鳩が出ますよ

ジョン・ウー監督『レッド・クリフ』は、どこからどうみても、ジョン・ウーの映画で、たしかに一定の作家スタイルを確立した点は、すごいといわざるをえない。そしてその作家性のなかに、物語的違和感とか矛盾とか、不透明性を、すべて包み込んでいるとでもいえようか。それは、戦闘シーンばかりという印象をもった観客の多いことからもうかがえる。たしかにジョン・ウーお得意のスローモーションでの戦闘シーンや、大軍の衝突といったスペクタクル・シーンは多いのだが、実際には、同時に悩める主人公たちの内面も描かれる(これもまたジョン・ウーお得意の描き方だが)。しかし、それを最終的には合戦のシーンが包み込んでしまう。神話伝承的豪傑たち(張飛関羽と超雲ら)の戦いであると同時に近代的軍人の知略謀略(周瑜孔明)と人間的苦悩(周瑜)という、ある意味、相容れない世界が戦闘シーンのなかで、燃え融解するのである……。とはいえ火は第2部の話だった――第1部は、これでもプロローグなのである。



ただそれにしても第1部を見る限り、剣と槍と弓という戦いは、基本的にテレビや映画で見る日本の戦国時代の戦いを髣髴とさせて、一瞬、どこの国の映画をみているのか、わからなくなるところがある。超雲が劉備の息子を救出する場面は、黒澤明の『七人の侍』を再現しているとのこと。残念ながら黒澤映画を思い出せなかった私だが、日本映画のようだという感想は、黒澤映画に少しかすっていたということだろうか。


とはいえ『レッドクリフ』が一番よく似ているというか、それが属すジャンルとは、まさに『ロード・オブ・ザ・リング』が先駆けとなったローテク戦争スペクタクルなのだが。



最初、曹操役にチョン・ユンファが決まっていて、これに孔明金城武で、あとトニー・レオンがどの役かということが興味の対象となっていたが、結果的に周瑜となって、それはそれで面白いのだが、チョン・ユンファが降りたことで(かわりに『覇王別姫』の先輩でしょう)、曹操という三国志演義では悪く書かれているが、たぶん偉大な人物であっただろうと推測できる為政者のスケールが少し小さくなったような気がした。あと孔明金城武周瑜のトニー・レオンが仲良く並んで立っているのを見ると、なんだか違和感がいっぱいだったのだが、あとで三国志演義をふりかえってみると、違和感の原因がわかった。そう、孔明周瑜は仲が悪い。孔明を信用しない周瑜は10日で矢を10万本集めてくるようにと孔明に難題をふっかける。孔明はそれを3日という期限でやりとげてしまうのだが、演義でのふたりは、曹操の大軍の前では連帯するのだが、基本的には周瑜孔明に猜疑心を抱き、敵対関係を崩さず、映画のように友情では結ばれていない。



あと赤壁の戦いというのは、基本的に曹操と、周瑜孫権の戦いで、そこに孔明劉備張飛関羽も超雲も本来は関係しないのだが、演義では、孔明をはじめとして、戦いにかかわりを持つようになっている。そもそも劉備は、まだ蜀の支配者とはなっていない。ああ、超雲が助けるあの赤ん坊も、結果として蜀のバカ君主になってしまうのだ。また赤壁の戦いは大軍のぶつかりあいで、そして曹操の軍隊が壊滅的打撃を受け、そして全体のクライマックスのひとつに位置づけられているのだが、その後、なにか大きく歴史が動いたというわけでもないし、魏と呉の関係は、そのままなのである。


数の少ない軍勢が、圧倒的多数の軍隊を破ったというのは、歴史に残ってしかるべき戦いだが、しかし三国志演義が書かれた頃には、たとえばナポレオン戦争のボロジノの戦いについて、これを、ロシア軍が負けはしたものナポレオン軍に対しはじめて本格的な抵抗を行ない、ナポレオンの帝国主義的野望をくじいた戦いとして強力に意味づけた『戦争と平和』のトルストイのような作家はいなかった。赤壁の戦い曹操帝国主義的野望をくじいたともいえる戦いなのだが、そのような意味づけは、演義の世界観――徳の問題でしか歴史と世界を枠付けることができず、民衆の力といったものを考慮できない世界観――のなかでは、いっさいなされず、ふたたび、あまたある合戦の連続のなかで忘れ去られているように思われる。



数年前、卒業論文の口頭試問のときに、カズオ・イシグロの『日の名残り』を扱った学生に対し、イギリス人の教員が、『日の名残り』の映画版の話しなり、たとえばあそこで、鳥が飛ぶのは、死を暗示していないかとか、たとえば『ブレードランナー』の最後でも白い鳩が空に羽ばたいていくし、『ナイロビの蜂』でも(もちろん英語で話していたので英語の原題The Constant Gardnerと語ったわけだが)、鳥が飛ぶでしょう、あれも死をあらわしているのですよと、早口の英語でまくしたてたたので、学生も困ってた。たとえその早口の英語が理解できても、『ブレードランナー』や『ナイロビの蜂』など見ていなかったら、あるいはそもそも、それが映画のタイトルと把握できなかったら、なにもわからないのだから。


もちろんその外国人教員が触れていることは正してく、映画のなかで、鳥が飛べば、それは魂の飛翔であることはいうまでもない。私も例をあげるなら、たとえば『グローリー』という映画(『ラスト・サムライ』と同じ監督)、南北戦争時代に、北軍の側で戦った黒人志願兵の部隊の活躍を(実話に基づいて)描くこの映画のなかで、最後に難攻不落の南軍の砦に対して危険な突撃を敢行するとき、黒人部隊の司令官であるマシュー・ブロドリック(彼は白人士官として、黒人部隊を訓練し指揮してきたのだが)が、海岸に整列した部隊を前にして、スピーチをする。そのとき、彼が海のほうをみると、海面を鳥たちの群れが彼方へと飛んでゆく。これでわかってしまうのだ。この最後の戦いで、彼らは、みんな死ぬのか、と。胸が詰まってくる。歴史的事実では南軍の砦は最後まで陥落せず、この黒人部隊の突撃で、指揮官と部隊の過半数が戦死する。だが映画のなかでは、この部隊は全滅する(あと忘れていたが、今年の映画の『おくりびと』も、白鳥が飛んでゆくシーンがある)。


こうした映画の文法に照らしてみると、ジョン・ウーの白い鳩はいったいなんだろうか。ジョン・ウーの映画では、そもそも鳩がいそうもないところに、飛んでくる。ある意味、不条理なまでの白鳩の飛翔は、笑っていいのか、たんなるトレードマークとして我慢すべきなのか、『レッド・クリフPart 1』では、最後に、鳩が、文字通り鳥瞰するところで終わっているのだが。