謀議

(付:くたばれ裁判員制度

トム・クルーズ主演、ブラアン・シンガー監督の映画『ワルキューレ』が今月下旬に上映される。ドイツ語、ドイツ文化圏に関心がある人には申しわけないが、全編英語のドイツ物映画というのは、私は大好きである。英語わかりやすいし。


もちろん、たとえば日本を舞台にして日本人しか出てこない映画の登場人物が、全員、流暢な英語を話していたらおかしく、違和感マックスなのだが、しかし、それと同じかというとそうでもない。たとえばアメリカの演劇を日本人が日本語で上演するような場合はどうか。つまり翻訳劇である。アメリカ人からみれば違和感マックスかもしれないが、日本人からみれば、そうでもない。たとえ舞台上の俳優がまぎれもない日本人であり、流暢な日本語を話すとしても、べつに実際のアメリカ人がそういうふうだと勘違いする観客などいないだろう。今回の『ワルキューレ』も英語に翻訳された映画というように受け止めることになるのだが。


それはともかく、英米人がドイツ人を英語で演ずる映画には、イギリスの俳優がよく出てきて、私にはハリウッド映画でもイギリス映画を見ているような面白さをがある。そういう映画のなかで、『ワルキューレ』と同じく第二次世界大戦のドイツ物として、絶対にお勧めなのが『謀議』Conspiracy*1である。


正確にはテレビ映画なのだが、DVDで見たその映画は、とんでもなく面白い。なぜ面白いのか、自分でもよくわからないところがあるが、とにかく17名の人物が、最初から最後まで会議をしているのである。それを見ているだけで、どうしてこんなに面白いのか、自分でも驚く。


映画は、1942年1月20日ベルリン郊外で行なわれたヴァンセー会議を再現したもので、会議出席者の到着の様子とか、休憩時間における会食とか、会議後の後片付けとか、会議室だけで終わらない工夫がなされているが、基本的に会議でのやりとりに圧倒的な迫力がある。


ヴァンセー会議は、ユダヤ人絶滅の最終解決が採択されたことで名高く、ユダヤ人絶滅を決定するまでの経緯とその方法の決定までが、会議でのやりとりを通して集約的に示されることになる。だから内容もきわめて興味深い。しかも会議出席者は、親衛隊メンバーをはじめとして筋金入りのナチス党員しかも幹部である(親衛隊の制服はドイツ国防軍のそれとちがって独特のまがまがしさが付きまとう)。これだけでも怖いだけでなく、内容がユダヤ人絶滅計画であり戦慄的なのだが、それが、まさに舞台劇さながらに、長い台詞の緊張感に満ちた応酬を長回しで撮るという映像によって展開する。演劇的映画の醍醐味を堪能させてくれる。


映画と演劇は本来なら別物と思われがちがだが、映画こそ演劇的なもののなかに自己を昇華させるのではないというのが持論なので、演劇的映画は私には特に興味深い。たとえばかつで北欧で、ハリウッド的娯楽映画によって失われつつある映画本来の魅了を取り戻そうとして起こったドグマ映画運動が生んだ第一作『セレブレーション』は、あろうことか、シェイクスピアの『ハムレット』のアダプテーションだった。一族の者たちが帰ってきて一晩を過ごす屋敷のなかで、父親の犯罪が暴かれるのだが、それは誰がどうみても『ハムレット』だった*2。しかもドグマ映画には、砂漠で道に迷った観光客たちが救助を待つ間にシェイクスピアの『リア王』を演ずるという『キング・イズ・アライヴ』というような映画もあって、どういうわけかシェイクスピア(演劇)なのだ。ドグマ映画のスローガンも、映画本来の面白さを回復することを目指すものだったが、それは演劇的映画の方向性と一致していた。


もちろんすでに述べたように、この映画の迫力は、会議の様子をみているだけで面白いという演劇的映画であることだけではなく、その会議の内容にもよることはいうまでもない。戦後発見されたヴァンセー会議の覚書のようなものから再現された会議の内容は、ユダヤホロコーストという、ある意味で、いくらナチスユダヤ人を憎んでいたとしても、よくわからない現象と政策について、きわめて論理的かつ合理的な理由を示してくれる。それだけでもかなり参考になる。


