ある公爵夫人の結婚生活

ある公爵夫人の生涯The Duchess*1が、ようやく公開されたようだが、この映画、主演のキーラ・ナイトリーKeira Knightlyの熱演と、レイフ・ファインズRalf Finnesの、繊細さを欠いた、いつもとはちがった粗暴な夫役の好演とがあいまって、よく出来た映画に仕上がっているし、かなりポップだった『マリー・アントワネット』とは異なり、同じ時代物でも困難な状況のなかで悪戦苦闘する女性の生き様が描かれ、たとえば同じキーラー・ナイトリー主演の『プライドと偏見』よりも、よほどリアルな映画となっているし、また『つぐない』でみせた、ただやせて魔性を漂わせていただけの(だかそういう設定ではなかったはずの)女性という役どころから一歩も二歩も先へ行くことのできたキーラ・ナイトリーの、これはいまのところベストの映画だと思う*2


ヨーロッパの女性史に詳しい人間なら、この映画でキーラ・ナイトリーが直面する選択が二つあること、それもかなり典型的な二つの選択であることをすぐに感知するだろう。ひとつは、希薄な親子関係から情愛に満ちた親子関係への転換期でもあった啓蒙時代に固有の選択であり、またいまひとつは、母親か、母親を捨てた転落の人生を選ぶかという19世紀ヴィクトリア時代に固有の選択的であった。


18世紀の貴族か、それに類する社会的身分の高い女性にとって、結婚生活とは、子供、とりわけ男性の世継ぎを生むまでが試練であって、もし男の子を生めば、あとは自由な生活が待っていた。つまり子供は乳母に預け、養育はもっぱら乳母が、教育は家庭教師が担当し、あとは愛人でもつくって自由気ままに暮らしていればよかった。結婚は政略結婚であり、子供ができたら、自由になれて、あとは愛人との自由な、そして真実の愛の生活が待っていた。夫も同じことで、妻は子供を作る道具にすぎず、夫もまた、妻以外の女性との関係に喜びを見出していた。つまりは互いに浮気を黙認していた。


夫婦は仮面夫婦としてダブル不倫の生活にあけくれているのではなく、互いに情愛をもって接し、自分たちの子供にも親として愛情を注ぎ、養育や教育を他人任せにするのではなく、親として責任を持つべきだという考え方が啓蒙時代に生まれてくる。これはまた放蕩的貴族の価値観からブルジョワ的価値観への転換でもあったが、階級を超えて共有されてゆく価値観でもあった。主人公の公爵夫人も、そうした新しい価値観のなかで生きてゆく女性であり(とはいえ、そうした価値観は、彼女が学んだわけではなく、彼女のなかから自発的に生まれ、また自然に実践することにもなったものでもあるのだが)、夫がべつの女性に産ませた女の子にも、自分の娘たちと分け隔てのない愛情を注ぎ、男の子が生まれなくとも、すこしも気にしないばかりか、娘たちの母親として人生を謳歌し、また政治活動にも参加し、いまでいうセレブリティとしてホウィッグ党の顔になったりもする。


夫はというと、男の世継ぎを生まない妻に対して不満を隠せないが、同時に、性的関係が希薄になった妻とではなく、別の女性との性関係のなかで日頃の鬱憤をはらし、それがまた妻との間に距離を広げる原因となる。妻としては、よき母親であり、また同時に夫からは得られない愛情を別の男性に求めることになる。ここに第二の選択が生ずる。


夫の不倫に憤懣やるかたらに妻が、夫に対して、自分もある男性と浮気をしたので、夫の不倫を黙認するかわりに、自分の不倫も黙認してくれないかという取引(deal)を持ちかけるとき、夫は激怒する。妻は、夫と取引できる立場にはない。夫がすべての権力と権限を握っているのだから、妻に取引する自由はない。じゃあ、私は、あたなが可愛がっている犬と同じなのかと、こんな生活はうんざりだと妻が激怒するとき、夫は、妻を従わせようと無理矢理セックスをする――家庭内レイプだが。そして皮肉なことにこのとき妻は、男の子を身ごもるのである。


ようやく男の子の世継ぎができた彼女にとって、次の選択肢は、夫への義務は尽くしたあと、このまま夫の愛のない生活を耐えてゆくのか、愛を持ってこたえてくれるべつの男と関係して、愛の生活を築くかという選択肢となる。これだけだと、たいした問題ではない。彼女は貴族の夫人であり、男の子を生んだことでかなりの財産を分与されている(女性が出産奴隷であったことの証拠)ので、夫と別れても、生活に苦労することはない。


