王妃ゴルゴ

ジェイムズ・キャメロンの『ターミネイター』と『ターミネイター2』(『3』は別の監督)は、第一作めは、低予算のSF映画としては、設定の面白さと、ジョン・コナーの母親サラ・コナーを狙うターミネイター役のシュワルツェネッガーの不気味さ(そのダイ・ハードぶり)が受けて、続編が作られるほどの人気となった。


しかし続編は、第一作とは趣が異なるものとなった。低予算映画でなくなったこともあるのだが、それ以上に、キャメロン監督の特色がよく出るものとなった。つまり、『エイリアン』の続編を作ったキャメロン監督お気に入りの、強い女性が登場することになった――女性が世界を救うと信じているキャメロン監督ならではの映画となった。


続編では、前作にはまだサラ・コナーのお腹のなかにいた息子が、ティーンエイジャーになっている。このジョン・コナーを守るために未来から護衛用のターミネイターが送られてくるというのが『ターミネイター2』であり、この護衛用のターミネイターと、同じく未来から送られてくる暗殺用のターミネイターとが死闘を繰り広げる。しかしそれはなんとなく予想できた展開だが、誰もが驚いたのは、続編では、前作と同じくリンダ・ハミルトン演ずるサラ・コナーが、精神病院に監禁されているだけでなく、前作からは予想できなかったことだが、マッチョな戦う女に変貌を遂げていたのである。いわばクィア性が増した。


つづく『ターミネイター3』(ジョナサン・モストウ監督2003、『U-571』の監督)ではサラ・コナーは消えるが、かわりに女性型ターミネイターが暗殺者として送られてくる。クリスチアーナ・ローケン演ずるこのターミネーターTXは、強力だが、しかしリンダ・ハミルトン的なクィア性を欠いていた。また物語りも『3』で一応完結したかにみえた。


しかしこの『3』はいまや歴史のなかに消えてしまうかもしれない。『ターミネイター4』(2009)が作られたし、『2』とこの『4』とをつなぐ話として、『サラ・コナー・クロニクルズ』がテレビシリーズとして作られた(『3』の物語はなかったことにされたようだ)。『クロニクル』は、今月、発売になった。昨年の『ダメージ』についで、今回も、テレビシリーズの全エピソードを収録したDVD(第一シーズン)が、なんと1万円以内で買えるのである(いや『ダメージ』のほうは衛星放送で全エピソード放送後のDVD化で安くなるのはわかるが、今回は放送されていないのに安い)。


まあ、そもそも私自身が『ターミネイター』シリーズが好きだということもある。昔書いた論文では『ターミネイター1』のナレーションめいたものを入れた。ある映画作品の解釈を、ヘテロセクシズム勢力とクィア勢力の闘争の記録として考えた。そこではヘテロセクシズムの歴史が定着するかみえて、クィア勢力がその支配を阻んだというかたちにして、内容面でも、しっかり『ターミネイター』した(また最近書いた文章のタイトルもJudgment Day(『2』の原題)にしようと思ったが、それをやめてDies Iraeラテン語のタイトルにしたのだが)。


しかし、それ以上に、私に『クロニクルズ』のDVDを買わせたのは、サラ・コナーが、すでに50歳代になったリンダ・ハミルトンに変わって若返りし、なんとレナ・ヘイディになったからである。もうこれは買うしかないと思った(ちなみにDVDではLena Headeyを「レナ」と表記しているが、ふつうは「リーナ」でしょう(まあ「レイナ」という発音もヴァリエーションとしてあるようだが。「レナ」ではないが、一応日本版DVDの表記にあわせる。いやそれもしゃくなので、以後 LHと表記する)。


Lena Headey(1973.10.3-)は、たとえば『ウォーターランド』(1992)や『日の名残り』(93)さらには『ジャングル・ブック』(94)、『ダロウェイ夫人』(97)などに出演していたのだが、覚えていない(『ジャンブル・ブック』は自分で見たかどうかも思い出せないのだが)。ただ『オネーギンの恋』(99)(プーシキンの長詩『エフゲニー・オネーギン』の映画化)に出演していたことは記憶している。LHについて認識しはじめてから、この映画のDVDを見たからだ。実際に『オネーギンの恋』では、まったく目立たない役立ったが。『リプリーのゲイム』(02)にも出ていた。これは、ヴェンダースの『アメリカの友人』のリメイクというか、パトリシア・ハイスミス原作の、ヴェンダースに次ぐ、二度目の映画化作品だが、書きながら思い出してきた、リプリーの隣に住んでいる夫婦の妻役だった。けっこう重要な役だが、強い印象を残さなかった。


