狐の穴 2


明日の授業に備えて、このような覚書を作成することにした。授業時に配るものである。


ロレンスの作品The Foxと、あわせて読んだこの富山太佳夫・立石弘道(編)『D.H.ロレンス『狐』とテクスト』(国書刊行会1994)についていえば、まあ結果として富山論文と、それから巻末に置かれ、批評史を丁寧に紹介し、かつ整理した立石論文、この二つが有意義で、正直なところあとはなくてもいい。この二つだけ読んでいればいいとわかった。


しかしそれがこの本に対する結論といういのであれば、少しさびしいので、各論文について私的覚書を残す射ことにした。


第1論文『狐』と戦争――若い兵士としてのヘンリー pp.23-41


○何かテンションの低い論文だなと思ったが、しかしその後、変な論文がいっぱい出てきたため、逆にこの論文の評価が高くなった。
○若い兵士というポイントは重要。ヘンリーのモデルにはロレンスも含まれること。ロレンスが狐に似ているという情報(p.25)。またヘンリーは「子犬のようだ」(p.26)も重要な情報。 
○二度目のプロポーズの時に大人になる(リーヴィス説)。若さは未熟さにつながるという説。未熟で、またしたたかなヘンリーの不気味さは押さえてある。
○ヘンリー=ハンター説(p.28)
○〈ヘンリー=生、バンフォード=死〉説の再検討。→バンフォードは殺されるような魔女でも、死を表象する人物でもない。←このとおりだが、同時に、バンフォードを死と結びつけ魔女化する言説・イデオロギーの存在を軽視しているのは問題。UFOは存在しないかもしれないが、だからといって、UFO言説を軽視する理由にはならない。
さらにいうと、バンフォードは死ぬ必要はなく、またヘンリーは精神のバランスを欠いている(pp.32-33)というのは、作品のダイナミズムを見失っている。
○兵士イメージ。サロニカ作戦の重要性(p.36)
○またロレンスのゲイ小説『プロシア士官』を引き合いにだしながら、ゲイ問題を回避している。つまりシンボリックでアレゴリカルな読解を拒否して、リアルな小説として読むのはよいとしても、ヘンリーに焦点をあてることで、レズビアン問題を回避し、兵士とかゲイ問題を回避するのは問題。
第一次世界大戦におけるゲイ的感情の沸騰。また精神的におかしくなる復員兵。ギャツビーも同じ。


第2論文 物語の表層と深層――バンフォード殺しは正当化されうるのか pp.42-64
○出ました馬鹿論文。先入観から免れていると思っているおまえは、先入観の塊じゃい。

p.42:ふたりの関係について最初からある種の先入観をもってしまうと、『狐』の解釈をひどく狭めてしまう恐れがあるので注意しなければならない。

【出ました。先入観ぎらいのレトリック。先入観は作品を「狭める」。もううれしくなるほど、一昔前の馬鹿レトリック。
先入観なしに読むなんてくだらない主張だけは、ほんとうにやめてほしい。誰でも先入観はある。そのことを踏まえて上で作品を読むことで、先入観のない読み方ができる。逆に最初から先入観などない読み方をしていると、それこそ見えない先入観(これが本当の先入観で怖い)】


【もし可能な限り、先入観を排除して、この小説を読めば、おそらくこうなる。
レズビアン関係にある二人の女性がいる。男が現れ、いろいろな思惑から二人のうち一人と結婚しようとする。結局、男は、邪魔をするレズビアンの片割れを排除して女性と結婚できるが、レズビアン関係から解放された女性は幸福になれない。レズビアンからノーマルなヘテロ関係に移行したのに幸福になれない。むしろレズビアン関係の時のほうが安定し幸福だった。あとこの男、なにか不可思議な点が多いようだ


