狐の穴1


学生からの希望で、D.H.ロレンスの中編「狐」を読むことになった。学生の希望? 大学院における批評理論の授業で、最後の数回は、院生の希望で作品を選び、みんなでフリーディスカッションということにした。


しかし、なにかひっかかるものがあった。数日後、理由がわかった。ロレンスの「狐」といえば、それをめぐって、複数の研究者が論文を書いている本、それも日本語の文献があるのではないか。富山太佳夫・立石弘道(編)『D・H・ロレンス「狐」とテクスト』(国書刊行会1994)が90年代に出版されている。ロレンス協会のシンポジウムをもとに作られた本のようで、こういう本があれば、授業の意味がない。つまり、みんなでゼロから(たとえば1週間の予告で、作品を論ずるのだから、資料や関連文献などをじっくり読んでいる暇もない。むしろ作品だけを読んで、あとは、自分の分析力と理論の力を借りて読み解くしかない。そのため学生も教師も対等な立場でディスカッションできる。ロレンスの専門家は授業参加者のなかにいなかったので、選択としてはよい対象だが、「狐」を扱ったこうした本がある以上、授業の趣旨が実現できない。


もし、その院生がこの本の存在を知っていたら、どうしてこの作品を選んだのか理解できない。カンニングができると思ったのだろうか。またそれ以上に、その本の存在に気づき、ロレンスの「狐」は残念ながら、この本があるから、だめだと一蹴できなかった私がバカだともいえる。


しかし、と私は、本棚からその本を取り出して考えた。まあその院生の意図はべつにして、ロレンスの「狐」ではなくて、「狐」を複数の研究者が読み解いたこの本を対象にして授業ができないか、と。作品の批評ではなく、作品の批評の批評を。まさにメタ批評の試みができないかと。そこで授業を〈ロレンスの「狐」を読む〉から、〈『D・H・ロレンス「狐」とテクストを読む』を読む〉に変えることにした。参加者全員に、ロレンスの「狐」と、この『D・H・ロレンス「狐」……』の二冊を読むことを義務付けた。


メタ批評の試みは面白いことになりそうだ。富山太佳夫・立石弘道(編)『D・H・ロレンス「狐」とテクスト』(国書刊行会1994)は今から15年前の本だが、いまでも読む価値はあるだろう。そしてまた時代の限界というべきものもあって、1994年の時点では見過ごされていることがある。


たとえばロレンスのこのレズビアン小説については、いまだったら「クィア」理論によっても語れる部分は多い。もちろんこの『「狐」とテクスト』は、レズビアン、同性愛問題を正しく扱っているが、〈クィア〉という概念はない。当時、なかったのだからあたりまえだたが。ちなみにロレンスの「狐」には、クィアqueerの語が頻出することも、今回読んで見てわかった。驚きである。


あとこれは、論じていなくても、この本の欠陥でもなんでもないが、いま作品を読むと、インフルエンザのことがでてきてはっとする。女性二人で暮らしている農場のある村にも、インフルエンザが侵入している。インフルエンザ、今現在、パンデミックが恐れられているこの病気だが、まさに当時は、恐るべき伝染病だった。第一次大戦大戦末期1918年から19年にかけて大流行したインフルエンザは感染者6億人、死者4000万から6000万。この大流行は大戦を終わらせたともいわれ、まさに、未曾有(最近の読み方では「みぞゆう」)のことであった。その間の事情は、たとえば.アルフレッド・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンでミック』西村秀一訳(みすず書房2004)あるいは速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウィルスの第一次世界大戦』(藤原書店2006)に詳しい。


もちろんこのことについて論者たちが触れていないのは、べつに問題ではないが、ロレンスが確実に時代を写し出していたこと、またこのインフルエンザのパンデミックについて考えると、それが作品の主題にもつながる面があるのではないかとも思えてくる。


まあ面白い授業になるかもしれない。


ちなみにロレンスの「狐」について、私が始めて読んだのは、伊藤礼訳のもので、世界文学全集第二集『ロレンス チャタレイ夫人の恋人 狐/逃げた女/他』(河出書房1967)所収のもの。中学生の頃に買った本(初版)でいまも手元にあるが、『チャタレイ夫人の恋人』を読もうとしたようだ。結局、この本で『チャタレイ』は読まなかったが、中編のほうは、伊藤礼の解説とともに熟読した。ある意味懐かしい本である。ちなみに富山太佳夫・立石弘道(編)『D・H・ロレンス「狐」とテクスト』(国書刊行会1994)の巻末の翻訳リストで、伊藤礼訳の「狐」を掲載していないのは、私的には大きなミスである。