卒論試問前夜


私はこれまで3つの大学の卒業論文を読んできた。ひとつは、現在の大学に移る前に務めていた学習院大学英文科で卒論を読んだ。指導教員が主査となり、あとひとり教員が副査となり、ひとりの学生の卒論を二人で読むことになった。どの先生も、丁寧に熱心に卒論を読んできたので、たとえ副査となっても、いい加減なことはできなかった。


もっとも十年以上いたその大学で、1回だけ、私が副査となって卒論試問をしたとき、主査となった教員が卒論を読んできていないことがあった。卒論を読んでいないどころか、卒論指導もしていなかったらしく、学生が書いて来た卒論の題材すら把握していなかったようだった。その時、その教員は学科主任で、主任の仕事が急がしてくというような言い訳を学生にしていたが、それはひどいものだと思った。結局、副査の私が卒論の内容について質問したりコメントしたりして、ことなきを得たが、仮に副査だったが主任の仕事が忙しくて読んでこれなかったというのならまだ許されるが、指導教官で主査で読んでいないというのは許されないことだった。


とはいえ学習院大学の英文科の名誉のためにいえば、それは10年以上の卒論試問の経験のなかで1回限りのことで、あとはどの教員も卒論は必ず読んできていた。あたりまえといえばあたりまえのことだが。


もうひとつの大学は、2年間、非常勤で教えていた大学で、その大学の英文科では学生は非常勤講師を卒論の指導教員に選ぶことができた。初年度、私は3人くらいの卒論指導をしたが、断ってもよかったのか、断ることはできなかったのか、よくわからないが、3人くらいならと引き受けた。そのうち一人は留年、一人はけっこうよい卒論を書いて、福祉関係の仕事に就職したが、残り一人の女子学生は、卒論を作る前に子供を作ってしまい、妊娠しながら卒論を書くというたいへんな状態になったのだが、なんとか卒論を書いて卒業した。


ちなみにその私立大学では学生には卒論を1部しか提出させない。その1部を指導教員が受け取る。読むのは指導教員だけである。私のところにも1月、学生が提出した卒論が宅急便で送られてきたが、読んだら副査にまわせというような指示はなかったので、なにもしなかった。そうしたら卒論試問の当日わかったのだが、副査は卒論を読んでいない。そもそも学生は1部しか卒論を提出しないのだから。またその1部を指導教員だけが読んで、卒論試問が終わったら、学生に返してしまう。したがって大学には学生が書いた卒論は残っていないことになる。まあ、すっきりしていてよいシステムなのだが、なにかおかしい。そもそも大学に提出した卒論は、大学のものであって返却してはいけないのではと思う。まあ学生の卒論は紙くず扱いで、じゃまだから返して、あとくされないようにということか。


その大学で非常勤2年目には、15人近くの学生が卒論指導に希望した。断るなら、全員断るしかないわけで、それでは迷惑がかかるだろうと思い、引き受けることにした。1月には大学から卒論がどっさり送られてきた。全部、日本語の卒論だったが、それでも数が多いと読むのに疲れる。またオスカー・ワイルド関連の卒論が4点くらいあったのだが、そのうち3点が、卒論のどこかで、奇妙な意見を述べているところがあり、どうしたものかと不思議に思っていたら、4点目の卒論を書いた学生が、引用している日本人の文章に、それがあった。3人の学生は、盗作ではないとしたら、引用であるとも知らずに、そのままなにかを引き写した可能性があったのだが、どこからが他人の意見で、どこからが自分の意見かを区別しないと盗作になると注意をしたにとどめた。ひょっとしたら、その3人の学生の卒論は盗作だったかもしれないのだが、盗作して、良いものになるというのがふつうなのだけれども、盗作をしても凡庸な卒論にしかならないようなので、盗作疑惑を追及しても無駄である。


しかし2年目の卒論試問は、人数が多かったので、12時20分まで、試問時間をめいっぱい使って、全員の試問を終えたのだが、その時の副査、最初に、担当の学生の卒論に問題があるものがあったかと聞くので、問題のある卒論はないと答えたら、わかりました、あとはお願いしますと言って、副査としてもほとんど質問もコメントもしなかった。当然である。副査は卒論を読んでいなのだから。しかも12時前に、これから会議があるからと退席するのである。


まあ一人で15人も担当する指導教員はいないのかもしれない。ふつう4,5名の学生がいるだけで、12時前には終わっているのかもしれない。だとすれば12時から会議があっても問題ないのかもしれないが、こちらは15人もいるから12時になっても、まだ終わらない。そのため、そこを見越して英文科として、都合をつけるべきなのだが、とにかく12時には副査が退席。あとは試問は私と学生の二人でおこなった。最後のほうの学生とは、試問は早々に切り上げて、世間話をしていたことを覚えている。試問の最後に、学生に卒論を返して終わり。あとくされがない。教員も学生も、早く縁を切りたいと思っているのかもしれない。その大学では。


三つ目の大学の卒論とは、現在の大学の卒論試問である。卒論は原則として指導教官と、あと一人の教員で読む。二人の教員が読むだけだが、試問には、英文科の全教員が立ち会うから、学生は、かなり緊張するとは思う。とはいえ大きな会議室を使うのではなく、教員の研究室のひとつを使うので部屋は小さいので親密な感じも出る。緊張感と親密感。それが明日からの卒論試問の時間の特徴となる。卒路試問は二日にわたる。