ミスター・ダウト

本日、昼に、最近怪我をして松葉杖をついている知人と会って、話をした。もう退院しているのだが、まだ松葉杖が放せなくて、たいへんそうだった。エスカレーターの類は使えず、すべて階段。ひとにぶつかって転んだりしたらたいへんなことになり、外出もままらない。


それに比べて、いくら体力と知力が落ち込んでいても、補助器具なして歩ける私は、自分の状態をほんとうに神様に感謝しなければいけないと思った。東京駅で会い、八重洲ブックセンターのところで別れた私は、ほんとうはすぐに帰って仕事をしなければいけないのだが、行き詰まっていて、すぐに帰りたくない。ということで、八重洲ブックセンターから、有楽町経由で日比谷の映画街まで歩くことにした。たいした距離ではないが、それでも歩ける自分の脚があることを、とにかく実感したかったこともある。東京国際フォーラムの横を歩き、ビックカメラをかすめたら、もうそこは日比谷のTohoシャンテ(最近名前が変わった)である。映画をみることにした。今、これを書いているのは4月3日なのだが、その映画館でうつされた風邪のため咳き込みながらこれを書いている。


その時間帯でやっていて、私が見る映画となれば『ダウト』*1に決まっている。演劇が原作なのだが、演劇的映画で同性愛問題となれば、見ないわけにはいかない。そしてパンフレットも買った。それを読んだら、ダウト。これはほんとうにありがちなことなのだけれども、同性愛関連の作品だと、いまでもこういうことが起こる。黒田邦雄、扇田昭彦、ともに有能な評論家だけれども全然気づいていないか、あるいは気づいても知らん顔をしている。いまでも同性愛問題はデリケートな問題で、へたに気づくと誤解されるかもしれないとか、観客が見に来なくなるから言及を避けるようにと映画会社から言われたりして、評論家、解説者が、無視したり気づかないふりをすることがある。パンフレットを書いているふたりの評論家は、どうみても的外れのことを書いているのだけれども、意図的な無視の可能性がある。ダウト。


この映画は、同じ映画館でやっている『フロストvsニクソン』のような、ああいう対決映画ではない(白熱し緊迫した対決シーンはあるのだが、予想したのとは全然違う結末を迎える)。最後までみてはじめて、私は、ああ、そういうことだったのかとわかった。気づかなかった私がバカといえば、それまでだが。もちろん手品をみて、最初から種がわかってしまえば面白くないので、まあ気づかなかったほうが、最後の、ある種の、どんでんがえしに衝撃を受けてよかったことになる。


舞台は1964年のアメリカ。古いものと新しいものとがせめぎあう時代、ケネディ暗殺からさほど経っていなくて、社会的な不安も広がっている時代である。そんなときカトリック系学校では、リベラルでオープンな考えをして学校を改革してゆこうとする、フィリップ・シーモア・・ホフマン扮する神父がいる。しかし学校の校長で厳格な伝統的教育を重んずる、メリル・ストリープ扮するシスターがいる。彼女は、司祭と黒人男子生徒との関係に疑惑をもち、それをもとに神父を告発、追放しようとする。昔の映画『噂の二人』のような映画かと予想させる(まあ、こちらはレズビアンなのだが)。


ただし映画は徐々に予想外の展開をしはじめる。ホフマン扮する神父は、根も葉もない同性愛疑惑をかけられ、窮地に立たされると思うのだが、黒人少年の母親と、校長であるシスターとの話から、黒人少年はゲイであるという疑惑がもちあがる。神父もこのゲイの黒人少年と仲がいいので、疑惑はあながち根も葉もないとはいえなくなる。もちろん神父は、この生徒を、学校始まって以来の黒人生徒でもあるので、絶えず眼をかけ、慰め、励ましているらしいので、そこに疑惑はないともいえる。どちらかはわからない。ダウト。


いっぽうメリル・ストリープのほうは、神父と少年との関係に確信をもち、攻勢に出る。神父の前歴を調べ、前任校も調査したと迫る。あなたには学校をやめてもらうとつめよる。不名誉な噂を流されて学校を辞めさせられたくない神父は必死で抵抗する。その白熱したやり取りは、まさに演劇的緊張感を最高度に高めたもので、この映画のクライマックスともいえるだろう。結局、神父は、自分が黒人の少年と関係を持ったかどうかは、最終的に明言しない。肯定も否定もしないのである――とはつまり関係があったのであろう。ダウト。そしてメリル・ストリープ扮する校長は、絶対にあなたを追放してやると言い放つ。


