くたばれ裁判員制度


残念ながら裁判員候補の通知は私のところに来なかった。来ていたら、それを公表して、あとは破って捨てるか、絶対に協力しないと送り返すか、とにかくもっとも効果的な反対表明を模索するつもりだったのだが、来ない以上、どうしようもない。効果的な反対表明については、研究するつもりだが。


たとえば、もし選ばれても裁判員になることを拒否すれば、罰金を払わされる。しかしそれは前科とならない。つまり裁判員制度に反対して前科一犯になるということにならない。ではもしその科料(つまり罰金)払わなければ、前科一犯になるのかもしれないが、それは罰金を払わなかったゆえの前科で、裁判員制度に反対しての前科一犯とはならないのだ。なんという姑息な法律なのだろう。なお、こういうことは裁判員が判事の裁判で主張したいと思っても、だめである。裁判員は死刑にするかどうかを決める裁判に動員されるのであって、軽犯罪には関与しない。


「平成の赤紙」というような表現をメディアでもするようになってきて、この裁判員制度の矛盾と問題点が浮き彫りになってきているようなのだが、重要なことは、1)裁判員制度は、徴兵制と同じく、国民を動員するために制度であるということ。もしこんな制度を容認していたら、国民生活が規制されること(規制緩和を唱えるバカ論者がこれに反対しないのは、裁判員制度こそが規制緩和だと思っているからであって、もしそうなら、「規制緩和」こそ、国民生活を圧迫するおぞましき選択肢であるといわねばならない)。


そして2)国家が間違った判断をした場合、それに反対して、正すことこそ国民の責務であるし、また間違った判断をした国家に従う必要はないのである。


もしこれが国家が戦争に参加するような判断をした場合、戦時において、それに従わないというのは、まさに命がけの行為で、迫害は本人だけでなく身内や知人にも及ぶ可能性もあり、そこまでできるかどうか、そこまでの勇気はもてるかどうか、誰もが不安になることだろう。しかし、今回、この、勝手に知らないうちに決められた制度に対し、また憲法違反そのものでもあるこの制度に対し、反対するのは、勇気もなにも必要としない。しかも反対したほうが、国民ひとりひとりの生活に支障をきたすことがない。そして、むしろここで、積極的に反対しておかないと、今後、国家が国民をいかようにもコントロールできると自信をつけてしまうだろう。私たちが、これに反対することこそ、私たちが未来に向けて捧げることのできる贈り物なのである。