Gone Baby Gone

本日は、午後、某大学の大学院に非常勤で教える日だが、今年度最終日にあたる。10月にやむをえぬ事情で休講にした(ほんとうは休講にしたくなかったが)以外には、なんとか無事に冬学期の授業が終わってほっとしている。


午後の3限目の授業で、そのあと本務校にまわるので、なかなかその大学の院生と交流する機会がなかったのだが、社会学系の文化研究に近い研究科での授業は、本務校での大学院の授業よりも、院生ののりがいい(授業形態がちがうので、一概に比較はできないが)。私自身もけっこう勉強になっていて準備もたいへんで、たいてい徹夜で水曜日の午前中までかかる。そのため水曜日3限の授業が終わると、かなり疲れてしまい、中央線で本務校に向かうのだが、いつも熟睡してしまい、降りるべき駅を乗り過ごして終点の東京駅まで行ってしまう。そして5限目の本務校での大学院の授業が手抜きになってしまう――まあ、親はなくても子は育つというから、手抜きの授業のほうが学生には勉強になるのかもしれないが。


この日は、最寄の駅のホームで西に向かい、帰りは、東から同じホームに帰ってくる。ちょどう最寄り駅を基点にして、関東を一周するかたちになる。


で、この日の3限目の授業は、ハリーポッターと倫理批評。どういう授業かというと、教科書となる本を使っている。それは文学批評や文学理論を使って、文化研究に役立てましょうという本で、題材としては、最新の文化現象というよりも、誰もが知っている一昔の前の文化現象(その教科書となる本に沿っていうと、映画『マトリックス』と映画『エイリアン』のポスター、マイケル・ジャクソンのPV、巨大ショッピング・モール、Amazon現象、ミレニアムの狂騒、ソーカル事件サッチャー演説、シンディ・シャーマンのセルフ・ポートレイト、湾岸戦争は起こらなかった論、リアリティ番組のビッグ・ブラザー論、ダイアナの死、ヴァーチャル・リアリティなど)をとりあげ、それを文学理論の応用によって分析しようとするもの。今回は『ハリー・ポッター』現象を取り上げる。


使用し参照し応用する文学理論や文学批評は、倫理批評である。事実、人文学系の学問研究では、90年代にEthical Turnが起こり、倫理学や倫理批評への関心がたまかる。それとハリポタ現象がどう関係するのは、ここでは語らないが、この本の各章末には、参考文献が掲載されていて、翻訳のあるものは、こちらで院生に紹介している。今回章末に掲載されていた文献のうち翻訳のあるものは次の5点である。


アンドリュー ブレイク『ハリー・ポッターの呪い―児童文学を襲うグローバリズムの脅威』佐藤 雅彦 翻訳(鹿砦社2006)。
フィリップ ネル『小説「ハリー・ポッター」入門 』谷口 伊兵衛訳(而立書房2002)。
ポール リクール『他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)』久米 博訳(法政大学出版局 1996)。
リチャード ローティ『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性 』斎藤 純一・大川 正彦・山岡 龍一訳(岩波書店 2000)。
キャロル・ギリガン『もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』岩男 寿美子訳(川島書店 1986)。
これにレヴィナスの本、またマーサ・ヌスバウムの本が紹介されている。


もちろん倫理について説明しなければならない。それはたいへんなことなのだが、準拠している本の説明にある程度沿いながら、こんな説明をした。倫理には大きく分けて3つある。カント的倫理、アリストテレス的倫理、レヴィナス的倫理である。


カント的倫理は、あくまでも原則に従うもの。カテゴリカル・イムペラティヴの世界。原則は絶対にまげない。社会や歴史的状況に応じて原則を曲げるのは倫理的ではない。そしてこのカント的倫理の完成は、同時に、社会的政治的歴史的過程から独立した芸術という分野の確立と軌を一にしていた。おそらくだからであろう、芸術を社会的政治的歴史的過程と連動するものとみなそうとする試みに反対する保守的文学研究者が、なにか使命感あるいは正義感をも抱いているかにみえるのは、芸術を独立させることとカント的な倫理とが合致するからである。芸術の社会的・歴史的・政治的次元を研究することは、そうした保守派には、まさに原則を守ろうとしない日和見主義であり、度し難いご都合主義であり非倫理的とうつるからだろう。


社会のなかにあって受容され、また社会に影響を与えてこそ芸術なのに、たとえば映画批評の場合、映画とはなにか、映画の独自性ををめぐる言説が、映画の他の言説(物語論的、イデオロギー分析的、ジェンダー的、文化研究的言説等々)を押しのけて、今もなお日本の映画評論家たちのオナニズムに奉仕しているのも(映画とは何かをめぐる言説など、業界人どうして居酒屋でほざいていればいいのだ。文学研究者の間では、そういう話はもう受けないのだが)、そこにカント的倫理があるからだ。


とまあ、ここまでは授業で話してはいないが、よいニュースとしては、90年代における倫理的転回は、どのようなものであれ、カント的倫理に対する批判からはじまっていた。Ethical Turnは、反カント的倫理を掲げることがからはじまった。