と同時にホロコースト捏造説を唱える歴史修正派から、ヴァンセー会議メモは捏造説があるらしいのだが、もし会議が、この映画で示されているような内容だったとしたら、ニュルンベルク裁判で提出された会議メモは捏造だったのかもしれない。というのも話が、あまりにわかりやすい。ホロコーストに関する疑問のすべてに丁寧の答えているような会議の内容なのだから。ただし私はホロコーストを否定する人間ではないし、ヴァンセー会議のメモは偽物かもしれないが、会議そのもの、もしくはヴァンセー会議に類するものは、あっておかしくないし、そこで、最終解決が会議で諮られ決定したことは間違いない(私は修正主義者のような屑ではない)。ただ、そこにいたる経緯は、錯綜した者であったに違いなく、この映画のように短時間にまとまったとも思えない――というだけのことなのだが。


この迫力あるテレビ映画から、いくつかの恐怖を感ずることができる。


1 会議参加者は、会議の議長で、死刑執行人の異名をとったチェコの総督(だったか、正式な名称は忘れた)ラインハルト・ハイドリッヒ(ケネス・ブラナーが演じている)をはじめとして、半分以上が法律家資格を持っている。博士号をもっているのだ。この会議に参加しているナチス党員幹部、親衛隊幹部は、ほとんどが日本風にいうと、法学部を出て司法試験に合格しているか法学博士なのである。法学部出身者というのは、文系のなかでは、もっとも頭のよい人間の部類に入る。にもかかわらず、その合理的精神と論理的科学的思考が、ホロコーストのような狂気の施策を批判するどころか、むしろそれを推進してしまう恐怖がある。司法試験に受かった連中は、皆、ナチス予備軍だというと、偏差値の低い発言をすると法学部関係者から軽蔑されそうだが、ただ、法律家は、いかようにも法律を変えることができる、その恐怖は肝に銘じておきたい。悪魔もまた法律を引用するのである。いや法律とはそもそも悪魔が作っているのだ。


2 DVDを見た一般の感想のなかでは、普段なら善良な人間が、会議を通して、みずからの狂気を呼び覚まし、悪魔的な選択をするにいたったところが怖いというような内容のものがけっこう多かった。しかし、それは完全な誤解である。ここに登場するのは、泣く子も黙る親衛隊とナチスの最高幹部たちである。彼らに、ユダヤ人に同情するような人間的感情などない。彼らにとってユダヤ人は人間ではなく家畜同然なのである。


たとえばコリン・ファース演ずる内務省の法律専門家がユダヤ人の絶滅処理に対して激しく反対するが、それはそれが非人道的であるということではなく、曖昧な法的処理(混血の問題、ユダヤ人をどう認知するかの問題など)のまま絶滅計画を実行したら法治国家としてのドイツの威信が失われることを危惧するからであって、ユダヤ人がこれ以上増えないように断種処理することに対しては、それが法的根拠があるがゆえに、なんら反対していないのである。しかし一民族が増えないように断種処理をするというのは、いったいお前は何様なのかといいたくなるくらい、ひどい話である。しかしこの法律家にとっては、断種処理は法的に許されるが、虐殺計画は国際的に見苦しいのだ。彼もまた、他の出席者と同様、最初から悪魔である。


繰り返すと、真の恐怖は、通常の人間が悪魔に変貌を遂げるということではなく、彼らが、ユダヤ人を、ほんとうに家畜扱いにしていて、病気の家畜を処理するかのように、ユダヤ人問題を処理することが恐怖はなのである。繰り返すと、彼らは最初から悪魔である。


3 この映画は、17名の出席者が会議をしているだけである。となると誰もがこれをアメリカの陪審制度を扱った『12人の怒れる男たち』とか、その日本版ともいえる三谷幸喜原作、中原俊監督『12人の優しい日本人』というような、陪審員映画を思い出すかもしれない。事実、この映画から、こうした映画を連想した人たちは多いと思う。