LHに似合うのは、強い女性である。目鼻立ちがくっきりしていて、顔全体が濃いので強い女性がよく似合う。そして強い女性といえば、基本的に「母親」であり「男性的なレズビアン女性」である。このふたつの役こそ、彼女のはまり役だろう。


2002年に『リプリーのゲーム』では、重要な役なのに強い印象を残さなかったけれども、同じ2002年の『抱擁』Possessionsでは、19世紀の女性詩人のレズビアンの恋人として、強烈な印象を残した。同じ年にアカデミー賞をとった『めぐりあう時間たち』のなかで自殺するヴァージニア・ウルフと同じ方法――衣服に石をつめての入水自殺――で、『抱擁』においても、彼女が扮するレズビアン女性は自殺する。出番も台詞も少なかったが、LHの存在感は、映画のなかで彼女の恋人の詩人役のジェニファー・イーリーを凌いでいた。


レスビアンがよく似合ったのである。そのため『ブラザー・グリム』(05)を映画館で見たとき、彼女が出ているのに、レズビアンでない彼女については、どこかでみたことのある女優くらいの認知しかできなかった(その後『ブラザー・グリム』は映画館でみて満足して、わざわざDVDを購入する気持ちにはならなかったが、あとから、映画に出ていた二人の女性で、モニカ・べルッチではない、あの女性はLHだったとわかって、急遽DVDを購入した)。同じ年にImagine Me & You (05)(日本語タイトル『四角い恋愛関係』――原題はジョン・レノンの「イマジン」の中の歌詞だが、日本語のタイトルはなんじゃい!)で、レズビアンの役を彼女は、実に自然に魅力的に演じていた。またハイパー・ぺラーヴォが演ずる主役の女性も、最後に、男性ではなくレズビアンの恋人LDを選択する物語の結末も心地よかった。


そして強い母。『リプリーのゲーム』も実は、彼女が演ずるのは強い母の役なのだが、もっと強い母として強烈な印象を残したのは『300』のスパルタのレオニダス王の王妃Queen Gorgo役だった。おそらく彼女のそのイメージが、サラ・コナーへとつづくのであろう。


もっとも残念ながらLDの出演映画は全部見ているわけではない。というか全部見るのは不可能なのだが、それにしてもThe Broken(oには斜線が入る)(2008)が昨年11月日本で公開されているのを知らなかった。まあ昨年の後半は忙しすぎて、映画館に行く時間的余裕がなかったのだが。


どうしてLHに魅力を感ずるのか。抱いてもらいたいと思ってしまうからである。べつに女性としてのエロスを感じているのはない。『サラ・コナー・クロニクル』を見ていると、ジョン・コナーと、彼を守るか弱い、同年齢の女性のアンドロイドのふたりで若者層の視聴者を獲得しようとしているのがわかるが、その活躍ぶりからしても、主役は母親のサラ・コナーズで、彼女の存在感は、息子とアンドロイドを圧倒している。そのサラ・コナーを演ずるLHをみていると、一人の魅力的な女性ではなく、強くて怖くて優しい母親に見えてくる。べつに私の母親が彼女に似ているというわけではないのだが、彼女の前にお母さんと叫んでひれ伏したくなる。彼女に母親として抱いてもらいたくなる。


LH自身の資質にもよるのだろうが、サラ・コナーとしてのLHは、男を必要としない、男に助けてもらわなくてもいい自立した女性にみえる。彼女にレズビアン的影があることからもそういえるのだが、同時に、彼女が強い母親だからでもある。男を必要としないレズビアン存在であり、男を守る母親としての存在は、まさにクィアな魅力に輝いているか。クィアな母親としての彼女は、それゆえこれから年をとっても、その魅力を全く失うことがないのである。