これが先入観なしで読んだ時の小説のイメージ。このイメージは、ロレンス小説の通常のイメージとも異なり、同性愛(肯定)小説への驚きと戸惑いから、この衝撃を回避するさまざまな解釈が生まれると考えたほうがいい。

p.43:ロレンスは、『虹』……では、……同性愛的傾向をあからさまに描いているのだ。彼は、この『狐』でも、物語の内的必然性として、マーチとバンフォードが同性愛者である必要があれば、それをもっとはっきり示唆することができたはずた。

【ふたりが同性愛であることは発表媒体からして、はっきり書くことはできない。また暗示的に書くからこそ、効果的ではないか。アイドルがウンコしているとは、どこにも書いていない。だからこのアイドルの女性はうんこしないのだということを本当に言っていたら基地外である。その後、この論文は、マーチとバンフォードが依存しあうといっているが、では、同じレトリックと理屈を使うと、もし物語の内的必然性として、マーチとバンフォードが依存しあう共同生活をする必要があれば、それをもっとはっきり示唆することができたはずだ。しかるになぜ二人が共同生活をしなければいけないのか、どこにも書いていない。バンフォードには親もいる。親に依存していれば生活できたはずなのに、なぜ女友達に依存するのか。


歴史的にみると第1次世界大戦の前後の状況とイギリス人の生活に与えた影響:
以下の4点のみぞゆうの事態である。


1)塹壕戦で多くの兵士が死んだ。それはみぞゆうのことであった。
2)大戦末期にはインフルエンザが大流行し、多くの人間がそれで死んだ。1918年から19年にかけて大流行したインフルエンザは感染者6億人、死者4000万から6000万といわれる。
3)男性が戦場にとられたので、女性の社会進出が進み、女性が男性の仕事を肩代わりした。これが戦後の女性参政権運動に大きな影響を与えたこと。このみぞゆうの事態は、ふつうの女性史の本に書いてあることです。
4)またボストンマリッジの時代でもあり、バンフォードとヘンリーがボストンマリッジであることは一目瞭然。それがわからないのは未熟なヘンリーと未熟なこの論文だけである。

p.44:フロイト理論そのものが厳しい批判・検証にさらされているわけだし、ましてやその理論を不用意に文学作品の解釈に適用して来たことについては大いに疑問が残らざるをえない。……このような彼の文学に関していわば常識となってしまった論点はじゅうぶんに注意する必要があろう。

レズビアン解釈というのが、この論文の執筆者にとっては、「常識」どころか「非常識」に見えたので、正常化し常識化するために「依存し合うマーチとバンフォード」などという高校生でも書かない馬鹿な論点を持ち出しているにすぎない。あほな常識人はおまえであり、レズビアン解釈派という非常識な人間を常識の側から攻撃しているにすぎない。文学史はときとして、非常識な観点(ここではレズビアン)が定説となるという変態の私には嬉しい状況が生ずる。それゆえにこの論文の作者のような奴が怖気だって攻撃に走るのです。


なおフロイトの観点は、いまでは誰も疑っていません。疑っているのは精神科医の専門家たちで、彼らはフロイトを読んでいません。岩波から新しいフロイトの翻訳全集が出始めているように、今フロイトはいま全世界で人気です。


一応フロイトの流行について
1)フロイトの生存中20世紀前半→思想界に大きな影響を与えた。ロレンスもその影響を受けている。また影響の大きさゆえの反発もロレンスにはあったようだ。
2)20世紀後半 アメリカなどで流行し、制度化した精神分析には反発も大きかった。
3)また俗流精神分析による文学批評も盛んでこれも批判の対象となった。まあ、50年代から60年代にかけて。そしてヒッピー文化の到来とともに、フロイトではなくユングの時代とされたこともあった。しかしユングナチスだったしということもあって、フロイトの人気が復活。
4)フランスのラカン派の活動のスローガンが「フロイトへ帰れ」であり、構造主義以後、フロイトの人気が高まった。現在にいたる。
ちなみにこの論文は、上記3)の状況にとどまっている。今から40年以上前のところで停止している。またこの本の執筆者は誰もラカンを知らない。どうなっているのか。

p.48:結局、これは、女が自分を性的に引き付け肉体的に成熟させてくれる男との関係の中で、どのように自分のアイデンティティを確立し、それを確保できるかという問題になる。

