終わりなきクイズの夜に

第一部 三銃士

本日は、予定していた研究会が中止になったので、雨のなか、近所のシネコンに映画を。雨だから客も少ないと思ったら、本日は、1000円の割引日で、なおかつ連休に入ったということもあり、子供から大人まで客は多く、たとえばイーストウッド監督の『グラン・トリノ』は満席であった。それは覚悟していたので、『スラムドッグ・ミリオネア』のほうに。


まあダニー・ボイルDanny Boyle(1956-)監督の映画は、毎年のように見ているし、この映画館でも、昨年だったか、『サンシャイン』Sunshine(2007)を見た。『サンシャイン』は形而上的テーマが私には面白かったが、ダニーボイル的な映画化となるとよくわからない。『スラムドッグ$ミリオネア』は、『ミリオン』Million(2004)の世界に立ち返ったようなところがあって、基本はインド映画だが、ダニー・ボイル的世界を堪能できる。


映画は、子供の頃から立ち上げてきて、最初のほうは、まさに『オリヴァー・ツイスト』の現代ムンバイ版の趣があるが(もちろんそれはまた『ミリオン』の世界でもあるが、いやいやミラ・ナイール監督の『サラーム・ボンベイSalaam Bombay(1988)の世界でもあるのだが*1)、そのため、子供の頃の無垢を失うか失わないかということが全編を貫く主題となってくる。まさにインドの子供たちの物語なのである。


映画を見ながら、まだ伯母が生きていた頃のことを思い出した。98歳の頃の伯母が治療を受けているのを病院の待合室で待っていたら、私の隣に、赤ん坊を抱いた女性が座った。その若い母親は看護師と話していたが、赤ん坊の治療で来ているらしい。べつに気にもとめなかったが、ベビーカーに乗せられた赤ん坊が泣き始めて、何気なく赤ん坊の顔を見た私は、たじろいだ。そこにあったのは日本人の赤ん坊のようなのっぺりとした顔ではなく、眼が宇宙人のように大きくて、目鼻立ちがくっきりしていて、肌がすこし浅黒い。赤ん坊かと思っていたが、大人か、宇宙人かと、思わず声をあげそうになった。


しかし大人ではない。赤ちゃんの泣き声だ。と次の瞬間、私は、失礼だったと思うのだが、思わず横を見て母親の顔を見てしまった。インド系の女性だった。インド系の赤ん坊だったのだ。


看護師との話をやりとりを聞いていたとき、私は、その女性が外国人であるとは夢にも思わなかった。なんの違和感もない日本語だったので。日本に長いのか、ほんとうは日本国籍の日本人なのかもしれないが、顔立ちはまさにインド系であり、赤ん坊はインド系だった。眼が大きくて顔の彫りが深い。そう、いま『スラムドッグ』のスクリーン上でみているムンバイの子供たちの可愛い顔立ちそのものだ。これがインドの子供たちの顔なのだと、伯母が生きている頃のことを思い出しながら、オリヴァー・ツイストの物語を追った。


映画の物語は、悲惨でかわいそうなせつないない話なのだが、エンターテインメントとして実に面白くつくってある。悲惨で悲しくも、また、よくある話でもあるのだが、決して飽きさせない。はっきりいって『レッドクリフ』よりも数倍面白いことはまちがいない。


まあ、アカデミー賞を受賞したとはいえ、これはどうみてもインド映画で外国映画としかいえないのだが、同じ外国映画の『おくりびと』同様、忌避されるような題材を扱いながら、希望のある終わり方をし、すべてを完結させ、そして社会性や政治性を排除するという点でも、今年のアカデミー賞の傾向を代表しているのかもしれない。