カントの対極にある倫理とは何か。それはアリストテレス的倫理であり、これは「いかに生きるべきか」という問題を「幸福の追及」とセットで考えるもの。もちろん幸福とは、自分だけが快楽にひたることではない。むしろ集団と共同体のなかで、自他共に心地よくなれること、それが倫理である。英語のHappyには、嬉しいという意味もあるが、幸せという意味もあるが、居心地がいいという意味もある。それは自他の共存共栄ゆえに居心地がいいのである。そして倫理とは、社会的政治的歴史的過程なくしては考えられない。その相互作用のなかでにあってこそ倫理である。倫理的ターンは、カントに背を向けるユーターンでもあった。


そしてあともうひとつが、他者といかに向き合い、他者といかに共存するかをめぐるレヴィナス的倫理。この三つの倫理は、対立したり、特定のポジションというのではなく、相互に浸透しあい、誰もが、中間的ポジションに立つ。三つはいずれも座標軸であり、どこに位置するかは個人によって異なるだろう。たとえばアリストテレス的倫理に立つ者でも、時と場合によっては国民の安全と幸福のために戦争もやむなしと考えることはせず、戦争を絶対に悪であり恒久平和の原則を守ると考えてもおかしくない。いくら虚言を悪と考えても、たとえば友人が悪い奴に追われていたら、友人をかくまうために嘘をつくこともやぶさかではない人も多いはずだ。どれかひとつの立場に固定しているという人は、そんなにいない。


なお授業では題材となる『ハリーポッター』シリーズは、全世界的な人気のゆえにか、反発もあったり、禁書リスト(主に宗教的理由から)にも入る場合もあるのだが、児童文学と倫理との関係を考えるときに、授業で使っている本ではレヴィナスとリクールの考え方を対比させていた。


たとえば、エンターテイメント系フィクションに、レヴィナスは現状維持のイデオロギー的要素しかみないため、こうしたフィクションは、他者との遭遇を限りなく妨げ遠ざけるとレヴィナスは考える。いっぽうリクール(上記の文献表からすると『他者のような自己自身 』での議論だが)は、フィクションやファンタジーのなかに思考実験的要素を見出すため、フィクションはつねに他者への回路を内臓するか、回路そのものなのである。イデオロギーユートピアか。あるいは『ハリポタ』は、どちらなのか、どちらでもあるのか、どちらでもないのか。


たしかにフィクションはイデオロギーだが、同時に、思考実験の場でもある。たとえば友人をかくまうために嘘をつくというのは、カントがあげた有名な例である。カント自身の対応は、原則を曲げないというのだから、絶対に嘘をつかないということであった――たとえ、それで友人の命が危なくなっても、嘘はつかないのである。それは雑誌論文だったが、すかさず、おまえはバカかという投書がつづいた。これに対するカントの回答は、たとえ友人をかばうために嘘をついても、だからといって友人の命が絶対に助かるというわけではない。つまり嘘をついても友人の助けにならないことがあるので、むしろ嘘をつかないことが正しい。嘘をついても助けられなかったら、二重の損失であり二重の罪となる。もちろんこれに対して、おまえはバカかという反論がつづいたのだが。


しかし具体例というのは、思考実験の場なり、可能性を判断する試験場ともなる。なぜなら具体例となると意見の一致に到達しないことのほうが多い。それゆえ即断や独断とは程遠く、つねに熟慮熟考の場となる。小説とは、倫理のレッスンなのである*1



授業では、教科書とする本の内容に沿って、こうした議論を紹介し、まとめたわけだが、文献表からもわかるように、筆者は、キャロル・ギリガンの議論も紹介しているため、その議論に触れることにした。原則をあくまでも守るという姿勢は、ジェンダー的にいうと、どちらかというと男性的であり、幸福の追求、共存共栄をはかるアリストテレス的倫理は、どちからという女性的であるという議論である。


このことについて院生から質問があった。やはりジェンダー的な分割に意外性があったのか、ほんとうにそうなのかという質問だった。これに対して、実際に男性がすべて原則を守り、女性は原則よりも幸福を優先するかどうか、わからない。ただ伝統的に、そういうイメージがあることも事実でしょう。男性は原理原則を重んじ、統一性や中心性をなによりも重んずる。男性のデジタル思考的部分と通ずるのかもしれない。いっぽう伝統的な女性性とは分裂的・二重性を特徴とするから、原理原則という一極集中にはなじめない。女心と秋の空なんて古いことわざもあるでしょう。原則がないというのが女性の精神なのです。ただし、現実にそうであるとか、そうあるべきだということではなく、あくまでも伝統的なイメージの話なのですがと話したところ、どうも納得できないということだったので、その場で、突然、ある映画のことを思い出した。


