狐の穴 3

授業では、いろいろな意見が出たが、印象深かったものをふたつ。そして疑問点をひとつ。


1)ひとつは、コメントに入る前の、枕の部分で――「この『「狐」とテクスト』は、昔に読んだことがあって、今回の授業を前に、あらためて読み直したが、やはり富山先生の論文が一番すぐれていると思った。ただ先生がこれまでブログで、富山先生のことを批判されているので、どうなることかと心配したが、プリントを配られ、富山先生の論文を称賛されているので、安心した」という意見。


これには苦笑するしかなかったが、ただ、どんないきさつがあれ、優れたものは優れているときちんと評価できなかったら、教員失格どころか、人間失格だと思っているので、ここは常に留意しているところである。たとえば嫌いな人物の書いたものを選んで、これはだめだと全面否定したら、わかりやすい人だと思われるかもしれないが、同時に、軽蔑されるだろうし、そのダメージは大きいと思う。事実、私は、そのような、わかりやすい場面を目撃したことがあり、そういうわかりやすい反応する人物に対して私が感じた侮蔑の念は相当なものだったので、同じことを私がしてしまったら、これから生きていけない。


2)もうひとつは、このロレンスの「狐」は、ジュエットの「シラサギ」に似ているとい指摘だった。これは、すぐれた指摘で、私自身、うすうす感じていたのだが、それがなんであったかよくわからなかったところ、この院生が指摘してくれたことで、もやもやした気持ちが消えた。ちなみに彼は、ロレンスのこの「狐」を扱ってはと提案してくれた院生でもある。いやあ、優秀な学生がいると、教師も助かるだけでなく、限りない刺激を受ける。


私はこれに対してこんなことを語った。「なるほど、妙にひかかっていたことが、これで氷解した。そう、たしかに似ているところがある。ジュエットはレズビアン作家で、その短編"The White Heron"は、短編だけれども、その一巻本の研究書が出ていることを、昔、図書館で見たことがある*1。彼女の代表作でレズビアンクィア的に重要な作品。ジュエットの「シラサギ」とロレンスの「狐」を付き合わせることによって、新たに見えてくるものがあるのではないかと思う」と。


もちろんアメリカ文学の専門家でもない私が、いくら有名な作品とはいえ、ジュエットの「シラサギ」について知っているというのは、おかしなことかもしれない。その院生の指摘に、適当に話をあわせたのではないかと、他の院生は疑ったかもしれないが、べつに話をあわせたわけではない。ジュエットのシラサギはいろいろな翻訳があるだろうが、そのひとつに利根川真紀編『女たちの時間――レズビアン短編小説集』(平凡社ライブラリー1998)所収のものがある。このすばらしいレズビアン短編小説集は、私も関係していて、私の名前がその本のなかにも見出せるからである。もちろんだからといって私が「シラサギ」を読んだ証拠にはならないが、でも、そこに収録されている作品は全部読んでいる。


3)富山論文には、すでに授業で配ったプリント(1月25日に掲載)で語ったことでつきる。かなりきついレトリックも目立つのだが、いまや大御所の富山先生も、この本のなかでは最年少で、年上の頭の固い老人たちを説得したり、それに反論したりするには、このくらいのレトリックを使わないといけないのかと、苦労がしのばれる。


またロレンスを論ずる場合、リーヴィスのいう〈生〉とか、ロレンスといえば〈性〉〈性現象〉だとか、さらには〈無意識〉とか、つねにそうした形而上的コンセプトに回収されてしまいがちだが、批評理論にいちばん詳しい富山氏の論文が、他の論文とは異なり、そうした大文字の概念に訴えることなく、テクストと直に向かい、丁寧に、また鋭く作品の細部を読み解いていることに深い感銘を受ける。ふつう理論派というのは、作品を還元的に読み、作品の細部を無視するといわれがちだが、実際には、ロレンスの場合、理論派でない研究者が実に還元的な読み方をしているのである。


一箇所素朴な疑問が生じた。作品からの引用があって、そのなかに「彼は両手で銃をつかんで一人で外出し、何かを見つめたり、ただ眺めていたりするのが好きだった」という一文がある。この引用を受けて富山論文ではこう分析する—

この描写のどこに兵士のイメージがあるというのだろうか。この少年は銃を小脇にはさむという、銃を扱いなれた人間の典型的な動作をせずに、「両手で(the gun in his hands)」つかんでいるのだ。マーチでさえ銃は小脇にかかえているというのに(her gun under her arm)」。彼は「本当にサロニカから」の帰還兵なのだろうか。二人の知的な女性が、彼の口にするこの情報とその挙動の間にあるへだたりに当惑してそれ以上の追及をしないというのは、彼女たちの心にもこのような疑問があったからではないか。(p.171)

ここを読んだとき、いや鋭い、目のつけどころが違うと、かなり関心した。正直なところ、私はこのことに気づかなかった。このことに気づかせてくれた富山氏に感謝したい。と同時に、入り口を見つけた功績はあっても、残念ながら違う出口から出てしまってはいないかというのが、あとから抱いた感想である。