そして次の場面。神父は、礼拝堂で、生徒や教区の信者を前にして、お別れの挨拶をする。信者や生徒たちは別れを惜しんでいる。彼は人気のあった聖職者・教育者だったのだ。なかにはざまあみろという顔つきでいる不良っぽい生徒もいる。黒人少年の母親は司祭とは目をあわせないようにする。ここでは、なにか嫌な感じがする。やはり保守派が勝利したのか。リベラルな改革派は追われてゆくのか。それもひょっとしたらほんとうだったかもしれないものの、しかし、たとえほんとうだったとしても、いまという時代なら問題にもならないことが、1964年という時代なら問題になったのか。神父はお別れの挨拶のなか、それでも明るく振舞い、信者ひとりひとりと握手してゆく。これで終わると思ったたら、まだ終わらない。


クリスマス。家族の病気のため一時学校を休んでいた若い教師=シスターが帰ってくる(エイミー・アダムズはこういう役がよく似合う。『ジューンバッグ』のときの彼女にもどったような。彼女が一番似合わなかったのは『魔法にかけられて』で、あの映画は見ていて痛かったぞ)。彼女は学校を休んでいる間に、司祭がいなくなったことを知り、校長のメリル・ストリープに、あなたが追い出したのかと尋ねる。


ここから先ネタバレ。


ここで新旧対立とか、疑惑がどうのという話は、関係が無くなる。私たちが驚くのは神父は学校を追放されたのではなく、栄転したのである。昇進する。メリル・ストリープは院長に訴えた。また聖職者にあるまじき、嘘までついて、疑惑を増幅させ、神父の追い落としを図った。そしてその結果は、神父は学校を去ることになるのだが、追放されるのではなく、栄転して去ることになった。これまでの対決は何の意味もない。神父のゲイ疑惑もなにも解決しない。自分は嘘までついて、神父の自白を引き出そうとしたが、なんの効果もなく、嘘をついたという苦い悔恨だけが残ったのである。


メリル・ストリープはここで、意気消沈している。結局、司祭との対決のなかで、保守派の彼女が勝利したわけではなかったのである。むしろ敗北している。しかも嘘までついて司祭を追い落とそうとした事実だけが残る。いったい、なぜ、そんなむなしいことをしたのか。エイミー・アダムズだけでなく、メリル・ストリープだってむなしい気持ちがこみあげてくる。そして次の瞬間、メリル・ストリープは泣き崩れる。"I have such a doubt”と叫んで。そこで終わる。


私は、ここで衝撃を受けた。そしてこのとき、すべてがわかって思わず、もらい泣きしそうになった。メリル・ストリープのいう“I have such doubt” (aは入っていなかったかもしれない。記憶が定かでない。ダウト)というのは、あの神父は、どうみても怪しかった、だからあんな行動に出たのだという。くやしさをにじませた宣言ではない。まあそういう宣言とみる観客がいたら、それはそれでもいいだろうが、べつの意味があるでしょう。そんなくやしさだったら、いつも冷静な彼女が、あんなふうに泣き崩れるわけがない。あるいは、よほど負けず嫌いか、執念深いかのいずれかである。


そうではなくて、彼女には泣き崩れるわけがあったのである。彼女には、人格が崩壊するほどの激情をほとばしらせずにはいられなかった恐怖と悲しみがあったはずだ。それは彼女自身が同性愛者だった、あるいはその疑惑があったということである。