しかしこの選択肢は、べつのかたちをとる。つまり子供を捨て、子供を夫の下に残し、別の男と駆け落ちするか。あるいは子供を夫に奪われ、娼婦に転落するか。つまり母親か娼婦かの二者択一を迫られる。こうなると、たとえどれほど苦渋に満ち、また苦難の生活であっても、母親であることを選ぶのが、人間的な責任を全うするということになる。


この映画で彼女は、最終的に母親であることを選択する。夫との愛のない生活であっても、子供たちのために受け入れる。母親であらんとして、女性がどれほど多くの貴重なものを失い、みずからの血を流してきたか、その運命の過酷さに、あらためて思いをはせる――残念ながらこの過酷な運命は18世紀に終わってはいないのだから−−、と同時に、この若くて魅力的で優れた資質に富む女性が、この試練と苦難のなかで、それを自分の成長の糧として、新たに人生に向き合っていくという希望も示される。それがこの映画の最後の希望となる。


だがもちろん母親か娼婦かという選択肢は、女性を家庭内に束縛し出産奴隷として奉仕させようとする父権制が作り上げた脅迫的選択肢であって、これは強力に機能したけれども、それだけが選択肢ではなかった。


家庭を捨てるとは、つまり夫ではなく、子供を捨てることであり、そうした女性に待っているのは娼婦としての烙印を押されること、あるいは娼婦になる境遇であるということは19世紀ヴィクトリア時代の、さまざまな文化表象のなかに見て取れる。演劇でいえば、それはまさにイプセンの『人形の家』から、オスカー・ワイルドの『ウィンダミア卿夫人の扇』とか『理想の夫』『なんでもない女』などに(おそらくは20世紀に入ってからのウェル・メイド・プレイにも)引き継がれているテーマとなる。家庭を捨てながら、家庭に回帰する、あるいは取り付く、悪い母親であり娼婦でもある女性。


その最後の例のひとつは、映画『めぐりあう時間たち』のなかの1950年代のアメリカの主婦エピソードではないだろうか。ジュリアン・ムーア扮する追い詰められた主婦は、夫と子供を捨てて家を出る。というか、そのエピソードのなかでは一度は子供を捨ててホテルでの自殺を決意した彼女だったが、結局、また家に帰ってくる。そしてよき主婦を母親を妻を演ずるかにみえる――だがそれは彼女の限界であったことがわかる。やがて21世紀になって、彼女は思いがけず現れ、過去に息子と夫を捨てて家を出て、自立して働くようになってきた自分の人生を語るのである。彼女は、夫と子供を捨てたことを後悔はしていない――実際には、その夫は、レイフ・ファインズ演ずる貴族の夫ようなひどい男ではないのだが。


もちろん彼女が家を出たことは、それになりに犠牲を強いるものでもあった。母親に見捨てられた男の子は、結局、大人になってからも、その衝撃から立ち直ることができないかにいえる。彼は21世紀になってから自殺する。その原因は複数の要素がからまりあっているから、ひとつに特定でないだろうし、絶望の自殺なのか、覚悟の自殺なのか、それすらも定かでないところもあるし、自殺するゲイの人間という型にもはまっているのだが、彼女があの時捨てた男の子が、やがて自殺をすることになる。


不吉にも、このことは映画とも関係する。この映画のなかでははっきり描かれていないが、公爵夫人は、チャールズ・グレイCharles Grey(のちのアール・グレイ、グレイ伯爵Earl Grey、そう、彼は英国首相にもなり、またお茶の名前にもなったのです)との不倫関係のなかで、長く家族のもとから姿を消していて、ほとんど家出状態だったようだが、この母親の出奔と不在は、息子にも大きな衝撃を与え、生涯、それから立ち直れなかったといわれている。『めぐりあう時間たち』のなかで、母親に捨てられた息子は、後年ゲイの詩人(エド・ハリス扮する)となって自殺するという設定だったが、公爵夫人の一人息子William George Spencer Cavendish, 6th Duke of Devonshire (1790 –1858)も "Bachelor Duke"と呼ばれたように生涯独身であった(ゲイであったかどうか不明だが、死後、近親者によって、残さされた書簡が処分されたことからも、なにか秘密があったようだが)。


