平和の天使2


オゾン監督の『エンジェル』のなかで、主人公の女性作家は、第一次世界大戦が始まると(もちろん当時は別の呼び名であり、第二次世界大戦が始まったことで、逆に第一次世界大戦命名されたのだが)、まあ、それなりの理由もあって、自分は反戦主義者になると宣言する。すると彼女の家で働いていた使用人の女性が、いままで奥様のわがままを我慢して働いてきましたが、こればっかりは、もう我慢できません。辞めさせていただきますといって、この利己主義の固まりのような主人公の女性のもとを去ってゆくのである。


たしかに主人公の女性は、使用人泣かせのわがまま女である。しかし、いかなる理由であれ戦時において、反戦を唱え、平和主義者になるのは、言語道断の振る舞いなのだ。奥様のどんなわがままも寛容に受け止めてきた使用人たちも、こればかりは、つまり戦時において反戦を唱えるということだけは、絶対に許されない大罪として、奥様を許さないのである。


理由はいかなるものであれ、戦時において兵隊が死に、国民が一致団結して戦争遂行に邁進しているときに、反戦を唱え、平和を唱えることは、ましてや平和運動に走ることは犯罪行為であり、狂気の所業なのである。この場面をみて私ははっとした。そう、かつてのテレビ番組『インターン』のなかで平和運動家の女性を精神異常者とした、悪辣なイデオロギー操作は、なにも特殊なものではなく、ごくありふれたものであったということだ。いやもっと正確にいえば、平和運動家の女性が、なにか理由があって精神に異常をきたしていたということではなく、平和運動そのものが精神病である、そうみられるということなのだ。


平和主義者は、戦時においては、聖人でも英雄でもない、ただの狂人であり、非人間であり、入院してその平和運動病という狂気を直してもらうか、さもなければ、なぶり殺しにしてもいいような非国民であり非人間なのである。


そういえば昨年見た『火垂るの墓』(日向寺太郎監督)でも、戦争にも行かず(理由はいま思い出せないが病気がちだったので徴兵されなかったのか)、若い未亡人(池脇千鶴)と昼間からセックスする若い学生?(山中聡)が、空襲のどさくさのなかで、その行状を日頃から好ましく思っていなかった町会長(原田芳雄)に惨殺される場面(正確には殺されたらしいとわかる)があったのだが、彼こそは、まさに平和主義者の表象である。


べつにこの大学生は、平和主義を唱えるわけではなく、反戦運動に身を投ずるわけでもないのだが、戦争状態における社会の狂気を冷静に、シニカルに見つめることができ、唯一、真実を見抜き、それゆえに、限りない敵意と反感を――殺されてもおかしくないほどの敵意と反感を――呼び寄せることによって、まさにさげすまれ、うとまれ、差別される平和主義者の表象と化したのである(ちなみに実写版『火垂れるの墓』は、アニメ版のような感動はないのだが、それは最初からコンセプトが違うからであって、このホームレス中学生戦時下ヴァージョンは、感動的な映画(泣けるわけではないが)であったことは、ここに記しておいてもいい)。


戦時下のドイツでも、平和を唱えた市民たちがいた。彼らは、どうなったかというと、ナチスに家畜のように惨殺されたのである。その処刑場となった建物は、戦時の残虐行為の記憶をとどめるためいまも保管されているのだが、存命中の小田実が、衛星放送の番組で、その場所を訪れ、涙しているのを今でも、そう、つい先日のことのように、私は鮮明に記憶している。戦時下における平和運動家は死を、それも最も残酷な死を覚悟しなければならなかった。戦争の狂気は、たんに軍人だけでなく、一般市民をもして、そうした平和運動家を、なんら良心の呵責を感じることなく殺せる契機を提供したのだ。おそらくそうして殺された平和運動家は、敵兵よりも憎まれていたにちがいない。


ヴェトナム戦争時代にはアメリカでは反戦運動が盛んになる。そしてその反動として、ヴェトナムで苦戦を強いられ地獄の戦闘を繰り広げていた若い兵士たちに対し、本国の若者たちはドラッグに酔い、享楽的な生活に溺れ、そして軍人をさげすみ、お気楽な平和運動を展開したというイメージも定着した。もちろんこのイメージそのものに、平和運動家を悪魔化する――自堕落で無責任な自己中心的人間とする――操作がみえるのだが、平和運動家は、ヴェトナムのアメリカ軍兵士とは比べ物にならないくらい、侮辱と差別と蔑視にさらされてきたことは、どんなに強調しても強調したりないように思われる。平和運動家は、ヴェトナムの兵士と同様に、時にはそれ以上に、暴力と死に直面していたのであり、平和運動家は殺されて当然であったのである。


『イージー・ライダー』という一世を風靡したアメリカ映画を覚えているだろうか。映画の最後に、旅してきた二人は何の理由もなく射殺されてしまう。だが、彼らの死こそ、「お気楽な」平和主義者が直面する運命でもあったのである。〈イージーライダー〉は、まさに平和主義者の表象そのものである。


そしてこうしたなぶり殺しにされる平和運動家、時には国家による公的制裁によって、時には善意の庶民による私的制裁によって処刑される者たちの代表は、なんといっても国家や伝統を無視して、兵士としての国民の義務を無視し、失うもののも何もないホームレスととして生き、またロバに乗って、お気楽ライダーとしての生き方を奨励して、体制側の反感をあおり、誰一人として、その死を当然のことのように思われて処刑された人物にほかならない。


お気ライダーたちを虫けらのように殺してなんとも思わない南部のレッドネックたちは、またヴェトナムで現地人を虐殺したのだが、しかし、だからといってヴェトナムでのアメリカ軍兵士を、ドラッグに溺れ無差別な野蛮行為に浸っていた狂気の暴力集団とのみ決め付けるのも残酷なことである。むしろ過酷な運命に直面して苦しんだ者として、戦場の兵士たちと本国の平和運動家とは、連帯すべきなのだ。そして安穏として観念的な言説を垂れ流し、みずから絶対に傷つかなければ責任もとることのない戦争指導者たちを告発すべきなのである。兵士と平和運動家が連帯こそが真の平和をもたらすのである。


とはいえ、これが私が考えようとしたことではなかった。敵は裁判員制度である。戦時において平和運動家になることはもちろんのこと、戦争に反対すること自体、限りない勇気を必要として、死の恐怖を克服しなければできないことである。私は、そうしなければいけないと確信しているが、実際にそれができるかどうかは、自信がない。しかしいまは戦時ではない。であればこそ、国民を動員する平成の赤紙を送りつける裁判員制度に反対するのは、たやすいことである。もしこれに反対しなかったら、その後に待っているのは恐怖の戦時体制=ファシズム体制である。


私は平成の赤紙が来るのを楽しみしている。待ちわびている。効果的に破り捨てるつもりだからである。