マッグーハン追悼


映画俳優のパトリック・マッグーハン(Patric McGoohan)の死が伝えられた。


以下、配信されたニュースをそのまま引用する。

パトリック・マッグーハン氏(米俳優)AP通信によると13日、米ロサンゼルスで死去、80歳。家族が公表した。死因は明らかにされていない。
 ニューヨーク生まれ。60年代、スパイが主人公の英国の人気テレビドラマ「プリズナーNo.6」で主演や監督、脚本などを務めた。米国でも「刑事コロンボ」のテレビシリーズに多く出演、演出も手掛け、エミー賞を2度獲得した。(ロサンゼルス共同)

私がたまたま見た夕刊では、スペースの関係からか、『プリズナーNo.6』の記述が省略されていた。これでは『刑事コロンボ』に出ていた脇役俳優が死んだというにすぎなくなって、マッグーハンの大きさ、その文化的意義が消えてしまう。


私にとってマッグーハンは子供の頃からテレビで見ていた俳優であった。日本版ウィキペディアから引用すると、

1950年代半ばから、舞台出演の傍らテレビドラマに出演するようになり、1955年には端役でスクリーン・デビュー。舞台出演の合間にスクリーン・テストの女優の相手役を務めてたりもしていた。徐々に活躍の場を舞台からテレビへと移し、1960年にスタートした30分のテレビシリーズ『秘密指令』で、主人公のNATOのスパイ、ジョン・ドレイクを好演。放送時間が60分に拡大された続編『秘密諜報員ジョン・ドレイク』にも引き続き主演し、その人気を決定的なものとした。この2作はアメリカでも放送され好評を博した。最優秀テレビ俳優にも選出され、これら成功により、彼はイギリスで最も高額な出演料を得るテレビ俳優となった。


そして1967年、後に伝説的作品となるTVシリーズプリズナーNo.6』を手掛ける。主演だけでなく、製作、監督、脚本も務めた意欲作で、実験的要素を多く取り入れ、視聴者に解釈の幅を与える謎めいた雰囲気と、英国的ユーモアを併せ持つ不思議な感覚を抱かせる本作は高い評価と人気を得て、今もカルト的な人気を誇り、彼の代表作となっている。

記述はさらにアメリカでの『コロンボ・シリーズ』への出演と、映画出演へとつづくが、アメリカでの活躍は、私にとっては、『ジョン・ドレイク』と『プリズナーNo.6』以後の余波にすぎなかった。


『秘密諜報員ジョン・ドレイク』は日本でも放送されていて(NHKだったか民放だったか記憶にないが)、私の父はファンだった。日本でも人気の番組だった。私はそれを昼間、土曜日の午後にみた記憶があるが、たぶん夜放送されたものの再放送だったにちがいない。それは、当時人気絶頂だった『007』(ショーン・コネリーの)のような派手なアクション・スパイ物の対極にある地味なというか、しぶいドラマで、逆にそれで人気になった(今から見るとけっこう派手なスパイものなのだが、当時はそうだったのだ)。そのしぶさは、子供の頃の私が「悲哀」という言葉を、このテレビシリーズで始めて知ったことからもわかる。「……の悲哀」といったタイトルのついた回があって、私には「悲哀」の意味がわからなかったからだ。と同時にそういう日本語のタイトルがつくような回があったので、シリーズ全体の調子も、それで推測できる。


ただ、くりかえすが、人気シリーズであった。私の父親が夜、テレビで見ていたし、子供の私がそれを午後の再放送で見ていた。とにかくその人気もあって、次のシリーズ『プリズナーNo.6』(原題はPrisoner)は、忘れもしない、それはNHKで放送されたのだ。ただ、新しいスパイ・シリーズを期待していたわたしたちマッグーハン・ファンは、なんだこれは、と、口あんぐり状態だった。『プリズナーNo6』は、その後、民放でも再放送されたが、NHKが最初に放送したというのは、ある意味、英断というか冒険だった。どんなドラマかというと……。