めぐりあう時間たち』が公開されたのと同じ時期に公開されたトッド・ヘインズ監督の『エデンの彼方へ』Far From Heavenでも、ジュリアン・ムーアは、追い詰められた主婦を演じていてのだが、その映画はもちろん、ダグラス・サークDouglas Sirk監督の1950年代のメロドラマの傑作『天はすべてを許したまう』All That Heaven Allows(1955)へのオマージュであった。


このダグラス・サーク監督の映画では、ジェイン・ワイマンJane Wyman扮する資産家の夫人が、夫を捨て、子供を捨てて、庭師の男(ロック・ハドソンRock Hudson扮する)のもとへ走ろうとするが、夫も子供たちも彼女を思いとどまらせる。彼女自身も、愛欲の果てに家庭を捨てることが、よいとは思っていない。そのため、彼女を受け入れることを決めている庭師の男のもとへ躊躇があって飛び込むことができない。


決定的な場面がやってくる。結局、家に残ることに決めた彼女に、子供たち(とはいっても兄と妹は、確か大学生かそれ以上の大人でもあるのだが)は誕生日祝いといってテレビをプレゼントする。運び込まれたテレビの、いわゆるブラウン管に、椅子に座っている彼女の姿がうつる。夢も希望もなくただ老け込んでゆくだけの疲れた中年女性の姿としての自分が、彼女の眼を不意打ちする。その瞬間、彼女のなかに虚無感と、そして怒りがわいてくる。


夫も子供たちも、彼女に、よき妻よき母親であるように求め、そしてそこに疑問を感じたときには、妻であり母親であることことの義務を説き、彼女なしではなにもできない自分たちの無力ぶりを訴えたりして、彼女を家庭のなかに留まらせようとするのだが、それはすべて、自分たちのエゴと虚栄と安逸のために、彼女を利用しているにすぎないということがわかってくる。彼女はそこで、たんに見栄っ張りの夫(庭師と駆け落ちするというような階級関係の撹乱を嫌う)とか、大学卒業とよい就職のために母親の確固たる存在を必要とするといった子供たち、つまり家族の一員たちのそれぞれの個人的エゴではなく、制度的な罠のようなもの、女性を隷属させるための仕組まれる美辞麗句の修辞的虚構のようなもの、責任を要求しながら、決してみずからの責任を明示しない父権制の巧緻のようなものに直面するのである。


彼女は、夫を子供たちを捨てる(実際、子供たちは、いたいけのない幼子ではなく、りっぱな大人なのだが)。彼らは彼女の無償の愛に報いることがないばかりか、彼女の愛を食い物にしてきたからである。ここでの彼女の決断にいささかのぶれもない。彼女がロック・ハドソンのもとへ走り、最後に、ふたりが抱き合って、それを窓の外で鹿がみているという終わり方は、二人の運命をとくに良いとも悪いとも暗示していない。だが、暗示していないことによって、二人には、過酷な運命が待ち構えているということを暗示しているようにもみえる。しかし、問題は、そこではない。彼女の、むなしさと怒りが、彼女の自己犠牲をなんとも思わない父権制の残酷さへの限りない憤怒が記録されたこと、それが重要であって、この彼女の怒りのまえに、父権制は何一つ弁解ができないことが、この映画を、稀有の女性映画にして痛切な社会批判たらしめているのである。


???????


しかし、ここで最初に思い描いていたものとは違った方向に進んでしまったことを、反省せねばならない。いや、この『ある公爵夫人の生涯』は、過去にこういうことがあった、昔の女性はたいへんだったという回顧的な眼差しのなかで捉えるのではなく、問題の発端をみるというすぐれて現在時的な視点からみるときには、こういうことになるのだろうし、今語ってきたことをとりけすつもりはないのが、むしろ、多くの観客が共感もするであろうこういうところではなく、なにかべつのところで違和感がある。


この映画のキャッチコピーのひとつがThere are three people in her marriage.であることが知られている。3人とは誰か。ここにこの映画のDVDがある。そう、風邪の私は、いま上演中のこの映画を映画館ではみていない。それ以前にDVDで見ているのだが、そのDVDのジャケットには、キーラ・ナイトリーを真ん中にして、むかって右手にレイフ・ファインズ扮するデヴォンシャー公爵。むかって左側にはエドワード・クーパー扮するチャールズ・グレイ(のちのグレイ伯爵、何度でもいう、お茶の「アール・グレイ」に名を残した)。これは妻が夫以外の男性と三角関係になるということだろう。この三角関係のスキャンダルと、また葛藤と、苦悩を観客は期待する。