【まあ、このヘテロセクシズム、男性中心主義は、ロレンス自身がこう考えているということは事実でしょう。これって常識的すぎないか。こういう「常識化してしまった論点にはじゅうぶん注意する必要がある」と反論できる。


また男女は相互交渉の中で成熟をとげるというのは、まちがっていないと思うものの、往々にして成熟するのは女性で、男性はかわらない。真の相互交渉にはいたっていない。ヘンリーは、未熟者なのだけれども、男性ということで、男性として女性を保護するという自覚が生まれたくらいで、あまり変化することなく、結婚できる。いっぽうマーチのほうは、レズビアンのまどろみから覚め、また成熟するかにみえて、男性のなかに埋没することを求められてしまう。→結局、相互交渉の成熟ではない。
バンフォードはこれを嫌う。男性を必要としない女性の自立。精神的にも肉体的にもレズビアンとなる。


ちなみに女性が女性を愛することは、ナルシシズムのひとつであり、フロイトナルシシズム論を読むべし。女性のナルシシズムレズビアン)は男が入っていけない世界の典型としてフロイトは規定している。

p.60:ヘンリーは、暴力を振るわなければ敗北を喫しただろう。……手ごわい相手とはいえ、女を暴力で抹殺しなければもうひとりの女の気持をひきつけておけなかったのだから、これはどう考えても、真の勝利とはいえるものではない。

【その通り。】


第3論文『狐』――構造としての侵犯者 pp.65-84
○これもロレンス作品のイデオロギーを再生産しているだけの論文。結局、こういうロレンスの主張が好きなだけでしょう。あとなぜ今頃、構造主義なんだ。終わっているぞ構造主義は。


なおこの筆者の構造主義理解は、脱構築にも接近していて、二項対立が、対立項との相互対立で生ずることを押さえている。また他者の存在が、存在そのものを支えることを強調している。そして侵犯・異化的暴力を、ジェンダー化するところは興味深い。しかしそこまでで、結局、宇宙論的(ノモス、カオスだの)言語論的知見(ロシアフォルマリズムの言語的変形暴力侵犯)を、伝統的な男女観で説明するところが問題。
 
つまり通常は、常識的伝統的日常的世界→侵犯→新しい秩序に組み替えられる。
ところがこの作品は、非常識の世界(レズビアン)→侵犯→保守化・男性ファシズム

p.73:マーチの精神の沈滞も、ヘンリーの侵入というある種の暴力によって挑発され、マーチの歪んだ世界の秩序は、ヘンリーという無秩序によって活性化し、宇宙生命の流れとの回路の回復が可能になる。

【やれやれ。やはりこの人は構造主義もどきの人やね。むかしなつかしいノースロップ・フライとか山口昌男中沢新一も入っているか)の世界から抜け出せないみたい。執筆者が抜け出せなくて、どうしてマーチが抜け出せるというのか。】

なお
安定した世界・停滞した人間関係・静止した共同体(X)
侵入者(Z)
開放と解放(Y)
のパタンが『狐』にあることはわかるし、ロレンスもそれを踏襲していることがわかる。
問題がXが何で、Yが何かということだ。
X:レズビアン連続体、親子関係、母子一体化、牧歌的世界、ユートピア、閉じた世界、過去、伝統、想像界封建社会
Y:ヘテロセクシズム・象徴界(いまひとつ閉域)、男女関係、父権社会、都市社会、ディストピア、海あるいは未知なる世界、異界、非西洋、デモクラシー、他者
Zは何か
Z:チェ・ゲバラアーサー王宮廷のコネチッカット・ヤンキー(失敗する革命家)
 破壊者、犯罪者、キツネ? ヘンリーもチェ・ゲバラと同じく失敗する革命家?

