卒論試問 Day 1


2月はよく病気になる。ある年はのどが腫れて、最初は風邪かと思ったがそうでもなくて、腫れはひどくなり食事どころか水ものどを通らなくなり、しかも日曜日もやっている医院も、祝日は休みで、近所の医院にも行けず、苦しんだが、喉から膿が出て腫れが急激におさまり、なんとかなおったことがある。その時、病気で大学に行けないから、修士論文の面接の時には、コメントを書いてファックスを送ろうとまでしていた。また一昨年は、新学科の立ち上げの手伝いをして英文科以外に、その学科の関連の卒論やら修士論文を読むことになり、結局、両学科の卒論を全部で40近く読まされて、2月末には胆石の発作を起こして入院した。卒業論文修士論文を読むのは、体力を消耗する重労働なのであり、2月に病気になりがちなのだ。


昨年は10人以上も指導生がいたが、今年は2人だけ。とはいえ、副査というようなかたちで指導学生以外の卒論も読むので、全部卒論を6つ読むことになった。今年は、教員の読む卒論の数が均等化した。一頃に比べると、数は少なくなった。楽になって嬉しいような、でも悲しむべき事態なのではあるが。


1 最初の学生

私の指導学生である。留年組から先に行う。私は今年度前期までサバティカルで休んでいたから、いまの4年生のことをあまりというより、ぜんぜん知らない。ただ私の指導生の二人は、3年生の頃からよく知っている学生である。留年したのだと思っていた。留年組みだから当然、初日の最初の学生となる。


しかし彼女は、留年したのではなかった。留学していて卒業が遅れたにすぎなかった。それをほかの教員から聞かされて驚いた。実は、彼女は英語表現が得意ではなくて、だから留年もしたのだろう。そんな彼女を暖かく見守りながら、なんとか卒業してもらうよう力添えをするとうのが自分の役割だと思っていた。実際、英語力は最低だが、理解力もあり、話題も豊富で、演劇好きであって、人間的に性格もよい。ほんとうに、あと英語が上手く書けたら、全然問題がないのにという学生だったが、え、え、え、留学していた?留学してこの英語?


たしかに彼女は、外国人教員の質問に対しても、ものすごく流暢ではなくてもそつなく受け答えしていて、そのへんに留学の効果はあらわれていたようだが、残念ながら留学の成果は、卒論を書く英語表現力には現れていない。彼女の英語は、留学していない学生よりもひどいのだから。残念。


2 もう一人の学生

彼女の卒論は、英語はしっかり書けていた。提出前に私は目を通しているのだが、あらためてみると、立派な英語で、よく書けて感心した。『ハムレット』のガートルードに焦点を絞って考えた卒論。掘り下げが少ないところもあるが、興味深い論点を多く含んでいて、4月からの2009年度の授業で読む『ハムレット』で、ガートルード中心に読んでみることにしたのは彼女の卒論の影響である。

なお午前中で私の数少ない指導生2人の面接は終わった。あと英米文学関係の卒論は、明日に集中していて、午後は、主に英語学・言語学の卒論の試問。午後は帰りたいのだが、しかし、英文科では卒論試問を重視しているので、自分の専門ではなくても、教員全員が試問に立ち会うことになっているで、午後も英語学・言語学の試問を聞いていた。


3 タイタス

最初の学生の卒論は英語に目をつぶれば、興味深い観点を出していた。そこで、彼女の卒論を手がかりに、シェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』をめぐって考えてみたい。彼女は熱心な演劇ファンなのだが、映画の話もしている。まあこれまで作られたシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』の映画化作品のうち、ジュリー・テイモア監督(『フリーダ』『アクロス・ザ・ユニヴァース』の監督、舞台では『ライオン・キング』の演出でも知られる)の『タイタス』が傑作映画だったので、『タイタス・アンドロニカス』と映画とはむすびつきやすい。


