The Loved One

おくりびと


たとえばアラブ世界の現在について知りたければ、専門家やジャーナリストの発言を読むよりも、小説(あるいは映画)を読んだ(観た)ほうがいいとかつてサイードは語っていた。たとえばすでに書いたように、イランの過去ならびに現状について、アメリカでは、『テヘランで「ロリータ」を読む』とか『ペルセポリス』といった、自叙伝なり回想録が、よく読まれていても、現代のイランの小説は翻訳されることはない。なるほど小説というフィクションよりも、自叙伝回想録というノンフィクションのほうが、現状を正しくゆがみなく伝えているように思われるのだが、実際にはその逆である。すでに詳しく述べたように(なおまだ、その記事はアップしていないが)『テヘランで「ロリータ」を読む』は、アメリカで右翼シンクタンクがバックアップしていて、イラン叩きのために利用されている。ノンフィクションのほうがフィクションよりもはるかに政治的なのである――そういう場合が多い。


しかし今回外国語映画部門でアカデミー賞を受賞した『おくりびと』の場合、世界の人が、あれが現在の日本の状況だと思わったら、とんでもないまちがいである。舞台は山形県だったか、そこには納棺師がいて納棺の儀式をするのかもしれないが、その他の地域では、そんな儀式はない。実際、テレビのインタヴューで原作者が答えていたが、いまでは遺体を綺麗にしてから遺族に渡すので、遺族の前で納棺の儀式が行われることはないとのこと。まあそうだろう。日本のどこかでいまでも納棺の儀式が行われているのかもしれないが、その他のほとんどの地域で納棺の儀式は行われていない。あの映画をみた日本人の観客のほとんどが、納棺の儀式を、特殊なもの、珍しいものとして受け止めたはずだ。四捨五入すれば40年間に私は、祖母と両親と伯母の葬式に親族として立ち会ってきたが、納棺の儀式などはなかった。『おくりびと』はほとんどの日本人にとって、外国語映画ではないにしても、外国映画なのである。あれは日本の一般的日常の映画ではない。


たとえば冒頭のゲイ・ネタ(女性の遺体かと思ったら男性だった)から、最後の、死者の魂としての鳥が飛ぶところまで、特殊な日本のさらに特殊かつローカルな話題を取り上げながら、その扱いかたには、アメリカ映画的な洗練さがまとわりついていて、物語の諸要素の過不足なき消費と解明においても、また死(葬儀)から生(出産)へ、母性的要素(死んだ母親)から父性的要素(死んだ父親)への移行にしても、なんとなくオーソドックスな西洋的世界観に通呈するものがあり、はっきりいって、極端な比ゆを使えば外国映画である。アカデミー賞という枠内における外国語映画賞というは、ラカン的〈眼差し〉ではないが、アカデミー賞/ハリウッドが決めた外国語映画という基準に合致したものだけが外国語映画として選ばれるのであって、基本的にそれはハリウッド映画である。日本でも『おくりびと』に外国映画賞を送ったほうがよかった。実際、そうでもしないと、日本では、どこでも納棺の儀式をしていると思われてしまいかねない。


ただし『おくりびと』にもハリウッドの〈眼差し〉からとりこぼれる日本的要素はまぎれもなくあって、それがこの映画を興味深いものにしていた。主人公は東京の楽団員だが、楽団が解散して職を失い、妻とともに故郷の山形に帰ってきて職を探す。給料がよいからと、なにも知らずに求人広告に応募した主人公を待っていたのは、納棺師という仕事だった。その仕事は、納棺師のためのビデオ撮影のとき死体の役をするとか(死体を演ずるのが、いかにたいへんかというメタ映画的メッセージを映画は観客に伝えている――実に丁寧かつ親切で律儀である)、警察に強力して腐乱死体を処理するとい、たいへんな仕事であったりするのが、しかし納棺の儀式に立ち会う親族たちが、その厳かな雰囲気に圧倒されるように、見ている側も、納棺師という珍しい職業の実態がわかり、また葬儀という峻厳な場での儀式に見入ってしまうのだが、そんな時、衝撃が襲う。主人公が忌み嫌われ始めるのである。