以前このブログでも書いたのだが、映画『アバウト・ア・ボーイ』の冒頭で、イギリスのテレビ番組『クイズ・ミリオネア』をやっていて、「〈人間は孤島ではない〉と語ったのは誰かという質問と、4つの選択肢(ジョン・ミルトンジョン・ダン、ジョン・ボンジョビ、あと一人は忘れた)が示されていて、主人公のヒュー・グラントが、こんなの簡単だ、答えはジョン・ボンジョビだと、ギャグなのか、馬鹿ななのかわからない展開をみせるのだが、とにかく、それが『クイズ・ミリオネア』だったので、これはてっきりフジ・テレビがぱくったのかと誤解した。


実際には、イギリス発祥の番組クイズ・ミリオネアは、そのフォーマットを全世界に売り出していて、全世界で、同じようなスタジオ、同じような司会者、同じ音楽、同じ出題形式で番組が作られ放送されている。したがってインド版とはいっても、司会者がみのもんたではなく、観客もインド人というだけで、あとは日本のミリオネアと同じであり、そのぶん親しみがあるというか、誰でもあの音楽は耳に残っていて、映画のクライマックスは、まさにあの音楽をそのまま使っているだけというのは、正直参った。まあ茶の間でテレビをみている気楽さはある。そして物語も、どこかで何度も見たり読んだりしたもので、その分、既視感はあって、違和感がない。


映画からは、知のありかたに興味を持った。このクイズ番組に出る問題は、スラム出身の主人公には答えられないような教養問題なのだが、主人公が(不正をしたのではなく)、偶然その答えを知っていたという設定は、知のありかたに光を投げかけるような気がするのだが、この問題は、後日、考えたい。


そしてもうひとつ興味深いのは三人組の物語になっていることである。そう三銃士。映画での問題は、私には答えられない問題が多かったが、最後のチャレンジの問題は、私にはわかった。三銃士でしょう。ダルタニャンは、小説の主人公だが、彼が三銃士に出会うのだから、彼は三銃士ではない(ダルタニャンを含めて『四銃士』という映画もあった)。枢機卿リシュリューは小説のなかでは悪役である。プランシェって誰?


第二部 終わりなきクイズの夜に
雨のなかを帰宅。帰宅してテレビをつけたら、そこにはクイズ・ミリオネアの世界が。しかもクイズの答えが、解答者の人生をオーヴァーラップするという『スラムドッグ』と全く同じに、ここでも解答者のこれまでの人生が暴露されているではないか。


日本テレビ系列の番組『ザ・クイズショー』は、深夜に放送されていた第一シーズンは見たことがないのだが、4月に、土曜日の9時から、レギュラー出演者を一新して第二シーズンとして始まった。25日はその第二回目だった。


正確に言えば『スラムドッグ』は、べつに解答者の人生を暴くものではなく、通常の質問の答えが、解答者の人生を偶然にも明らかにしてゆくのであり、最初から、解答者の人生を暴露するというようなものではない。そもそもスラム出身のお茶くみボーイ(chaiwarahとか言っていた)に隠さねばならない人生や、偽らねばならない人生などない。いっぽう『ザ・クイズショー』(『クイズ・ミリオネア』をモチーフとしている)の解答者は、みなセレブであり、その輝かしい人生が虚飾にすぎないことが暴かれるという仕掛けになっている。しかし結果は同じである。


ああ、クイズによって人生があぶりだされていゆく。それも映画館だけでなく、帰ったらテレビでも同じことをやっている。もっと意識的に。クイズ・ミリオネアはいまやグローバルな現象となった。あまねく存在するユニヴァーサルな現象であり、また実際、全世界でおこなわれグローバル化がすすんでいるという意味でも。


ああ、終わりなきクイズの夜。いまや日本人、誰もがみのもんたに、ファイナル・アンサーを求められ幻想のなかに生きはじめるのだろうか。終わりなきクイズ・ミリオネアの夜が到来するのだろうか。


なお『ザ・クイズショー』の第二回のゲスト美波。彼女については、出演映画3本を見て、舞台は一度しか見ていないが、はじめて気づいたのあが、彼女、勝間和代に似ている。

*1:『サラーム・ボンベイ』との類似と差異については、後日考える。