その期待は報いられるものの、同時に、もうひとつの三人組Threesome関係が、彼女の結婚生活には認められるのだ。これは予想外のことだった。つまり公爵夫人は、夫から虐待され不遇の身にある女性ベス・フォスターを友人として、夫婦の館に住まわせるのだ。当然のことながら、ベス・フォスターと夫とは、館のなかで関係を持つ。ということは、夫、妻、夫の愛人(だが妻の友人でもある)との奇妙な同棲、奇妙な三角関係が生ずるのである。


ヘイリー・アトウェル扮する(とはいえ彼女のことは知らないのだが、『ブライツヘッド再訪』(2008)の映画化(またか)に出演している)このベス・フォスター夫人は、映画でみている限り、伊藤敦史(テレビ・ドラマ版電車男)にそっくりで、彼が女装しているとしか思えないのだが、それはともかく、彼女は、たとえば公爵夫人の代理となって、公爵とのセックスを引き受ける。まさに代理妻的存在であり、同時にまた、公爵夫人の鏡像でもあり、公爵夫人とレズビアン的関係にもある。彼女は公爵夫人から疎まれるのであるが、同時に、そもそも彼女を住まわせたのは、公爵夫人の友情から出た選択なのであって、二人はある意味、友情でむすばれている。そして公爵夫人は、その死に際して、彼女が公爵と第二公爵夫人として、公爵と正式に結婚するのを許すというか、そのように手配しているのである。


したがって彼女の結婚生活には3人いるというのは、夫、妻、妻の愛人という不倫関係という表面的意味(DVDのケースとかポスターなどで宣伝している関係)の裏に、夫、妻、夫の愛人=妻の友人との同居生活という、もうひとつの三人組関係が存在していることになる。


むしろこちらの裏のスリーサム関係のほうが重要というか、面白いとか、真正のスキャンダルではないか。しかも、この三人は、公の場に三人として姿を現し、当時のジャーナリズムにも取り上げられ、一般に認知されていたのである。たとえどのような憶測がされていようとも。


また公爵も、当時の貴族に要求されたジェンダー役割から一歩も外にでることができなかった冷酷で無味乾燥な男、もしくは自らの愛情を表現できなかった不器用で哀れな男というよりも、3pを楽しんだ光彩陸離たる変態だったかもしれないし、公爵夫人と、のちの第二公爵夫人との間には敵対関係あるいは諦念を忍ばせた友情関係しかなかったというのではなく、同性愛的な関係もあったのではないか。そうなるとこの三人は、ヘテロセクシュアルバイセクシュアル、ホモセクシュアルがくんずほぐれつしてからまりあうネクサスそのものではなかったか。


そしてこちらのほうが、アール・グレイ(紅茶伯爵、首相)との不倫よりも、はるかに興味深い人間関係の深淵をのぞかせてくれるのではないだろうか。


現在、残されている公爵夫人の手紙は、第二公爵夫人となったベスによって抹消されたり、削除されたりする部分が多いらしい(アメリカのDVDの特典映像には、伝記作者が手紙の実物を見せながら、説明していた)。だが公爵夫人の結婚生活から、真にスキャンダラスで、真に興味深い部分を削除したのは、世間体を慮った第二公爵夫人ばかりではない。この映画そのものが、ヘテロセクシズムの支配下で、現に、そこにあった三人組関係――ある意味で、当時から存在しつつ、ヘテロセクシズムの結婚生活を根底からゆるがせかねない真に変態的・両性愛的・クィア的関係――を抑圧しているのである。この点は、残念であるとしかいいようがない。


、ここで最初に思い描いていたものとは違った方向に進んでしまったことを、反省せねばならない。いや、この『ある公爵夫人の生涯』は、過去にこういうことがあった、昔の女性はたいへんだったという回顧的な眼差しのなかで捉えるのではなく、問題の発端をみるというすぐれて現在時的な視点からみるときには、こういうことになるのだろうし、今語ってきたことをとりけすつもりはないのが、むしろ、多くの観客が共感もするであろうこういうところではなく、なにかべつのところで違和感がある。