この時点で私たち観客は、納棺師の仕事の奥の深さと納棺の儀式の厳粛さに心打たれているので、一人前の納棺師になろうと努力する主人公の取り組みを応援しながら見るようになる。ところが町でであった幼馴染の男から忌避されるのだ。つまり東京から故郷に帰って再就職するまではいいのだが、よりにもよって納棺師のところに就職するとはと、その選択をなじられ、その男は、自分の家族を主人公に近づかせないようにする。完全に忌避状態である。つぎに妊娠した主人公の妻が、夫が自分に黙って納棺師になったことに腹をたてそれだけはやめてくれと頼む。そして言うことをきかない夫に愛想をつかして実家に帰るのである。


しかし納棺師というのは葬儀屋の一種でもあるわけで、葬儀屋が忌み嫌われる職業なのだろうか。死者あるいは死体を扱うので、きつい仕事であることは確かだろうが、だからといって忌避されるというのは納得がいかない。とりわけ映画を、ここまで見てきた私たちは、いまや納棺師という仕事に対し、主人公と同じく、尊敬の念すら抱きはじめているのだから。


また死体を扱うことで、死の穢れがついてしまうことで、忌み嫌われるということもわからないではないが、それをいえば医者や看護師だって同じではないか。あるいは汚物を扱う清掃業者を忌避しても意味がないではないか。となると結局、この映画における納棺師というのは、被差別部落民のメタファーであり、まあ山形に部落があるかどうか知らないが、納棺師自体が被差別部落民である可能性もあろう。ただ、実際にそういうことはなくとも、この映画そのものが、納棺師を、そうした被差別民の末裔として描いているところがある(映画の中の山崎努の肉食のエピソードを思い出しても言い)。しかも、差別され忌避される側の視点からの悲哀を前面に出している。


そうなるとこの作品で「おくられる」のは、ただ一般人だけではない。差別され忌避され遺棄された死体もある。そして、そうした死体からわかる棄民たちの差別と蔑視と冷遇の苦難の人生が「おくられる」のだ。死体処理者として忌避される納棺師と、差別のなかで生き放棄される人々とが、重なり合う。あるいはそうした差別される生活を背負う人々には、映画関係者も多いだろう。そうなるとこの映画は、ゆえなき差別に苦しみ死んでいった映画関係者をも追悼する映画ともなるだろう。


そうしたことが最初から意図されていたかどうかは問題ではない。この映画は、そうした日本文化の、あるいは映画の、文化的無意識に抵触し、それを意識化しているところがある。


忌避されても、また妻からやめろと迫られても主人公は納棺師になるための修行と納棺の儀式をやめない。その修行と仕事の日々が、映像となって流れるとき、元チェロ奏者であった主人公のチェロの音楽がかぶさってくる。いや、彼は、屋外で、田んぼの脇の土手で、チェロを演奏しているのだ。屋外でチェロを演奏することは楽器をいためることになり、ありえないことなのだが、このシークウェンスは、作品の物語的展開には最小限の貢献しかしないかわりに、主題的盛り上げには限りなく効果的な表現を立ち上げている。映画では、自分の気持ちを河原の石で表すという趣向がみられるのだが、情動を、言語で表現するではなく、オブジェで表現する、このアフェクトの美学は、野外でのチェロ演奏をBGMとした納棺師の仕事においても、最高度の効果をもって発現している。それはまたゲイの男性の遺体で始まり、放置され腐乱した老婆の死体を経て、中盤に多くの若い女性の死体をはさみながらも、最後に妻と子供を捨て帰ってこれなくなった父親の納棺の儀式で終わるこの映画において、真の追悼の対象が把握できる稀有の瞬間である。口にできないほど忌み嫌われている者たち。殺されて当然の同性愛者たち、人間以下と思われている被差別部落の人たち、人間のくずと思われているホームレスの人たち、身寄りもなく腐乱するまで放置される忘れられた老人たち――無念の人生を送り、苦しみに耐えた彼らに対する、これは、痛切極まりないレクイエムなのである。