平和の天使 1

むかし日本で『インターン』というアメリカの連続テレビドラマを放送してたことがある。それは今風にいうとフジテレビが昨年放送していて、今年1月にも特別編を放送する(その前に昨年放送分も再放送するらしいが)『コードブルー』のような、複数の若い医師たちが活躍する医療ドラマといったらわかりやすいだろうか。日本では、そこに出演していた若い俳優たち(とくに男性)に人気がでたのだが、アメリカでは一シーズンかそこらで打ち切りになって日本の視聴者を残念がらせたドラマであった。まあ『ER』ような迫力もなかったのだが。


このシリーズのなかで、反戦運動を扱う回があった。当時はベトナム戦争の真っ最中で、当然、アメリカでも日本でも反戦運動は盛んであった。物語は反戦運動のデモ隊と警官隊との衝突に病院が巻き込まれ、反戦運動の指導者の女性と病院とがなにか関係をもつようになるという話だった――と、記憶するが、ちがっているかもしれない。ただ最後は、はっきりと覚えている。その反戦運動の女性指導者が精神異常者だとわかり、病院に入院することになるのだ。それがそのエピソードの終わりであった。


当時、のん気な小学生か中学生だった私は、ああ、そうか反戦運動家なんて、みんな精神異常者なんだとは思わずに、さすがに、これはちがうだろうと唖然とし、また怒りさえ覚えた。つまりそういうふうに反戦運動を貶める、その物語の悪辣さを子供ながらにはっきり見抜いたいたのである。このとき――はじめてかどうかは、わからないが、私としてははじめてと思いたいのだが――、物語のイデオロギー性のようなものに気づいた。それは、たとえばこれまで、私としては何も疑わずに接してきた両親とか兄弟姉妹、あるいは友人が、悪辣な犯罪者であることを発見したかのような衝撃と不快感を伴っていた。


私は、この体験から物語の政治的イデオロギー性を学んだと思ったし(イデオロギーという言葉は知らなかったが)、そのイデオロギー性によって欺かれないように深く肝に銘じた。なにしろ、まだ子供であった私が、反戦運動家などみんな頭がおかしいのだと、洗脳されるというか刷り込まれるのと、ここには反戦運動を貶めるアメリカの保守軍部勢力のイデオロギーがあると見抜くのとは、ほんの紙一重であったからだ。そのとき、私が洗脳されていたとしてもおかしくはなかった――その結果、将来、ブログで、そのテレビを持ち出し、反戦運動家なんて基地外ばかりだと書き込んでいてもおかしくなかったからだ(というかそういう人間はネット上に山のようにいる)。


しかし同時にまた、そのテレビのエピソードから、まだ十分に学んでいなかったことを昨年まで知らなかった。正確にいうと、二年前(2007年)のことだが、2009年になったばかりの現在では、一年とちょっと前というのが実感である。


フランソワ・オゾン監督の映画『エンジェル』を2007年の12月に見た。主役のラモラ・ガライ(ガリーという発音のほうが正しいと思うのだが)の演技は、『つぐない』のときの演技と同様、上手いのか下手なのかよくわからないのだが、まあ、売れっ子の彼女でもあるし、主人公のうっとうしさはよく出ていたのではないかと思う。つまり主人公に、あまり感情移入できないとしても、それはゲイのオゾン監督にゲイ美学にふさわしい女王様/ディーヴァ物であることを考えれば問題ない。主人公は一体化する対象ではなく、むしろ崇拝する対象なのである。


この映画は、夢見ることしかしない現実逃避型の作家志望の少女が、作家になり、死ぬまでのことを描く映画なのだが、実は、彼女がけっこうとんとん拍子に人気作家になってしまうので、どこかでどんでん返しがあるのではと思っていた――最後まで。


つまり作家になってからの生涯は、夢の時間であり、どこかで、別の時空間(つまり彼女が人気作家なのではなく平凡な庶民として生きている時空間)に転換するのではと考え、いまかいまかと、けっこうはらはらしてみていた。それがどうもなさそうだとわかると、最後のどんでん返し期待した。つまり彼女はこれまで夢を見ていました。あるいは彼女は現在、狂人です。これまでのことは狂人の彼女が見ていた美しい夢でしたというような変換を期待したが、結局、それは最後までなかった。