竹村和子さんがどこかで書いていたのだけれども、同性愛者あるいは同性愛を強く嫌悪する者は、自身も同性愛者であることが多いという、一種のテーゼはここでもあてはまる。たとえ自分は同性愛は苦手であると思っていても、同性愛者あるいは同性愛に対して寛容な人は多い。いまでは、その数は昔に比べて格段に増えている。同性愛解放運動の成果でもあるが。またかつてセジウィックが指摘しようなホモセクシュアル・パニック、つまり自分のなかに同性愛的傾向があることを発見して衝撃を受けることも、いまでは少なくなったせいもある。それでもなお同性愛に対して激しい嫌悪感を燃やす人間がいたら、それは自身の中にある同性愛的傾向なり欲望を抑圧し、自己嫌悪をホモフォビアへと投影させているにすぎないのである。ということはこの映画に即して言えば、メリル・ストリープも同性愛者であった。しかし、そのことを認めたくない、あるいはそのことを恐れ隠しているがゆえに、逆に、同性愛者を許せなかったということである。時は1964年という時代のことである。


しかも悲劇は、同性愛者という噂を流されて迫害された者たちの苦難と、同性愛者であるがゆえに迫害された者たちの苦難だけではない。いや、この映画は、そうした犠牲者たちへの鎮魂曲にもなっているところがあるのだが、さらにジェンダー格差の問題がからんできて悲劇がさらに増幅される。


典型的な場面がある。夕食のシーンである。シスターたちの夕食は、黒っぽい制服のままで狭い部屋のなかで、ただ黙々と粗末な料理を口に運ぶだけでの寒々とした夕食である。これは食事中の発言を、みずから、もしくはみずからが許可した場合を除いて、校長のシスター(メリル・ストリープ)が禁じているからとも考えられる。もし校長が変われば、シスターたちの会話もはずみ、楽しい夕食になるだろうとも考えられるが、しかし、これは校長の責任ではなく、制度的に要求されていることなのである。


メリル・ストリープは冷酷で謹厳実直な保守的シスターではない。彼女は、夕食の席でも、目が不自由になった年老いたシスターの手にナイフをそっと手渡したりする深い思いやりを見せる。彼女は、司祭との対決のなかで、黒人の少年を、これみよがしにかばっていやるあなたの思いやりは、チープなのだと食ってかかるが、彼女は思いやりを知らない人間ではない。彼女のおもいやりは、決してチープではない。それどころか深い思いやりがありシスターたちのことをつねに気にかけている。たんに厳格なだけの女性ではないのである。


そした寒々としたシスターたちの夕食とは対照的に男性の聖職者たちの、またなんと華やかで豪華な夕食だろうか。大きな明るい暖かい部屋で、院長と神父二人が、これまた実に楽しそうにご馳走をほうばっているのだ。これはフィリップ・シーモア・ホフマンの周囲を明るくさせずにはおかない性格ゆえともいえるのだが、これも制度的なものである。下働きのシスターに対して上司にあたる男性聖職者は、特権的存在なのである。そして特権を享受した男性聖職者たちは、夕食の席で、太った女の悪口を言って盛り上がっている。ミソジニーで結びつく、典型的なホモソーシャル連続体がここにある。


実際、この映画では男女の聖職者の間に、歴然たるヒエラルキーがあって、たとえばメリル・ストリープは、校長室に神父を呼びつけることはできるが、それまで座っていた校長の椅子は、ホフマンに譲らなければならない。彼のほうが彼女にとって上位者にあたるからである。あるいは、彼女が、ホフマンの前任校のシスターに連絡をとったというと、ホフマンはそれは規則違反だと激しく非難する。そうした場合、男性の神父を通すのが規則であり、シスターたちのコミュニケーションも、男性によってコントロールされているのである。


そして極め付けが、ゲイ疑惑に対する解消法である。ホフマンが黒人の少年と肉体関係があったかどうか、どうでもよくなる。関係がなかったら、それでよく、彼は栄転する。誰の名誉も傷つかない。もし関係があったとしても、いまでなら、なんら問題ないことであり(レイプしたのではないので)、この当時でも、たぶんそれは不問に付されたのである。いや、ホフマンの最後の別れの言葉に、彼が薄紫のガウンを着ていることは重要であろう。私はカトリックについて、何も知らないので、紫のガウンにも意味があるのかもしれないが、同時に、一般的な意味ならわかる。あのガウンの色は、あの薄紫のガウンの色は、あの色は『ダークナイト』でヒース・レジャーが着ているジャケットと同じ色である。そう、映画のなかでヒース・レジャーは一貫して、映画のなかでホフマンは最後に、ゲイの色の服を身にまとうのである。