p.85:それゆえヘンリーとマーチを待ち伏せしている未知の存在様式は、あくまでも未知であり続けねばならない。それが既知になったときは彼らの愛の死のときである。

【構造と侵犯、性的と動的の関係について論ずると結局こういう結論にいかざるをえない。しかしここにあるのは安住のない悲劇的な世界観である。つまりマーチにとってみれば面白みと変化のないバンフォードとのレズビアン生活は、それでもまどろみ安心できる世界だったが、男の誘惑に屈し、ヘテロな世界に出たマーチには、ヘンリーにとってもそうだが、もはや安住の地はない。たえず先へ先へと動き続ける不安定で動的で安らぎのない世界しか待ち受けていない。それが男の世界であり、それがヘテロの世界なのだ。とうことになるのだが、でも、これって作品のイメージからは離れていないか?】


第4論文 ある〈眠り姫〉ヴァージョンとしての『狐』 pp.87-105


○途中の章立てが内容を物語っている。
1)魔法にかけられたような主人公(マーチ)2)眠り姫としてマーチは男装によって表象されている
【←この洞察は安易なようでいて、深い真実をついているかもしれない。男装と眠り姫とレズビアンのなかに隠れたつながりが?とはいえこれがレズビアン潰しの可能性もあるが。】3)森と城と茨 4)目覚めのキス 5)魔女殺し

p.103:ヘンリーの狡猾な忠告とはいえ、彼女はそれを無視することで狡猾な狙いの犠牲者になるが【←これはその通り】、それは故意の無視ではなかったであろうか。彼女はすでに運命の洪水のなかで無力化していなかったであろうか。【←そういうことは言えるが、問題は、ロレンスがそういうふうに作ったこと。ヘンリーの殺人をそういうかたちで正当化したことのほうが重要で、それをみずしてこの馬鹿は何を見ているのだろうか?】

p.104:こうしてマーチ姫は眠りの呪文から解放される。しかしながら、いったん眠りから覚めた姫は、自分の将来を決めるに当たって、現代的な知恵と判断力を獲得しているようだ。

【「姫」、あんみつ姫、結婚した橋野笑みちゃんか〜い。それにしてもこの最後の一文はミスプリントかと疑った。この小説の最後の印象はこれとはまったくちがうのだから。】

第5論文 動物寓話と民話からみた『狐』pp.106-125
○この論文は、書いている本人が考えている以上に重要な指摘を行っているところがある。それは吸血鬼殺しのところ。
吸血鬼としてのバンフォードはOKです(p.121)
→気づいていないこと、吸血鬼としての女性は、レズビアン女性です。
そしてレズビアン女性=吸血鬼は悲惨な死を迎えるというのが、同性愛を扱う物語の定番である。吸血鬼=レズビアンの図式にまったく気づいていないのは面白い、いえあほらしい。


○マーチの第二の夢について語られる。棺にバンフォードの死体と狐の毛皮。(p.120)
  願望充足夢:ヘンリーがバンフォードを殺して欲しい。
  キツネ=バンフォード

○浮遊するシニフィアンFloating Signifierという言葉をこの執筆者たちは知らない。
まさに狐はこのFloating Signifierであり、ざまざまシニフィアンを呼び寄せる。
キツネ=ヘンリー、マーチ、バンフォード、etc.