しかし、映画の最後では、彼女の人生がどこにあったのか。この館でいま息を引き取った彼女が歩んできた人生なのか、それとも彼女の頭の中の人生なのか、どちらが彼女の人生だったのかと問いかけがつきつけられた。


つまり彼女の人生は、どこかで反転するようなものではなく、つねに二重であったとわかる。しかしその落差がなくて、つまり彼女の作家人生は、物質的成功に恵まれても精神的に不毛なものであったかもしれないが、彼女が少女時代に夢見ていたような華麗な人生であり、夢の時間で補完せねばならないような悲惨な、あるいは逼迫したようなものでもないからである。


この年2007年に公開された映画の中で、たとえば『パンズラビリンス』あるいは『アリス・イン・タイドランド』といった、ともに夢見る少女を主人公にした映画があった。ファンタジー映画ではあっても、現実と空想との関係が、きわめて深刻で、ドリームランドというよりは、過酷な現実を突きつける映画だった。


内戦終結後のスペインで、圧政に抵抗するレジスタンスが、ファシストとスペイン山中で戦う時代を背景にしている『パンズラビリンス』では、過酷な現実と夢見ることの逼迫した関係は、どうなっていたかというと、残酷な現実から逃避すべく少女が作り出したファンタジー世界は、現実の浸透を受けて不気味で残酷な恐怖の世界に変貌をとげるが、いっぽう現実もまた、ファンタジーの世界といえるくらいに残酷さをエスカレートしてゆくということになっていた。現実と空想世界とが、陰と陽の関係ではなく陰と陰との関係になる。現実が死の世界で、ファンタジーが生の世界であるような古典的な図式は成立しなくなり、どちらも死の世界になるといえようか。現実はファンタジーの世界以上に荒唐無稽で残酷なのである。そのため現実のなかでファンタジーの世界へ逃避することはできなくなる。あるいは悪夢から覚めても悪夢がつづくのである。


いっぽう『ローズ・イン・タイドランド』(原題はTideland不思議の国のアリスAlice in Wonderlandとの関連で、こういう日本語のタイトルがついたんだろか)では、夢見ることしかしない少女の姿を通して、ファンタジーあるいは空想力というのは、境界を横断するいことだわかる。もしディストピアの現実のなかに、ユートピアを夢見るのがファンタジーとすれば、ファンタジーとは、あらゆるものの制約を越えて、境界を横断して別の世界へ行くことだから、当然、生と死の境界も超えることになる。


砂漠に海をみるのが空想力だとしたら、当然、生と死の境界を空想は容認しない。あるいはこれを死を拒否する姿勢とでもいえようか。あちら側の世界は存在しない。すべてこちら側の世界であり、彼岸の死は存在しなくなる。そしてこれの行き着く先は狂気である。少女の父親はドラッグの過剰投与で死んでしまう。ドラッグによるトリップが空想力の極致とするなら、この死せる父親を、生きているかのように扱いつづける少女の死の拒絶、あるいは死との同居もまた、空想力の極致であり、最終的に空想力は狂気とは一体化する。


生と死との境界崩壊。正気と狂気との境界崩壊は、当然のことがなら真実と虚偽との境界崩壊を招く。『ローズ・イン・タイドランド』の最後の列車の脱線事故の場面。事故現場の紛れ込み、やがて両親を事故で失ったかわいそうな子として引き取られてゆく少女の運命を暗示して終わるこの映画では、その事故現場で放心状態の乗客たちのなかに、少女の隣人である魔女的女性の姿を映し出す。少女もその女性の姿を認知する。