最初、前作のシリーズ物の主人公ジョン・ドレイクのようなスパイに扮するパトリック・マッグーハンが、上司に辞表を叩きつける。そして旅に出る準備をしているときか、マッグーハンのいる部屋に催眠ガスのような煙が充満する。マッグーハンは気絶するが、目が覚めてみると、リゾート地のような遊園地のようなヘンな場所に来ていて、おまえはナンバー・シックスだと言われる。


以下、冒頭の映像でのやりとり。

「ここは何処だ?」
「村だ。」
「何が欲しい?」
「情報だ。」
「どっちの味方だ?」
「いずれ判る。さぁ秘密を吐くんだ。情報だ、情報だ。」
「喋るものか!」
「どんな手段を講じてでも喋らせる。」
「名前を言え?」
「新しいNo.2だ。」
「No.1は誰だ?」
「お前はNo.6だ。」
「番号なんかで呼ぶな!私は自由な人間だ...」

なぜスパイを辞めることになったのか。なにを考えているのか、その「村」を管轄しているナンバー2と呼ばれる支配者が聞きだそうとする。しかしマッグーハンは答えない。これが毎回登場するオープニング・シーンなのである。


もうこれはスパイ物ではない。辞職したスパイが、不思議な場所(「村」)に連れてこられて、そこで尋問を受ける。尋問の種類はさまざまで、肉体的・精神的な拷問から、心理的な策略や詐欺にまで多岐に渡る。いっぽうナンバー6のほうは、なとかしてこの場所から逃れ、ナンバー2の裏をかこうと画策する。ナンバー2は、毎回、変わる。尋問に失敗すると更迭されるからである。またナンバー2は、当時のSFドラマにありがちなハイテクの司令室のようなところにいて村人たちを一人残らず監視している。この権力装置は、オーウェルの『1984年』のビッグブラザー的でもあるし、また肉体的拷問もないわけではないが、基本的心理的に罠にかけて自発的に言わせるようにするので、抑圧的な権力ではなく、フーコー的な生産する権力かもしれない。


とはいえ共同体の外部に逃げ出そうとする、へんな白い大きな風船のようなものが、ぷかりぷかり飛び出てきて、逃亡者を圧迫して意識不明にする。とにかくこの巨大な風船のようなものが地上を音もなく移動して逃亡者を捕まえるのはきわめて不気味だった。そして毎回ナンバー2の策略は失敗する。ナンバー6は毎回、危機を脱するのだが、しかし、謎はいっこうに解決されない。解決されないどころか、謎が謎を呼ぶ。ナンバー2の正体や、その背後でナンバー2を捜査する謎の組織について解明できそうだと思わせておいて、すべてがナンバー6を罠にかけようとする策略だったりする。とにかく謎は明かされぬまま、リゾート地のような不思議な村での生活はつづくのである。


強いて言えばSF的哲学的不条理ドラマとでもいえようか。いつしかカフカ的ともいわれはじめていたのを記憶する(実際にほんとうにカフカ的かどうかはべつにして)。実際、当時、カフカを翻訳で読んでいた私は――とはいえ、カフカの謎めいてわけがわからないことを、面白がっていただけのことなのだが――、まさにカフカ的不条理の世界が、NHKの外国ドラマで見られるとはとけっこう興奮した。


しかし、今から考えると、そんな毎回、なにも解決しないようなドラマをなぜ視聴者が喜んだのか不思議かもしれないが、たとえば同じ時期かどうか定かでないのだが『逃亡者』という、これも人気の出たアメリカの連続ドラマがあった。デヴィッド・ジャンセン扮するリチャード・キンブル元医師が、濡れ衣を着せられ死刑になるのだが、からくも脱走、自分を陥れた事件の真相をつかむべく、アメリカ全土を転々としてゆくというドラマでも、毎回、謎は謎のままである。ただリチャード・キンブルが、また行く先々で事件に巻き込まれつつ、その事件を解決し、さらにキンブルを追う刑事の手から逃れということで、なにも解決しないまま、エピソードだけが毎回語られ、結局、真相解明は、すべて最終回の特別編にゆだねられたにすぎない。まあ『Xファイル』でも同じである。そのため『プリズナーNo6』の解決されない謎は、まあ同じもの連続テレビドラマの手法でもあって、そんなに違和感はなかったのかもしれない。