しかし『12人の怒れる男たち』のように、12人が、たとえ全員ではないとしても、そのほとんどが知恵を出し合い、真相を推理し、妥当な結論に達するというような、理想的な民主的合議方式とは違い、この映画での会議は、最初から、結論が決まっている。つまり議長のラインハルト・ハイドリッヒと、その副官的存在のアドルフ・アイヒマンスタンリー・トゥッチ)との間で、絶滅計画の具体的な手続きと手順まで決定済みであり、あとは承認を得るだけなのである。ここには共同作業なり有意義な議論など全く存在しない。最初から結論ありき。あとはそれを、あたかも皆で議論を尽くしたうえで承認したという形式にしたいだけである。


ケネス・ブラナー扮するハイドリッヒは議長として、辣腕をふるい、賛成意見をどんどんどんとりいれ、反対意見あり疑義は、それを考慮する身振りを見せるだが、抑圧するか無視し、それでも相手が反対するなら、休憩時間に、脅しにかかるのである(ブラナーの演技は圧倒的でもある)。まさに出来レースである。そしてこの映画をみて、誰もが、会議というのは、官公庁から企業にいたるまで、国会から自治体の議会、さらには町内会にいたるまで、会議というのは、こういうものでしかないという思いを強くするだろう。


12人の怒れる男たち』における陪審員たちのように、みんなが全身全霊をかけて知恵をしぼり、偏見を投げ打ち、ひとつの真実とみえるものに向かって手探りで進むというような会議は、この世に存在しないのである。しかも、この映画の会議は、皆で悪魔の選択をしてしまうという内容でもない。最初から悪魔の選択は決まっていて、あとは儀礼的・形式的にそれを承認するだけだったのだ。


そう、ここから私は、裁判員制度というのは、『12人の怒れる男たち』(それにしてもアメリカには、昔は男しか陪審員はいなかったのだろうか)、のようなものではなく、この映画のような出来レースであること、あらかじめ決まっている結論を、あたかも議論を尽くしたかのようなかたちで、儀礼的に承認するにすぎないことを、誰もが思い知るべきである。


裁判員制度というのは、この人はほんとうに万引きをしたのだろうか、動機はなんだったのかを皆で考えることではない(そんな軽犯罪を裁判員は扱わない)。ある犯罪者を死刑にすべきかどうかを決めるのである。それも裁判員が裁判官と時間をかけてじっくり審議するのならまだしも、おそらく結論は最初から裁判官が決めている。裁判員は、ただ、それに同意すればいい。そこで反対意見を出そうものなら、どうなるのか。議長となる裁判官からは、少数意見に対して形式的に承認をもらえるものの、最終的に無視される。誰もが普段の仕事と生活を犠牲にして出席しているから、審議時間を引き延ばすような反対意見を述べようものなら他の裁判員から憎まれる――裁判は早く終わったほうがいいということで。そして最後に、裁判員制度になると、裁判員全員一致でなくても、いいのである。ひとりくらい反対しても、前もって決まっている結論に影響はないのである。だから私は、裁判員制度はぶっつぶしかないと考えている。みずからが裁判員になって反対意見を述べても、まったく効果はないのである。


私たちは、裁判員制度のありようを、『12人の怒れる男たち』ではなく、この映画、ユダヤ人の絶滅計画を、相談したかに見えて承認しただけでの、この映画の会議と同じだと記憶しておくべきなのだ。裁判員制度は、悪魔の制度である。


4そしてこの映画から、もうひとつの恐怖を確認すべきである。国民の知らないうちに、国民の承認を得たわけでもないのに、法律家たちが集まって制度を変えた。それもおそらく、そのなかの少数が、まえもって決まっている制度の変更案を、提示して、あとは合議のうえ結論に達したかのような形式を整えたうえで。この映画の話ではなくて、裁判員制度の話である。国民を裁判員へと動員する〈平成の赤紙〉制度は、絶対に、どこかで謀議されたのである。このユダヤ人絶滅を決定したヴァンセー会議と同じように。許すべきではない。

*1:Dir. Frank Pierson, 2001 TV Movie, UK/USA.

*2:そもそもこの『セレブレーション』は、大きな屋敷に、関係者がやってきて、テーブルを囲むという点で、この『謀議』と似かよった映画になっている。