どういうことか。これは、彼女にこれまで怖い思いをさせてきた隣に住む魔女的女性が、すべて孤独と貧困のなかで生きる少女の空想の産物であり、列車事故の乗客として事故現場で少女に目撃されたことで、少女の空想の中に役割をあたえられたのかもしれないということだ。この可能性はさらに、最後の列車事故(少女は事故現場近くで暮らしていて乗客ではなく、また事故は少女のいたずらが起こしたという暗示もある)にいたる、少女の物語(パンクな両親のもとに生まれ、父親はドラッグ過剰投与で死亡するなどの生い立ち)は、すべて少女の空想の産物で、これからひきとられてゆく先で少女がする虚偽の物語かもしれないという暗示である。そう、空想力は、現実と虚偽の境を越え、さらには過去と未来の境界をも超える、あるいは撹乱させるのである。


こう考えてゆくと『エンジェル』の女性と空想の関係との間には、逼迫したもの、ドラマティックなものがないように思われる。過酷な現実も孤独も貧困もない。満ち足りた成功の人生であり、それが空想ではなく現実であるという前提はぶれない。成功した作家という女王である彼女は、その満ち足りた生活のなかで、何をしているのかとういと、おそらく悲劇のヒロインを演じているのである。


2007年には『華麗なる恋の舞台で』というタイトルで公開されたサボー監督の映画があった。サボー監督の前作で大作のハンガリー物『サンシャイン』と比べると小ぶりで(実際、上映時間も短い)、やや物足らない感じもするのだが、『メフィスト』以来、サボー監督は演技者に関心を抱いていたから、むしろこちらのほうが本命なのかもしれないが。原作は様セット・モームの長編小説『劇場』。映画の公開によって新潮文庫も再版され、私も文庫本で読んだ。


この長編小説、いろいろなことが起こりそうで、実は全体の三分の二かそれ以上が、ベテランの人気女優であるヒロインが、若い悪賢い男性にしてやられて悶々とすごす日々にあてられているのである。あるバカ・ブログにこんなことが書いてあった。

 最近映画化で復刊されたモームの「劇場」は、若い愚かな男にほれこむ46歳の大女優が主人公となっている。よく小説中で、生き生きと描かれた女性をみると、「女にしか、かけないような」なんてことを言う人がいるが、この小説は女にはかけない。この小説のもつ無防備なあけすけさやチャーミングさは、むしろタフな女の愚痴や、恋愛話を聞いてあげてるゲイの男にしかかけないようなもので、モームの面目躍如といったところ。

あほらしくてものもいえわい。しかもミソジニーだし。


そもそも劇場人・演技者で、ベテランの大女優(ディーヴァ)というのは、ゲイ美学で最も好まれる題材である。上記の引用とは異なり、ゲイの男性は、ふつう女性を馬鹿にしていない。女性は崇拝の対象である。と同時に、女性は同一化の対象でもある。女優はゲイ男性自身でもある。モームはこの長編小説で、崇拝の対象となるような大女優を登場させると同時に、彼女がもがき苦しみ翻弄されるさまを延々と書いている。90分くらいの映画版では、それほど長くは感じないが、小説では長すぎる。いつか目がさめることはわかっているのだが、しかしそれまでが長すぎて、早く目を覚ませと読みながらいらいらする。


しかし、おそらくこのヒロインの女優は半分目を覚ましている。目を覚ましつつ、愚かな自分を、そして苦しむ自分を演じ、そこに喜びを見出している。まさにマゾヒズムドゥルーズマゾヒズム論が解き明かしていたように、マゾヒストとは段取りを整え、契約を交わし、演技の場のなかに苦しむ自分を置くのである。それは真正の苦しみであると同時に展示し見せる苦しみであり、見方によって演技でもあり、またナルシスティックな自己陶酔ともいえる。そしてそこにゲイの美学があるのだ。


そういえば『人間の絆』のなかでも、主人公が、売春婦の女性(名前は忘れたが、映画版ではキム・ノヴァクが演じていた)に翻弄される部分が延々と続いていた。この自伝的小説と『劇場』とはつながっている。『劇場』の主人公の女優は、モーム自身のマゾヒズムの体現者でもあり、また『人間の絆』におけるモームの分身のような主人公はまたマゾヒスティックな女優でもあるのだ。