○動物に関して、
動物は「神」だ。(これはマイケル・ジャクソンが「神」だというのとは違う)
もののけ姫の神は動物でした。動物は神であり、動物はすべてを見抜く。
狐に見抜かれたマーチ


ラカン鏡像段階による説明が可能。
マーチ⇔バンフォードの想像的一体化=ナルシシズム=レスビアン
を切り裂く他者・神としての狐が、
マーチの斜線を引かれたSに訴えかける。


フロイトによれば男性が切り裂けない強固な女性のナルシシズムの閉域が
狐の視線によって切り裂かれる。狐は大文字の他者Aであり、神である。


第6論文『狐』とゲーテフロイトpp.126-147
○大脳生理学者らしいのですが、お前の大脳を直せ。


フロイトゲーテの世界が違うというのは、フロイトが聞いたら悲しむでしょうね。というのもフロイトが最も頻繁に引用する作家としてはゲーテがトップ、そのつぎがシェイクスピアです。フロイトは「ゲーテ賞」をもらった時、とても喜んだ。そして精神分析ゲーテとの関係は、このゲーテ賞受賞演説でも語られている。念のためこの基地外に教えておく。

p.143:ダンテの永遠の女性ベアトリーチェやディビッドの永遠の女性アグネス……

【はあ?ディビッドとは何。デイヴィッドのこととしても、デイヴィッドだけでは誰のことかわからない。これではジョンの永遠の恋人メアリというのと同じ、意味のない文章じゃい。注をみるとディビッドとは、『デイヴィッド・コパーフィールド』のこととわかる。あのイリュージョン・マジシャンの。】

第7論文富山太佳夫) すべての愛を破壊しに pp.148-181
○富山氏の論文は、この本のなかでぴか一の論文である。


○ただし気になるところもある。それは解説をしているという上から見線。執筆者のなかでいちばん歳が若いのにこの上から見線。と同時に、もうひとつ、異様なはったりレトリック。これは頭の固いというか石頭の馬鹿年寄りを説得するという苦闘の跡をとどめているレトリックとしてみることもできる。


論点をいくつか検証。
○p.149: 動物の同性愛についての情報。ハヴェロック・エリスという性科学者の言説をニュートラルな学術的言説として使っているようにみえるのは問題。エリスの書いているのは、基本的にトンデモ本であり、フェミニズムを非難するときも病気としてのレズビアニズムを提出したことは忘れてはならない。


○p.151:he knew herのくどい説明。知る=性的に知る→次の文体論の森論文にも出てくるからその記述(pp.198−)と比べてみるといい。
狐と人間との獣姦のイメージがあること。しかしその可能性も、象徴性・寓意性によって置き換えられ、その衝撃性が和らぐという洞察。(-p.154)
He knew herには聖書的なknowの用法があるはいえ、同時に、文字通りのものではないのか。動物に見つめられると、自分の心が除かれてしまうような印象を持つのはなぜか。動物はもちろんこちらの心をのぞいていはいない。それはラカンのいうGaze(le regarde)の問題。


Gaze:私たちは自由に、ものを見ているのではない。何かをみるとは、見ることを支配する文化的な力のようなものがあり、それがラカンのいうGaze.なにか見るとは、それをどういうふうに見るのかを決める力に身をまかすことであり、見る私と見られる対象との間には深いつながりが生まれる。対象は見られることを予期していたかのようであり、逆に私は対象に見られるような気がする。しかし、ふだんそういうことを意識しないが、対象に目がついている場合、対象は私を見返すようなところがある。動物がそうで、動物を見ると動物に見返され心を除かれているような気がする。そのとき私たちはGazeを感知する。『狐』の場合、キツネの見返しによってあきらかになるGazeとはヘテロセクシズムの視線である。ヘテロセクシズムのGazeは女性を男性に庇護されるべき女性として見る。そのためにマーチのなかに眠っていた女性性が目覚めるのである。こうラカン的に解釈すれば、獣姦あるいは子犬や動物を使ったセックス遊びを連想する必要もないが……


>>p.154:もしかりにロレンスはこのように下劣で背徳的な性の想像とは無縁の作家であったと主張するならば、確かにその主張は彼の名誉を守ることになるかもしれないが、それと同時に彼を鈍感だと認めることにもなってしまうはずである。私にとってのロレンスはそういう作家ではない。彼は鋭敏である――危険なほどに。