鏡の国の戦争 1


『レッド・クリッフPart2』を見たが、Part1のときにもこのブログで書いたように、アレゴリカルな読みができない娯楽大作である。赤壁の戦いは、圧倒的多数の大国の軍勢を、小国の連合軍が、知略の限りを尽くし、勇猛果敢に奮闘して打破するという痛快な一戦であって、そこに、容易にアレゴリカルな意味づけができそうなものだが、できていない。未来への最終決戦というのが日本側のキャッチコピーだが、いったいどんな未来が構想されているのか、全くわからない。


ペルシャの大軍に対して少数の兵で戦い、全滅しつつも、大打撃を与えて侵略をとめたスパルタ軍の戦い(300の世界だが)、あるいは疲弊した少数の英国軍が、フランス皇太子軍の大軍を打破したシェイクスピアの『ヘンリー五世』に出てくるアジンコート/アジャンクールの戦い。あるいは織田信長桶狭間の戦いでもいい。あるいは一応敗北したのだが、勝利した戦いであると解釈したトルストイの『戦争と平和』に出てくるボロジノの戦いを思い出してもいい。またソ連の大軍に対して奮戦したフィンランドの冬の戦いを思い出してもいい。


モスクワ郊外でのボロジノの会戦を例に挙げると、この戦いでは0、圧倒的優位にたつナポレオン軍に対して、ロシア軍は一日の戦いで全軍の半数を失うという甚大な損害を出して退却するのだが、クツーゾフ将軍は、この戦いを勝ったと主張し、トルストイはそれがなぜかを地図までもちだして、延々と論証する。それは連戦連勝でヨーロッパを征服したナポレオン軍が、ここ東方のロシアの地で本格的な抵抗に出会うという点が重要である。ロシアが侵略者に対してナショナリズムに目覚め、民族が一丸となって果敢に抵抗したため、たとえ敗れたとはいえ、ナポレオン軍にも甚大な損害を与えたのである。ナポレオン軍は、やがてモスクワを占領するも、いわゆる「冬将軍」の前に敗走し、フランスに逃げ帰ることになるが、ナポレオンの帝国主義の野望を打ち砕いたのが、ボロジノの会戦であり、たとえ多くのロシア兵士が命を落とし敗北したとはいえ、この戦いでロシアはナポレオンに致命傷を与えたのである。


戦争と平和』は、ナポレオン戦争後の平和が回復した時点で終わるのだが、それはまた同時にデカプリストの乱の直前でもある。主要な登場人物たちは、このデカプリストの乱に参加し命を落とすであろうことが暗示されている。デカプリストの乱は、ロシアの貴族が、帝政に反対し自由を求めて起こした反乱だが、鎮圧され、多くのロシアの貴族が処刑された(プーシキンもそのひとりである)。デカプリストの乱は、ナポレオン戦争におけるボロジノの会戦に相当する。ボロジノ会戦が、ロシアの敗北に終わったとはいえ、その時の抵抗がやがてナポレオンの帝国主義を終わらせる重要な契機となったのと同じように、ディカプリストの乱も、弾圧されて敗北に終わったとはいえ、その時、燃え上がった自由を求める意志は、たとえまだ帝政は存続していても、必ずや帝政を終わらせる契機となることがわかるだろう。帝政は、絶対に、いつか必ず終わる――というのがトルストイのメッセージであり、ナポレオン戦争のアレゴリカルな解釈から析出されたもうひとつの解釈であった。まさにこれこそが、未来への最終決戦だった。


これに比べると赤壁の戦いは、単純なアレゴリー化を拒んでいるというと聞こえがいいのだが、アレゴリー化しないことの意志のほうが目立つのだ。たとえば吉川英治の『三国志』は基本的に赤壁の戦いは、劉備玄徳一党が、蜀の国を立ち上げる(正確にはのっとるのだが)までの試練の一つであり、呉の戦いの手伝いをしたにすぎない。最終的には蜀の成都(大地震から一年たった)を征服して、その君主となった劉備玄徳一党のなかに、後発の帝国として帝国列強の仲間入りをする日本の姿(侵略者なのだが)を重ね合わせているのであって、蜀を征服後、すぐに孔明は蜀の南方を侵略征服にかかるところなど、まさに日本軍の南進と同じである。また国を奪ったり、侵略して征服することの正当性を示すために、孔明などは過剰なまでの忠誠心と義の精神を発揮することになり、かくして日本の中国侵略や南方侵略が正当化されることになる。そしてこうした蜀=日本のアレゴリー化のなかで、赤壁の戦いは、アレゴリー化の可能性を奪われてゆく。なにしろそれは侵略されが側が、悪しき侵略者を跳ね返す物語であり、侵略者側=日本にとっては、むしろ不吉な話なのである。


映画『レッドクリフ』においても、アレゴリー化は、むしろ拒否されているというべきだろう。まずもとの『三国志』とも違う展開をするのだが、もとの『三国志』の展開も、発展しなかった可能性として残されている。典型的なのは、『三国志』における、呉の将軍が、敵に寝返ったと見せかけ敵を油断させて火船を放つエピソード。寝返りに現実味を帯びさせるために、その将軍は、周瑜に、自分を鞭打たせることまでするのだが、映画では、そうした策略を提案する場面はあっても、策略はすぐに却下され、まさに日本風にいうと「神風」が吹くのを待つのである。映画においては、このように『三国志』を想起させつつ、それとは異なる物語として成立すことを意識的に主張している。10万本の矢を集めるエピソードもひとつの典型である。原作の設定(周瑜孔明の敵対関係)を残しつつも、意味内容は異なるものとなっている。


レッドクリフ』は、ではどういうところにつれてゆくかというと、「勝者はいない」というかたちで戦乱のむなしさを説くのだ。たしかに魏の曹操軍の兵士と、呉の王女とのクィアな友情には泣かせるものがある(確かに泣ける)。それは戦争によって愛する者を失う悲しみに、敵も味方もないということで、結局、敵が消滅する。


つまり侵略者と被侵略者との戦いにおいて、弱いと思われていた被侵略者が勝利する以上、そこには侵略への敵意と、抵抗の必要性を説く思想が存在するはずである。しかし、それはいまや覇者とならんとする中国にとっては、また多くの民族抵抗に直面する中国にとっては、排除すべきものだろう。戦乱のむなしさを説き戦争の悲惨さを説く、反戦思想にみえるものは、敵を消滅させることによって、諸滅させられた反侵略・抵抗思想の廃墟の上に立っているのである。


反戦思想が、みずからの侵略性・征服志向への自覚なきままに説かれるときほど、危険なものはない。反戦思想とは、帝国への抵抗なくしては、つまり帝国という敵なくしては、帝国主義と共謀関係をむすぶしかないのである。