聖クリストフォロス


グラン・トリノ』の客席にいると、もう中年を通り越している私が、なんだか青年に思えてくるのは、客層の年齢が高いからである。まあ、年寄り受けする映画なのだ。


しかし、どうして年寄りは映画が終わったら、エンドクレジットが流れている最中に席を立つのだ。なんか悪い癖がついているぞ。もちろん急いで映画館を出なければいけないような用件なり仕事を抱えている人はいるだろう。そういう人に無理やり座っていろというつもりはない。ただ、みんながみんなそんなに忙しいわけではないだろう。


またもちろん最近の映画はエンドクレジットが長くて、さすがに見ているだけでうんざりすることもある。それに全部つきあう必要はないと思う。まあ、年寄りは英語をはじめとして横文字が、まったく読めないのかもしれない。彼らの義務教育に英語は入っていない。私も以前、クルド語の映画を見たことがあるが、さすがにエンドクレジットのクルド語は、どう想像力を働かせても、解読の手がかりすらつかめず、さすがに、音楽もないエンドクレジットをじっとみているのは苦痛だったが、それでも座っていた。


以前、このブログにも書いたが、戦犯クラウス・バルビーのドキュメンタリー映画、あれも私が見たときには、周囲に年寄りしかいなかったが、終わったら、エンドクレジットが始まると、ほとんどの観客が席をたって、座っている私が何か悪いことをしているような錯覚にとらわれるほどであった――しかも、その映画のエンドクレジットは、最近の映画の割にはすごく短かった(ドキュメンタリーだからだが)。それなのに席をたつ?


日本の年寄り、おかしいんじゃないのか。誰がこんな日本の老人にしたのだ。エンドクレジットが終わって館内が明るくなるまで、席をたたないほうがいい。最近のシネコンは、客席の傾斜がきつくなっていて、暗いところで階段を下りるのは、年寄りにとっては危ない。いや年寄りの一匹や二匹、転んで死のうが、こちらの知ったことではないが、そういう事件が起こると、映画館の責任にされたり、へんな規制が入ったりして、映画をみる環境が制約されるのが嫌なのである。


また最近の映画は確かにエンドクレジットが長すぎるので、最後まで見るのは苦痛な気がするので、なんとかして欲しいのだが、最後まで見るのが礼儀とかといことではなく、館内が明るくなるまで座っているのが義務だろう。『グラン・トリノ』は、それでも最後まで座っていた年寄りも多かったのだが、同時に、座っている私の前を何人もの年寄りが通り過ぎた。座っていられないのか。頻尿ならしょうがないが。


実際、ほんとうに悪い癖がついたものだと思う。ああいう年寄りにした親の顔がみたい。こんなことを書くのも『グラン・トリノ』のエンドクレジットは、文字だけではない。映像が最後まで流れ、歌まで入っているからだ。エンドクレジットはみていて苦痛でもないし、退屈でもない。泣いている観客もいたくらいだから、映画の余韻にひたっていてもいいではないか。それでもさっさと席をたつか?信じられないぞ。


付記:もちろん、癖ではなく、意思表示ということもあろう。『グラン・トリノ』の結末、あのような結末ですら、感動するとか、考えさせられるとか、納得するのではなく、ただ気に入らないという馬鹿年寄りはいるのかもしれないが。



グラン・トリノGranTorino(2008)という映画は、まあクリント・イーストウッドClintEastwood扮する主役の頑固老人が口が悪いということもあるのだが、しかし、それ以上に差別用語の展示場みたいになっていて、クリント・イーストウッド/ウォルト・コワルスキー(ポーランド系移民の彼もまた「ポラックス」と呼ばれているのだが)は、アフリカ系アメリカ人のことを「スプーク」と呼んでいるのだ。いやあ、これには引いた。なぜなら大学の先生がもしアフリカ系アメリカ人のことを「スプーク」と呼んだら、職を失いかねないのだ。


フィリップ・ロス原作の映画『白いカラス』(Dir. Robert Benton, 2003. 原題はフィリップ・ロスの原作と同じ「ヒューマン・ステイン」The Human Stainだが日本語のタイトルが「白いカラス」――まあ、たしかに映画のなかにカラスが出てくるが、このタイトルは、ちょっとどうかと思うのだが。あと『白いカラス』の日本の予告編、あんなにネタばらしをしていいのかと驚く)では、大学の教授(学長でもあるのだが)が、欠席が多くて顔を見せない学生のことを「幽霊学生」と呼ぼうとして「スプーク」(幽霊)という語を使っただけでも、それが黒人に対する差別用語(俗語表現)だと非難されて職を失うのことを思うと、映画『グラン・トリノ』のなかでスプークを連発する老人には、たしかに引ける。なお『白いカラス』のほうは、「イミテーション・オブ・ライフ」(ダグラス・サーク監督のリメイクを思い出すが)とでもタイトルを付けられる内容なのだが、「スプーク」という語の二重性、つまり黒人と幽霊の二重性を大いに利用してもいた。


頑固でマッチョなアメリカの右翼の老人を機軸としている『グラン・トリノ』については、結局、差別していないからいいだろうという口実のもとで連発される差別用語とか、悪いアジア人と良いアジア人という図式(悪いインディアンと良いインディアンという西部劇以来の図式)に乗っかっているだの、結局は、アメリカ中心主義だのと、やまのように批判できるのだが、ここではそれには触れないでおこう……