銃を小脇に抱えるのが、銃を使い慣れた人間。両手でつかむのが素人というのは、まったく逆ではないのか。まず銃を両手でつかむ動作は、べつに不自然ではない。私は実はこの指摘を読んでから、テレビや映画において銃を使う場面を注意してみるようになった。兵士が銃を両手でつかむのはごく自然な動作で、どういう動作でつかんだら、ぎこちなくなるのか、よくわからなかった。たとえば最近のアメリカ軍の兵士は、小銃をものすごくヘンな格好で持つこともわかった。銃床を右肩に、銃身を左の腰のあたり置き、左手を銃の前部に置き、右手を引き金のあたりに置く。実際にやってみるとわかるのだが、かなりヘンなカッコウである。まあ自動小銃の形状にもよるのだろうが。ここからわかるのは、へんなカッコウなのだけれども、それが兵隊の持ち方だということである。


銃ではないが拳銃を例に取ろう。拳銃を片手で撃つのは西部劇に出てくるガンマンかギャングぐらいのもので、警察官だったら、絶対に両手で拳銃を扱う。両手で扱ったほうが、狙いもつけやすいし反動を押さえやすい。そしてそのぶん命中率も高くなる。おそらくそのように訓練されると思う。このときガンマンやギャングのように銃を片手で扱っている人間をみて使い慣れていると考え、両手で銃を構える警察官を銃を使い慣れていない素人と考えたらまちがいだろう。むしろ相手が両手で銃を構えたら、これは危ない、撃たれると考えたほうが正解であろう。


銃も同じで、小脇にかかえるのは、それこそ狐狩りをする貴族や、猟師がする銃の持ち方であり、カジュアルな持ち方であろう。いっぽう軍隊で銃の扱いを叩き込まれた兵士なら、ベルトで肩にかける時を除いて、銃を保持するときには、必ず両手を使うように訓練されていることだろう。両手で扱うのは丁寧な扱い方だから、銃をいためないし、もちろんすぐに撃てるので即応力も高まる。


そこでこの少年だか青年のヘンリーが銃を両手でつかんで外出する姿から想像できるのは、銃を使い慣れていない人間ではなく、むしろ銃の使い方をとことん教え込まれ訓練された、そしておそらくは戦闘で銃を使ったことのある人間であろう。また、狩りに出かけるのに、いつでも撃てるような銃の両手保持(とはいえ両手でもリラックスしたかたちで銃は保持できるのだが)は、緊張している姿、本気で動物を殺す覚悟でいる人間の緊張した姿であろう。しかし、ここでは、むしろそうした緊張感よりも、ヘンリーが、軍隊で叩き込まれた銃の持ち方を維持していることであり、ここから伺えるのは、実際に軍事訓練を受け、激戦地で戦ってきた兵隊の姿である。このヘンリーは、休暇でやってきても、兵隊であるときの癖が抜けないのである。それだけ筋金入りの兵隊になっているということである。


まとめると、〈銃を小脇に抱える〉と〈銃を両手で保持する〉ことは、銃の扱いになれた玄人vs銃を扱いなれていない素人との対立ではなく、カジュアルvsオフィシャルという対立を経由しつつ、最終的に〈かっこだけをつけている素人〉vs〈銃を扱いなれているプロ〉ということになる。富山論文の分析とは全く逆の結論を出さざるを得ない。


ただし、だからといって富山論文の全体的趣旨が、これで損なわれることはない。ヘンリーは激戦地で戦い抜いた、筋金入りの兵隊である。そのことは女性たちにもわかる。そしてそうした筋金入りの兵隊だからこそ、クィアなのである。


第一次世界大戦は、その未曾有の塹壕戦によって、ふたつのものを生んだ。ひとつはシェルショックであり、もうひとつは男性同性愛である(不思議なことに第二次世界大戦では、同性愛的感情は影をひそめてしまう)。激戦地からの帰還兵は、そのため精神を病んでいる(同性愛を病的とするのは問題があるが、当時は、そう考えられていた)可能性が高い。シェルショックによって人格崩壊を起こしているか、あるいは平気で人を殺せるような凶暴性を内に秘めて帰還する兵隊たちは、ある意味、戦後社会における脅威的存在ともなった。そして塹壕戦のさなか、絆を深め合う男たちによって、敵味方をとわず「不思議な邂逅」が生じ、同性愛的感情に目覚めがあった。たとえばグレート・ギャツビーのいかがわしさは、彼が闇の商売に手を染めているらしいということだけでなく、第一次大戦の帰還兵であることにも起因する。


そのためヘンリーのクィア性は、彼が兵隊ではないからではなく、彼が発散する兵隊らしさ、明らかに戦地に出征したことがわかるその挙動ゆえなのである。そして女二人で農場を切り盛りする、ボストンマリッジ的レズビアンカップルと、大陸あるいはサロニカというオリエント世界と接触している地に於ける塹壕のなかにおけるゲイ関係、このふたつの不思議な邂逅が、ロレンスの「狐」を特徴づけているとすれば、またさらにべつの読み方もできるのではないだろうか。


ちなみに塹壕のことを英語でなんというか知っていますか。Trench――それは正式の軍隊用語であり、また一般的用語でもあり、迷路のようにつづく通路型の塹壕。これに対して二人用、三人用くらいの、小さな塹壕、兵隊たちが肩を寄せ合い、抱き合うようにして攻撃を避けるものをなんというか知っていますか。「狐の穴」。Foxholeである。

*1:そのとき思い出せなかったがLouis Renzaの本である。