この原則を失えば、それこそ明治時代の選挙(ある英文科大学院生の言葉)になってしまうし、第一文科省が認めるはずはない。つまり新体制案は、文科省に対して、全員が支部に入っていると嘘をつき、投票権のある者と、ない者とが共存する非民主的体制であることを隠しとおすつもりなのだ。嘘とごまかしの新体制案。これをひどいといわずして何か。


ただ、いくらひどくても、それとはべつに、改革の努力はしなければならない。そして新執行部は、現在のルール(寄附行為)で選ばないと文科省で認めてもらえないから、支部選出の評議員7名と、大学代表選出の評議員3名の計10名で評議員会を構成するしかないのである。そしてこの新評議会で、審議してもらうしかない。完全に民主化されたかたちの学会を求めて。

*1:永遠と一日の、この用法はテオ・アンゲロプロスの用法ではなく、シェイクスピアの用法に基づいている。