デス・ノート:くたばれ裁判員制度2

フロイトの無意識・自我・超自我について授業で教えるとき、その概念を簡単に説明してたから、現代において問題なのは「自我」の衰退であると説明する。自我は、企業でいうと中間管理職的存在である。待遇改善を求める従業員からの突き上げと、実績を求める上層部からの過酷な要求との間で板ばさみなる中間管理職は、苦しいながらも調停役となってバランスの取れた企業活動を実現するという重要な機能を果たす。この中間管理職=自我を、いかに健全に機能させるかが、自我心理学の課題だったのだが、現代では、この自我がないがしろにされ、すべて自我の頭越しに、超自我と無意識との間の直接交渉ですべてが決まる傾向がある。これは決して望ましいことではない。


たとえば現在テレビのコマーシャルは、宣伝する商品の良さを、具体的な実例なりデータを提示して、消費者の合理的判断(自我の範疇)に委ねることはめったになく、たとえば歌や踊り、あるいは映像などによって、消費者の無意識に訴えるような宣伝方法が主流となっている。いや深夜の通販番組などはそうではないのではと思えるのだが、ある分析を読んでいたら、こうした通販番組は、30分の間、商品の良さをただ連呼するだけで、消費者に催眠術をかけるようなものだという。となるとすべてが無意識に訴える催眠効果をねらうコマーシャルだけとなる。そしてこれは自我という合理的理性のセンターを跳び越して無意識を直接操作する行為であり、政治的分野ではこれは典型的な衆愚政治をもたらすことになる。


いっぽう無意識から自我を飛び越して超自我へと跳躍することは、昔から、昇華と呼ばれていた。たとえばある男性が女性になんどもふられて、自分は女性にとって魅力がない存在だと悟り、その欲求不満の捌け口を、社会的に有益な行為に振り向けようとすることをいう。人間の文化や文明は、ある意味、こうした欲求不満の人間がいなければ成立しなかっただろうし、逆に誰もが満足していたら、文明は一夜にして崩壊していただろう。


しかし女性にふられた男性が将来偉人になるという保証はどこにもない。むしろストーカーになって相手の女性を苦しめるということもありそうな話である。しかし、そうなった場合、犯罪者として社会的に排除される運命にあるから、最終的には復讐を合法的に実現することを考えるだろう。たとえば法律を勉強して裁判官になり、女性の犯罪者に厳しい判決を下し続けることによって、女性への復讐を合法的に実現できる。あるいはたんに殺人願望があったとしてもいい。そのまま連続殺人犯になれば社会的に制裁を加えられるから、勉強して裁判官になり、どんどん死刑判決を出すことによって、殺人願望を、誰からも非難されることなく制裁を受けることなく実現できるのである。


これは昇華とはいっても、社会的貢献という仮面のもとに、暴力的願望を実現させるのだから、最終的に社会を分断し文明を崩壊させるので昇華とはいえないだろう。それはファシズムである。ファシズムが達成する統制社会は、批判したり反抗する者を厳しく処罰するのだが、それは犯罪者の暴力を、統制力に変換するのである。ファシズムにおいて、社会の表層に躍り出るのは、通常の市民社会においては顕在化できなかった闇の力である。その闇の力が、社会を統制するのに使われる。犯罪者が警察官になったようなものと考えればわかりやすいだろう。人間の無意識あるいは社会的・政治的無意識に潜む暴力的な願望を超自我が受け止める。警察が犯罪者をリクルートするようなものである。そして犯罪者のもつ仮借なき暴力的願望を社会の統制力として利用するのである。これが無意識が超自我に吸収されることであり、これがまさにファシズムである、と。


ただし、いま触れたのように殺人願望を持った人間が、裁判官となって死刑を宣告し続けることによって合法的に殺人願望を成就させるということは、理論的なモデルとしてはありえても、現実においてはありえない。つまり現実において裁判官が殺人鬼でるということはない。


いくら殺人願望を持っていたとしても、それを裁判官になって実現するという回りくどい方法を普通の人間は考えたりしない。もし考えたとしても、司法試験をパスするための膨大な量の勉強時間は、殺人願望を消滅させる可能性が高い。また司法試験準備のために、あるいは法学の勉強のなかで、アカデミックな関心が生まれ(司法試験をパスできるような優秀な人間であればあるほど、この可能性は高い)殺人願望が別のものに振り返られることもある。学問的関心が殺人願望を萎縮させるのである。また仮に順調に裁判官になったとしても、過去の判例による束縛、職場における慣例、人間関係の調整、専門家としての実績構築、みずからの思想信条、組織への忠誠あるいは反抗心、遵法精神その他によって、いつしか殺人鬼の居場所がなくなってしまうはずである。


反社会的願望あるいはルサンチマンその他、冷静な司法判断を下すのに好ましくない傾向は、プロの裁判官養成過程において、また実際の裁判における経験において、消滅させられるはずである。そうでなければ、過酷で禁欲的な養成過程を経たり、実績を積む意味がない。しかし、反社会的願望やルサンチマン、その他もろもろの好ましからざる傾向が、要は無意識に潜む殺人鬼が、裁きの場で判決を下すようなことが起こりうる。それが裁判員制度なのである。


つまりプロの裁判官ではなくて、無意識のなかに自分でも知らないうちに殺人鬼をかくまっている一般市民が判決の場に加わるのである。無意識のなかの殺人鬼が首をもたげ、嬉々として死刑判決を下してもおかしくない。裁判員制度において一般市民は、軽犯罪には加わらない。死刑判決もありうるような重罪の裁きに、参加させられるのである。犯罪者を警察官にするのがファシズムであると述べたが、裁判員制度は殺人鬼を判事にする可能性が大きいのだ。


しかも、困ったことにこの殺人鬼は、自分が正しいことをしていると信じている。まさに裁判員制度というのはデス・ノートである。


そう本日、テレビで『デス・ノート』後編を放送していたので、はっとした。


デス・ノートとは、そこに犯罪者の名前を書き込めば、あとは死神が、名前を書かれた犯罪者の命を奪う。そういうノートである。原作は漫画だが、前編後編の2部作として映画化された(さらにスピンオフ作品一編)。奇抜な発想の漫画もあるものだと、設定そのものに、なにか現実離れした違和感を感じていたのだが、しかし、このデス・ノート――司法関係者ではなく一般市民が簡単に犯罪者を処刑できるシステム――、これは、まさに裁判員制度そのものではないか。いやむしろ、驚き、恐れるべきは、最初、現実離れしたと感じていた設定が、いままさに裁判員制度として現実化せんとしていることである。しかもデス・ノートの場合には、殺されるのは紛れもない犯罪者なのだが、裁判員制度は、無実の人間を殺す可能性もある。


おそらく裁判員制度というデス・ノートを作ったのは、死神ならぬ悪魔だろう。この悪魔は、一般市民のなかにある殺人鬼を目覚めさせ、最後には一般市民を殺人鬼に変貌させる。その殺人鬼を社会統制力として利用することになろう。まさにファシズム、悪魔の制度である。


旧約聖書において悪魔サタンとは人間を告発する者、罰する者、裁きを下す者の意味であった。