あるいは言い方を帰れば、ゲイ疑惑というものは存在しないのである。男性聖職者たちのホモソーシャル連続体は、ゲイ的欲望を吸収しているともいえる。男性の聖職者は、ゲイ的欲望を、聖職者間で、あるいは生徒との関係で発散できるし、それがとがめられることもない(カトリック性的虐待が常態化しているというような話ではないので、誤解のないように)。男性の聖職者たちのとの男どうしのつきあいのなかに、楽しい語らいのなかに、男性生徒たちとの交流のなかで、ゲイ的欲望は発散でき解消できる。そこには抑圧はミニマムなのである。


これに対してシスターたちは、男性のホモソーシャル連続体によって、女性どうしの自由な交流を禁じられ、ひたすら男性の聖職者に奉仕をし、女性どうしの最小限の交流のなかで、その禁欲的な生活のなかで、細々と情愛の炎をともしつづけるか、あるいは日々生ずる情愛の炎を日々消しているのである(校長室の電球を参照)。そしてまた1964年という時代では、みずからのなかにある同性愛的な傾向なり欲望を恐れ、それに必死に抵抗し、そのつど深い傷を負っていてもしたにちがいない。禁欲的で冷静で謹厳実直な外貌の下で、心はずたずたに切り裂かれていたのである。


メリル・ストリープとホフマンとの対立のなかで、絶対に告発をしてやるというメリル・ストリープに対して、ホフマンは、あなただって罪を犯したことはないのかと尋ねる。彼女は、たしかに自分も罪をおかしてそのつど赦しを請うてきたと答える。するとホフマンも、私も同じだ。私たち二人は、同じだと答える。これも人間は誰でも罪びとなのだというキリスト教の教えをただなぞっているだけととらえるかもしれないが、思い返せば、ホフマンは、あなたも、私も同性愛者だと語っていたのである。だからいがみあうのはよしましょうと。だが、この場合、たしかに二人は同じ同性愛者だが、同時に決して同じではない。そこにメリル・ストリープの怒りが憤懣が、そして悲しみが生ずるのである。


ホフマンの懺悔は、少年を裸にして抱いたという罪についてのことかもしれない。これに対してシスターの場合には、仲間のシスターにそこはかとない恋心を感じたというにすぎないのかもしれないが、その程度のこと、その程度の欲望ですら、罪として告解し、欲望の目を摘み取らねばならかたったとしたら、ホフマンとメリル・ストリープは決して同じではない。


観客は、おそらく最後の最後まで、メリル・ストリープ扮する校長を謹厳実直なだけで保守的かつ伝統主義的で世間知らずの女、なにもわかっていない女だと思うかもしれない。しかし最後の最後にいたって、彼女はすべてわかっていた、たんなる世間知らずな校長ではなかったとわかる。彼女が抱いていたのは、同性愛的欲望と戯れることのできる男性聖職者の特権的地位に対する憤りであり、またみずからのなかに同じ同性愛的欲望を認めることの恐怖と罪の意識であり(ホモセクシュアルヘテロセクシュアルも実際の肉体関係がなくても欲望の志向によって決まるのだ)、罪への恐れと慄きのなかで、それでもなお同性愛的欲望をひっそり育まねばならかなった自分に対する哀れみと、それを抑圧せねばならなかった悲しみなのである。


だから彼女は保守派でもなんでもない。彼女は、それまでの聖職者のあいだにみられた古い保守的ジェンダー体制そのものに最終的に怒り、いや正確にいうなら悲しみをぶつけるのである。この悲しみの前に、私たちは胸をつまらせ、言葉を失って、映画館を後にするしかない。


1964年のことである。同性愛疑惑をかけられて失脚したり破滅させらりたりした多くの犠牲者たち。みずからの同性愛的欲望にパニックに陥り苦悩した者たち。みずからの同性愛的欲望を、すこしも満たされることなく不毛な冬の人生を送った者たち。いま、それはもう過去のものなのだろうか。この映画の受容における同性愛問題の最終的抑圧は、1964年がまだ終わっていないことの証左ではないか。

*1:Doubt, dir. by John Patrick Shanley, 2008.