シェイクスピアの『タイタス』の残虐性は、目を覆わんばかりのものだが、同時に、その極致においては、なにやら笑ってしまうしかないような、透明性もあわせもっている。このあたりをどう説明したらいいのか、よくわからないのだが、彼女が卒論のなかで、タランティーノの映画を持ち出して説明したので、なるほどと思った。タランティーノの映画にみられるあっけらかんとした残虐性、ブラックユーモアともいえるが、それ以上に、痛みを伴わない残酷さといったものと、シェイクスピアの『タイタス』は通底している。


とはいえ彼女は、自分の指摘の重要性を、必ずしも正しく認識していないのかもしれない。実際、タランティーノ映画については、行きがかり上、少し触れたにすぎないかもしれないからだ。『レザヴォア・ドッグズ』のカンヌ映画祭での上演に際しては、残酷シーンがあるという警告が出されたと彼女は書いているが、『レザヴォア・ドッグズ』は、そこまで残酷なのか? 腹を撃たれたティム・ロスが、苦しんでうなっているだけではなかったのか。そう質問したけれども、彼女の答えとしては、そう書いてある資料があったということのみ。彼女はさらに『パルプ・フィクション』を例にあげていたが、こちらのほうかと、聞いてみるべきだった。私はこのとき、『パルプ・フィクション』の中の一場面を思い出していて、質問しようかと思っていたからだ――あの映画のなかで、ブルース・ウィリスが保安官に捕まって拘束される場面があるでしょう。奥の部屋では、黒人の男性保安官が、両手を縛られた逮捕者の男を後ろから犯していた(あえて差別的用語をがまんしてもらうと「おかまを掘る」というやつ)でしょう。その時、ブルース・ウィリスと同じ部屋にいて、猿ぐつわをはめられ縛られた男で、全身タイツのようなものを身にまとい、頭もそのタイツですっぽりくるんでいるのだが、頭の頂上はとんがり帽子のようになっている、そのへんな男が、自分自身とウィリスとを交互に指差して、ウィリスに何かを伝えようとしていた場面を覚えていますか。そもそもウィリスと同じ部屋にいた、そのへんな男は何をしようとしているのですか?」。


残念ながら、この質問はしなかった。彼女は『パルプ・フィクション』も見ていない可能性があったし、そうなると彼女の足をひっぱることになるので、やめたのだが、同時に、この質問をしたからには、答えを提供しなければいけないのだが、そんな答え口にできるかと、考え直したからでもある。


なお外国人教員は、テイモア監督の『タイタス』を試問前日、あらためて見てみて、その感想を述べていた。テイモアの『タイタス』の舞台は、20世紀のイタリア、ファシズム台頭期のイタリアである。イタリア・ファシズムシェイクスピアのローマ史劇のとりあわせが、きわめて適切だといえるのは、イタリアのファシズムは、古代ローマの習俗や秩序を範にとっていたからだと、外国人教員は説明していて、なるほどと思った。


ナチス・ドイツが全体主義の思想的支柱として、オカルト的神秘主義に赴いたとするなら(たとえばロンギヌスの槍)、イタリアのファシズムは、古代ローマ世界の復興を試みたのだから。


そう、ファシズムの語源。古代ローマでは、斧に縛り付けた棒の束のことをファシスfascesといい、古代ローマにおいては執政官の権威の象徴であった。このファシスを三本並べたものが、第二次世界大戦期におけるイタリア空軍のマークだった。そしてこのファシスからファシズムファシストという語が生まれた。


私はイギリスのオックスフォードにあるシェルドニアン・シアター(講堂だが劇場ではない。学位授与式が行われる)の柱にこのファシスのオブジェを見て、驚いたことがある−−というのは嘘で、その時は、そのオブジェが何を表しているのかわからなかった。面白いのは、イギリスの17世紀あたりの建築にもファシスが装飾として使われていたことであり、それは古代ローマ風の装飾であり、古代ローマに連なる威厳をまとわせるものでもあった。事実、建物にはローマ皇帝の頭部の彫刻が並んでいる。