Stranger than Fiction

映画の話ではありません。

本日、テレビで『ヘキサゴン』の特別版をみていたら、イギリスの詩人バイロンの有名な言葉に、「〜は小説よりも奇なり」という表現があるのですがの、「〜」には何が入りますかというような問題があって、アグネス・チャン(以下、どの人物も敬称略)が、「真実」と答えていた。「真実は小説よりも奇なり」と。そして「わたしはイギリス人だから」と誇らしげに語っていたが、島田紳介から「そんなこと、誰も興味あらへん」と一蹴されていた。


ちなみに私は、子供頃、NHKテレビのクイズ番組で人気の高かった「私の秘密」を見ていたのだが、その番組では毎回、司会者の高橋圭三が「事実は小説よりも奇なりと申しまして……」と話し始めていた。私としては、やはり「真実/真理は小説よりも奇なり」というよりも「事実は小説よりも奇なり」のほうが真実ぽく聞こえるのだが。


しかし二つのヴァージョンがあるのだろうか。以下、いくつかブログを調べてみた。

「事実は小説よりも奇なり」というのは、イギリスの詩人バイロン(1788-1842)の書いた叙事詩ドン・ジュアン』に登場するフレーズで、


「真理は小説よりも奇なり(Truth is stranger than fiction.)」が出典です。


が、19世紀中頃から、「事実は小説よりも奇なり(Fact is stranger than fiction.)」で始まる形が出てきました。


確かに、現実の世界で実際に起こる出来事は、時として、人間の思いもかけないような複雑さや奇妙さを伴っていますね。


ちなみに、日本では「事実は…」でおなじみのこの言葉、欧米ではオリジナルである「真理は…」の方が一般的なようです。


(ちなみにこのブログで「出典」といっているのは日本語の間違い。原文の英語といえばいいのに出典というのは日本語力がない。)

ということなので、ふたつのヴァージョンがあるらしい。ちなみに私たち日本人が親しんでいるらしい「事実は…」のほうも、英語ヴァージョンはある。どちらかというと世界的には「真実は…」のほうがよく使われているらしい。


で、こんなバカ・ブログもあった。道浦俊彦の読書日記というもの。


まず次の本が紹介してあった『バイロン全集3・5より「ドン・フアン」(前篇・後篇)』
日本図書センター那須書房】、1995、7、25【1936、6、28】)と。つぎに読書日記がある

昭和11年(1936年)に那須書房から出た岡本成蹊訳の「ドン・フアン」の復刻本で、61年後の1995年(平成7年)7月25日に日本図書センターから出ています。


「事実は小説より奇なり」のひとことの起源は、このバイロン詩篇ドン・ジュアン』からだと知って、その原点を求めて(と言っても原典ではなく訳本ですが)を読んでみた。いわゆる「ドン・ファン」のイメージと違う世界が、そこには広がっていた。大学生当時に「ファウスト」を読んだ時のような感覚。文体が戦前のものだから余計にそう感じたのかもしれないが。


最初に想像したよりもおもしろく、「詩」だと思っていたら、「物語」であった。どうも「詩」と訳されている中世の物は、実はこういった物語であることが多いような気がしてきた。「詩篇」というのは誤訳ではないか?いや、誤訳ではなくとも、知らない者を惑わせるのではないか。「物語」とした方がいいよなあ。


この訳者の岡本成蹊は、主人公がスペイン出身なので「ドン・フアン」(「ア」も大きい)と訳しているが、バイロンはイギリス出身で英語で書いたのだから、ここは「ドン・ジュアン」の方が良いと思う。で、この訳は「抄訳」だからかもしれないが、「事実は小説より奇なり」の一文を見つけることは出来なかった・・・。ありゃ・・・。
(2007、2、20頃読了)

ほんとうに読了したのか?このバカは。


ひとつはバイロンの『ドン・ジュアン』を「詩」ではなくて「物語」だとわけのわからないことを言っているが、このバカに、「抒情詩」と「叙事詩」の違いを誰か教えてやってくれ。このバイロンの『ドン・ジュアン』はれっきとした詩である。韻文形式で書かれているから。まあ物語詩でいいでしょう。このバカには、たとえばプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』だってりっぱな物語になっていて映画化もされているが、同時に、あれはりっぱな詩ですよと教えてやってもピンとこないだろうが、日本にも、たとえば『平家物語』なんてりっぱな物語詩が存在しているということくらいは教えておいたほうがいい。