この映画のキャッチコピーのひとつがThere are three people in her marriage.であることが知られている。3人とは誰か。ここにこの映画のDVDがある。そう、風邪の私は、いま上演中のこの映画を映画館ではみていない。それ以前にDVDで見ているのだが、そのDVDのジャケットには、キーラ・ナイトリーを真ん中にして、むかって右手にレイフ・ファインズ扮するデヴォンシャー公爵。むかって左側にはエドワード・クーパー扮するチャールズ・グレイ(のちのグレイ伯爵、何度でもいう、お茶の「アール・グレイ」に名を残した)。これは妻が夫以外の男性と三角関係になるということだろう。この三角関係のスキャンダルと、また葛藤と、苦悩を観客は期待する。


その期待は報いられるものの、同時に、もうひとつの三人組Threesome関係が、彼女の結婚生活には認められるのだ。これは予想外のことだった。つまり公爵夫人は、夫から虐待され不遇の身にある女性ベス・フォスターを友人として、夫婦の館に住まわせるのだ。当然のことながら、ベス・フォスターと夫とは、館のなかで関係を持つ。ということは、夫、妻、夫の愛人(だが妻の友人でもある)との奇妙な同棲、奇妙な三角関係が生ずるのである。


ヘイリー・アトウェル扮する(とはいえ彼女のことは知らないのだが、『ブライツヘッド再訪』(2008)の映画化(またか)に出演している)このベス・フォスター夫人は、映画でみている限り、伊藤敦史(テレビ・ドラマ版電車男)にそっくりで、彼が女装しているとしか思えないのだが、それはともかく、彼女は、たとえば公爵夫人の代理となって、公爵とのセックスを引き受ける。まさに代理妻的存在であり、同時にまた、公爵夫人の鏡像でもあり、公爵夫人とレズビアン的関係にもある。彼女は公爵夫人から疎まれるのであるが、同時に、そもそも彼女を住まわせたのは、公爵夫人の友情から出た選択なのであって、二人はある意味、友情でむすばれている。そして公爵夫人は、その死に際して、彼女が公爵と第二公爵夫人として、公爵と正式に結婚するのを許すというか、そのように手配しているのである。


したがって彼女の結婚生活には3人いるというのは、夫、妻、妻の愛人という不倫関係という表面的意味(DVDのケースとかポスターなどで宣伝している関係)の裏に、夫、妻、夫の愛人=妻の友人との同居生活という、もうひとつの三人組関係が存在していることになる。


むしろこちらの裏のスリーサム関係のほうが重要というか、面白いとか、真正のスキャンダルではないか。しかも、この三人は、公の場に三人として姿を現し、当時のジャーナリズムにも取り上げられ、一般に認知されていたのである。たとえどのような憶測がされていようとも。


また公爵も、当時の貴族に要求されたジェンダー役割から一歩も外にでることができなかった冷酷で無味乾燥な男、もしくは自らの愛情を表現できなかった不器用で哀れな男というよりも、3pを楽しんだ光彩陸離たる変態だったかもしれないし、公爵夫人と、のちの第二公爵夫人との間には敵対関係あるいは諦念を忍ばせた友情関係しかなかったというのではなく、同性愛的な関係もあったのではないか。そうなるとこの三人は、ヘテロセクシュアルバイセクシュアル、ホモセクシュアルがくんずほぐれつしてからまりあうネクサスそのものではなかったか。


そしてこちらのほうが、アール・グレイ(紅茶伯爵、首相)との不倫よりも、はるかに興味深い人間関係の深淵をのぞかせてくれるのではないだろうか。


現在、残されている公爵夫人の手紙は、第二公爵夫人となったベスによって抹消されたり、削除されたりする部分が多いらしい(アメリカのDVDの特典映像には、伝記作者が手紙の実物を見せながら、説明していた)。だが公爵夫人の結婚生活から、真にスキャンダラスで、真に興味深い部分を削除したのは、世間体を慮った第二公爵夫人ばかりではない。この映画そのものが、ヘテロセクシズムの支配下で、現に、そこにあった三人組関係――ある意味で、当時から存在しつつ、ヘテロセクシズムの結婚生活を根底からゆるがせかねない真に変態的・両性愛的・クィア的関係――を抑圧しているのである。この点は、残念であるとしかいいようがない。

*1:Dir. by Saul Dibb,2008.

*2:ちなにに日本のファンには、これまでよく日本で公演をした「テアトル・ド・コンプリシティ」劇団の主催者サイモン・マクバーニーがホウィッグの実在した政治的指導者を演じていて興味深いかもしれない。