とはいえ『プリズナーNo6』は、全体的には違和感だらけであった。当然、当時、話題になった。雑誌でも、とりあげられた。NHKのこの外国ドラマは、不思議すぎるというかたちで。また私が読んだ雑誌(父親が読んでいた雑誌なのだが)の記事では、白い巨大な風船が、「ヘーゲルのなんだかかんだか」を思い起こさせると書いてあったのだが、当時の私は「ヘーゲル」のことはわからなかったので、それがなんであったかの、いまもわからないのだが、とにかくそんなことを書く記事まであらわれていた。『プリズナーNo6』がカルトテレビドラマとなるのは時間の問題だった。


私にとって20世紀の連続テレビドラマで、カルトドラマにふさわしいといえるものは3つある。この『プリズナーNo6』。そしてデヴィット・リンチの『ツイン・ピークス』。最後がアニメの『エヴァンゲリオン』。この三つのカルト・シリーズには、カルト・シリーズゆえの共通点がある。それは謎が謎を呼ぶということもさりながら、すべての謎が解決されるであろう最終回が、めちゃくくちゃになって、結局、最大の謎を残して終わるということである。『ツイン・ピークス』のあの壮絶な最終回はいうまでもないだろう。『エヴァンゲリオン』にしても、驚きの最終回であり、さらにそれを補完するはずだった映画版も、完結はしていても、同時に謎は残った。『プリズナー』の最終回も、2回にわけた特別編で、パトリック・マッグーハン自身が脚本を書き、演出したのだが、2回に分けても何一つわからなかった。強いて言えば、謎のナンバー1は、ナンバー6自身だったかもしれないということがすこし垣間見えるくらいで、あとはやはり謎のまま終わった。


この強烈なドラマシリーズをプロデュースし、主演し、また時に演出もしたパトリック・マッグーハンは、私の中で忘れられない俳優となった。コロンボ・シリーズに出演していたときも、また映画に出演していたときも、私にとっては、あのプリズナー6のパトリック・マッグーハンだった。『プリズナーNo6』以後は、ある意味で、すでに述べたように余波であり、また余生だった――実際には、余生とはほど遠い活躍ぶりではあったのだが――『ブレイブハート』の悪しき国王エドワード一世の役はよかったし、『アルカトラスからの脱出』(正月にどこかのテレビでやっていた)では、クリント・イーストウッドがナンバー6的な役割で、本人は監獄の悪辣な所長まさにナンバー2だったことも、いまにしてみると興味ぶかい。


プリズナーNo.6』の最終回(正確にいえば二回連続で、最後から二番目のエピソード)では、退行睡眠をかけられたNo6は、幼児期の記憶から切り崩されることになり、それこそ『エヴァンゲリオン』のシンジ君の内面心象風景的場面になるのだが、そのなかで人間の人生の7つの時期について語られるところがあった。Seven Ages of Man. シェイクスピアの『お気に召すまま』を読んだとき、ジェイクィーズの有名な‘All the world’s a stage…’で始まる台詞に遭遇したとき、そのあとを読み進めて私は、心のなかで叫んだ。Seven Ages of Manは、ジェイクィーズの、つまりはシェイクスピアの台詞だったのか。私をシェイクスピアへと導いたのは、『プリズナーNo6』だったかもしれないと勝手に妄想しつつ、またそうでない場合でも、とにかく私は貴重なカルドラマを私の子供時代の重要なエピソードにしてくれたパトリック・マッグーハンに感謝している。