ちなみに「事実は…」がどこに出ているのかわからなかったと書いてある。この翻訳については何の知識もないし、2巻本で抄訳とは奇なり。でもそれは正しいのだろう。で、この『ドン・ジュアン』、こいつはほんとうに読んだのだろうか。ほんとうに読んだとしても「事実は…」を見つけ出すのはむつかしいだろう。


現在は英雄不在の時代であるからはじまるバイロンのこの詩は、最初のほうはスペインが舞台で、若きドン・フアン/ドン・ジュアンの物語は、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』の最初のほうと同じような展開で、安心するが、安心するのはそこまでで、主人公が地中海上で漂流するようになると、だんだん描写が凄惨になってきて、とりわけ船内に食料も水もなくなり人肉食が始まる頃には、もう、とてもまともに読んでられなくなる。R15いやR18かもしれない。


そしてこの地獄図を抜け出すと、ギリシアかどこかで海賊の娘かなんかと恋におち、あげくのはては海賊に追われ、奴隷となってオスマントルコのお姫様に売られるはめになる。そう、その頃にはドン・ジュアンは女奴隷に女装していて、そのままハーレムに入りこんだりするのだ。そしてロシアとトルコの戦いに巻き込まれるようになると、はっきりいって、もうどうでもよくなって、このあたりで力尽きる。ちなみに終わりのほうはどうなっているのかと(バイロンのこの長編詩は未完なのだが)、のぞいてみると、ドン・ジュアン、イギリスに滞在して、イギリスの貴族と議論なんかをたたかわせている。なんじゃい。この展開はと、ますます読む気がなくなるのだが、ほんとうに上記のブログを書いた男は「読了」したのだろうか。


実際には『ドン・ジュアン』のなかで、バイロンあるいは詩人=語り手は「真実は小説よりも奇なり」とは語っていない。以下の引用を参照。

団塊バカ親父の散歩話
西洋起源のことわざ


5月21日に「みだれことわざ」などというバカなお遊びをしたのだが、そのときにことわざを調べていて、欧米のことわざや文書にその起源があるものが、意外と多いことに気がついた。


 はっきりと欧米に起源があることがわかるものもあるが、漢語調の訳や熟語になっていて、一見すると中国の故事来歴が起源のようなものもあって、なんども「へぇー」となったのである。


 再度調べてみたので、以下に書き出してみようと思う。話の種にしていただければ、幸いである。< >以下は、元の英文である。


事実は小説より奇なり<'T is strange ― but true; for truth is always strange; Stranger than fiction.>(英国の詩人バイロンの長編詩『ドン・ジュアン』の言葉。「奇なれども真なり。しかり、真実はつねに奇なり、虚構より奇なり」の後半部分がつづまったもの)

ということである。


ただしこの記事もそうだが、バイロンの『ドン・ジュアン』と書いてあっても、長編詩だし、かんたんに問題の箇所を見つけることはできない。実際にはバイロンの詩だから短くてすぐにわかると、あきらかに誤解しているバカ・ブログもある。


まあネット上の情報なんて、有益な新しい情報があっても、同時に、それと同じくらい無用な欠陥情報が多く、それらが再生産と増殖を繰り返して、良貨を駆逐する悪貨となってゆく。だから出典など黙っておいてもいいのだが、一応書いておく。原文は上記の引用そのまま。訳文は小川和夫訳である。

奇妙なことだが、真実だ、
真実は常に奇妙であり。
作り事(フィクションとルビ)よりも奇妙だから。
バイロンドン・ジュアン』第14歌第101連
(この翻訳は原文の1行を2行にして訳している。行数は最初の1行と2行目。
なお歌(編あるいは篇と訳すこともある)はCantoであり、連(聯とも。また節と訳すこともある)はStanzaである。小川和夫訳(冨山房1993)下p. 375))

どうだろうか。バイロンの詩行を縮めればTruth is stranger than fictionとなるが、まあStranger than Fictionとだけ引用しておいたほうが無難なのかもしれない。