このゲイ美学を考慮すると、同じくゲイのオゾン監督の『エンジェル』における、主人公がしていることもみえてくる。彼女は、つねに夢見る作家としての生涯を終えるのではなく、女優としての生涯を終えたということになる。しかも彼女にとって物質的幸福は掌中にあるのだから、真正の悲劇ではないにしても悲哀に満ちたヒロインを演ずることは、不幸になりたがるという、典型的なマゾヒズムである。


ナルシシズムマゾヒズム。このふたつが合体した彼女の人生は、小説の世界それもどちらかというと安っぽいベストセラー大衆小説のような世界であり、彼女は、いつも不幸な女を演技している女優のようにみえる。彼女の人生は、どこにあったのかと映画のなかで問いかけられる。彼女の人生には、別世界が、ファンタジー世界が侵入してくるわけでもなく、またファンタジーの世界にワープしてしまうわけでもない。


日々の日常が、演技者と作家の目のもとで組織されているため、たとえばグラスで水を飲むという、何気ない、また必要を満たすだけの動作であっても、そこに小説の主人公にふさわしい意味づけと、悲劇のヒロインにふさわしい悲壮感を漂わせずにはいられない、そんな二重性が、どこまでも生活と人生についてまわるということなのだ。


ナルシスティックな二重性と浮遊に、マゾヒズムの影が加わる。彼女の人生はパフォーマンスなのだが、そこに真の自己と演技との明確な区分はない。なんとなく二重だとわかり、わざとらしさからは逃れられないとしても、そこに裏も表もないのである。


とはいえ、『エンジェル』という映画をみて、はっとし、また学んだことについては、まだ何も書いていなかった。


To Be Continued


付記:テレビ番組『インターンThe Interns(1970-71)が日本で人気のあったもうひとつの理由を、最近、テレビで再放送していた『人間の証明』(角川映画)を見て思い出した。ちなみに今見ても面白い映画というのがあるが、この『人間の証明』(1977)は今見ると、目も当てられないひどい映画であり、あれだけの役者を動員しながら、これだけの映画しかできなかったのかと、役者たちがかわいそうになる。


まあそれはともかく、そこにアメリカ側の俳優としてジョージ・ケネディのほかに、彼の上司役で、Broderick Crawford(1911-1986)という俳優が出ていた。この俳優、いまでは忘れられていると思うが、彼はかつてNHKで放送されていた『ハイウェイ・パトロールHighway Patrol(1955-59)というアメリカのテレビシリーズで署長というか隊長を演じていて、人気があった。ハイウェイ・パトロールといえば、なんといっても『スタスキー&ハッチ』が有名だが、あれとはまったく異なる作りのドラマで、このクロフォードは、恰幅のいい中年のおっさん。オートバイに乗ることはなく、私服警官として活動し、つねにパトロールカーに乗っている。いまにして思うと、なぜ人気が出たのか、よくわからないが、私の父もファンで、毎週、テレビ放送を見ていたような気がする(私の記憶では土曜日の夜だった)。


ちなみに、もっというと、実在の政治家ヒュー・ロングをモデルにした『オール・ザ・キングズ・メン』All the King's Men(2006)は、リメイクなのだが、最初の『オール・ザズ・キングズ・メン』(ロベール・ロッセン監督1949)で、主役を演じたのが、このクロフォードだったと聞くと、新作におけるショーン・ペンの熱演を知っている人なら、そのオリジナルとしてのクロフォードの大きさに驚くかもしれない(ただしショーン・ペンとクロフォードの演技は完全に質が違うのだが)。


そのクロフォードが『インターン』で病院の院長役で出ていたことも、『インターン』の日本での人気を後押しした観がある。クロフォードは、日本人に好まれたのだ。だからこそ、角川映画人間の証明』でも、アメリカ側の俳優として選ばれたのだ。


そして『インターン』のなかで、女性の平和運動家を入院が必要な精神異常者と診断し、病院に暖かく迎え入れるのが、忘れもしない、このクロフォード扮する院長だったのである。