貧乏人の意地(誰が給付金を受け取るか)


私のところにもようやく給付金の受け取り方の通知が届いた。私は、もちろん、資産家でも金持ちでもないが、永久に受け取ることはないだろう。国民を馬鹿にしくさっている。国民の払った税金なのだし、有効な経済対策に国民の税金を使うならまだしも、お上からの下賜金、馬鹿にするのもいい加減にせい。自民党公明党の愚劣な選挙対策だろうが、こんなものに頼る政党もなさけないとすれば、ありがたく受け取っている国民も大バカ者だろう。


実際に、ほんとうに困っている人、たとえばホームレスには給付金は渡らない。そのいっぽうで家庭内暴力で妻や子供が逃げ出した夫のもとに、家族全員の給付金を届けるというのは、その暴力亭主(犯罪者)に慰労金を払っているようなもので、国民の税金を使って暴力亭主(犯罪者)に、ご褒美を上げているようなものだ。狂っている。


ただ、こういうと、お前は金持ちだからという声が返ってきそうだ。困っている人も多いぞ、と。たしかに、私は金持ちではないものの、給付金をもらわないと死んでしまうというほどの困窮生活を送っているわけでもない。だから給付金などを手にしたら、私自身の人格が自尊心が崩壊する。まあ、生活困窮者に寄付ができるシステムを自治体が保証してくれたら、給付金をもらってすぐに、それをそちらにまわすのだが、私が住んでいる市は、残念ながらそのシステムを作る気がないようだ(たぶん、くそ市長の方針だろう。この市長は次の選挙(5月)で落選するだろう)。


問題は、私が給付金をもらわないのは勝手だが、給付金を頼みの綱にしている人たちもいるのだという声がよく聞かれる。どこに、そんな人がいるのか、連れてきてみろといいたいのだが、貧乏人に、給付金をもらうなと暗示するようなことは、まちがっていると批判されるかもしれない。


だが貧乏人とは誰だ。この格差社会において、私は基本的に貧乏人の類だろう。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』がよく読まれているようだが、あの小説のなかで、印象的なエピソードは数多くあるが、貧乏人こそ、施し者を拒否するプライドの持ち主なのだということがよくわかるエピソードは、子供の頃に読んでから、いまもなお私の記憶のなかに消えずに残っている。貧乏人はプライドを食べて生きているのだ。


給付金をありがたく受け取る貧乏人は、プライドを捨てた貧乏人であり、彼らはほんとうの貧乏人ではない。もともと貧乏人だった日本人は、いつからプライドを捨てて、貧乏民族から、乞食民族に成り下がったのか。貧乏人を馬鹿にするなと、給付金の通知書類をびりびりに裂くくらいの、貧乏人の気概をもった日本人は、どこに行ったのだろうか。