ゴーン・ベイビー・ゴーンGone Baby Gone (2007)。俳優のベン・アフレックの初映画監督長編作品でるこの映画は、監督の弟のケイシー・アフレック(『ジェシー・ジェイムズを殺した男』)を主人公に、彼が恋人の女性(ミシェル・モナハン(『チキチキバンバン』『ミッションインポッシブル3』『イーグル・アイ』))とともに、誘拐された少女を探す物語。舞台となるボストンの風景をかなりリアルに撮影している。リアルというのは、もし私がボストンで生まれ育っていれば、この映画を見たら、懐かしさに胸が締め付けられるような細部を伴なったイメージを出してきているということだが。ボストンの住民たちも多数出演していることだし。――しかしそれはそこで生まれたり長年暮らしている人々が抱く感想であり、そうでなければ、この映画に描かれるボストンには正直言って住みたくない。それほど荒れていて汚い光景が多いのである。その荒れぐあいと汚れぐあいが住民にはリアルな日常の正確な反映となっているのかもしれないが、住民でない者にとっては、嫌悪感さえもよおすような風景になっている−−という意味なのだが。


内容は、ネタバレをしない程度にいうと、結局、その誘拐された女の子は見つかる。しかしそれにともなって主人公は、原則あるいは法をあくまでも守るか、その女の子の幸せを優先するかという決断を迫られる。まさにカント的倫理とアリストテレス的倫理のせめぎあいが生ずる。彼の恋人の女性は、女の子の幸せを考える立場である。彼は最終的には法を守ることを選ぶ。しかしそれによって、恋人の女性は彼の元から去る。映画のなかでカントかアリストテレスかの対立は、それほど重いのであり、またまさにギリガンが指摘したように、男性が法や原則を選ぶ方を優先し、女性は幸福のほうを優先するのであり、ここに典型的なジェンダー対立があらわれる。


結局、主人公は法を守るほうを選ぶのだが――映画のつくりとしては、こうなるしかないのかもしれない。たしかに法を破ることを容認するような映画は、日の目を見ることはないだろう(ゲバラでも死ぬのかだから)――、同時に、法を守ることによって、幸福のほうが犠牲になるという結果が生ずる。監督は、主人公の男性というかケイシー・アフレックの無表情のなかに、さまざまな感情を観客に読ませることに成功している。映画の最後の主人公の表情は、法を守って秩序を取り戻した者の安堵と満足感のようにもみえるし、また自分の選択――それによって恋人を失うことになるのだが――が、はたして正しかったのかどうか困惑し不安になりかけているようにも思うし、また、たとえどういう運命が待っていようとも、やるだけのことはやったし、あとはどうにもできないという諦めのようにも思われる。映画は、カント的倫理の絶対性を肯定してはいないし、アリストテレス的倫理を失ってはいないのである。このふたつ倫理のせめぎあいこそ、倫理的思考の基盤であるかもしれない。


ちなみに私は、マルクス主義者でもあることから、絶対にアリストテレス的倫理を信奉している(マルクスアリストテレス的倫理のほうに向いていたが、マルクスなきマルクス主義は、教条化して原則を遵守するカント的倫理へと傾斜したように思われる)。私はこの映画のなかでは恋人の女性と同じ選択をする。法は破る。幸福を優先する。その覚悟はできている。映画の原作者は『ミスティック・リヴァー』の原作者と同じ。しかし低予算映画ながら、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』のほうは、『ミスティック・リヴァー』(エンターテインメント性が弱くシリアス度と映像度が高いものの、浅薄な倫理しか内包していない)よりもはるかにすばらしい映画である。


付記(2月23日)


なお『ゴーン・ベイビー・ゴーン』の映画のなかで自堕落な母親を演じたエイミー・ライアンは、完全に貧乏白人の庶民の役柄になりきっていて、ロケ現場に入ろうとしたら、セキュリティに止められたというようなエピソードがあるらしいのだが、彼女はこの映画で、アカデミー賞・ゴールデン・グローブ賞の助演女優賞にノミネートされた。実は、最近見た別の映画に彼女が出ていたのだが、そこでも強烈な印象を残しながら、自堕落な母親とはイメージが違っていたので、既視感はあったものの、どこで見たのか思い出せなかった。ちなみにその映画とは、もうひとつの〈ゴーン・ベイビー・ゴーン〉物とでもいうべき映画、クリント・イーストウッド監督の『チェンジリング』である。そしてそこでは、女性が原則と法と正義を守り抜こうとする。女性が、ご都合主義の男性と対決するのである。それは『ゴーン・ベイビー・ゴーン』と逆のジェンダー・イメージだが、同時に伝統的ジェンダー・イメージでもあった。女性こそ正義と原則を求めることもまた、伝統的なジェンダー・イメージでもあった。このことはまた考える。

*1:そんなに倫理が好きななら倫理学の本でも読んでいろ、小説は倫理学の教科書ではないと反論するバカ保守派文学研究者はいるだろうが、誰が好き好んで倫理学の教科書なんか読むか。むつかしくて無味乾燥でわかりにくので。教科書や論文を書いても伝わらないことが、小説やドラマや漫画なら伝わる。だから小説(あるいは漫画)ほど、メッセージ満載のメディアはないのだ。このことは絶対に忘れてはなるまい。