『ザ・バンク』The International(dir.by Tom Tykwer , 2009)という映画を見たとき(あの〜、今月の7日に見ていた映画は『ザ・バンク』でした)、いくつもの既視感にとらわれた。ひとつはナオミ・ワッツNaomiWattsとアーミン・ミュラー=スタールArmin Muller-Stahlの二人は、どこかでみたと思ったら、これはすぐに『イースタン・プロミスEastern Promises(2007)だと思い出した。しかしアーミン・ミュラー=スタール、このよく見かけるドイツの俳優は、『天使と悪魔』にも出演しているようだが(予告編でわかった)、その時から二週間前に見た『ワルキューレ』(トム・クルーズ主演、ブラアイン・シンガー監督)を思い起こさせた。誤解のないように言っておくと、アーミン・ミュラー=スタールは、『ワルキューレ』には出演してない。では、なぜかというと、『ワルキューレ』のシュタウヘンベルクのヒトラー暗殺未遂事件に連座して処刑されたドイツの軍人というか貴族の役を、このアーミン・ミュラー=スタールが演じていたことをふと思い出したのだ。なんの映画だったか、その時はすぐに思い出せなかったが、翌日、思い出した。ああ、『魔王』だ、と。


『魔王』(The Ogre, Dir by Volker Schlondorff, 1999)という映画は、残念ながら、原作(トゥルニエ『魔王』、みすず書房から2巻本で翻訳が出ている――持っているのだが、まだ読んでいない)を読まずに映画だけを見たので、最初、どんな映画なのかわからずに戸惑った。第二次世界大戦の話だとわかってくると、なにか『ブリキの太鼓』みたいな話だと思ったら、監督は『ブリキの太鼓』の監督だった。


この『魔王』のなかで、ナチスの親衛隊が、近隣の子供たちを集めて軍事教育をしている城館の主である貴族(自身もドイツの陸軍軍人)を、このアーミン・ミュラー=スタールが演じていた。ある日、ヒトラー暗殺未遂事件の報が、城館にも届き、それとともに暗殺首謀者に連なる者として、この貴族が逮捕され連行されていく場面がある。彼はシュタウヘンベルクではないが、シュタウヘンベルクのような人物として映画のなかで提示されていたのだ。そして、いま、『グラン・トリノ』を見ながら、私は、この『魔王』を思い出していた。


映画の最後、ジョン・マルコヴィッチユダヤ人の少年の肩車でかついで、沼だか湖だかを渉って行く(原作を読んでいないので、渡りきるのか、沈んでしまうのか、映画だけでは定かでないのだが)。映画の日本版予告編には、これこそニーチェの運命愛だとかいう、ばかばかしいコメントを寄せている者がいて、フロドが何を言うかと、いまいましい思いで、そのコメントを見たことを記憶しているが、いうまでもなく、ユダヤ人の少年を担いで川だか沼だかを歩いていくジョン・マルコヴィッチの姿は、聖クリストフォロスそのものである。

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Wikipedia(「クリストフォロス」)からの引用すると、聖クリストフォロスとは、

クリストフォロス(Χριστόφορος, 原意はギリシア語のキリストを背負うもの)は、三世紀のローマ皇帝デキウスの時代に殉教したとされるキリスト教の伝説的な聖人。正教会非カルケドン派カトリック教会・聖公会ルーテル教会で聖人とみなされている。カトリック教会では旅行者の守護聖人とされる。伝統的に7月25日がクリストフォロスの祝日とされてきたが、現在のカトリック教会の聖人暦から「史実性に乏しい」として除外されてはいる。日本正教会では「聖致命者ハリストフォル」と表記される。

であり、最も有名な逸話として

伝承ではクリストフォロスはもともとレプロブスという名前のローマ人であったという。彼はキリスト教に改宗し、イエス・キリストに使えることを決意したとされる。(別の伝承ではカナン出身のオフェロスという名前であったとも伝えられる。)彼は隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親密に使える方法を問うた。隠者は人々に奉仕することがその道であるといい、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案した。レプロブスはこれを聞き入れ、川をわたろうとする人々に無償で尽くし始めた。


ある日、小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言った。彼があまりに小さかったのでお安い御用と引き受けたレプロブスだったが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり、レプロブスは倒れんばかりになった。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前をたずねた。男の子は自らがイエス・キリストであると明かした。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのである。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じた。

とある。


私が始めて、この聖クリストフォロス伝承を知ったのは、ロマン・ロランの小説『ジャン・クリストフ』である。ジャン・クリストフとクリストフォロス――「冗談かい」と言われそうだが、そうではない。いま本が手元にないのだが、片山敏彦訳で中学生の頃に読んだそれは、たしかエピグラフかなにかで聖クリストフォロス(聖クリストフと表記されていたような)について触れていただけでなく、死を間近にした主人公が、みずから聖クリストフォロスになった幻覚をみるところがあった(記憶違いかもしれないが)。それ以来、幼子としてのキリストを背負って川を渡るクリストフォロスの姿は、私にとって身近なものとなった。残念ながら英米文学でそれに出会った記憶はないのだが、映画『魔王』(原作でもそうだろうが)では、その姿を見たとき、ああと感嘆の声が漏れそうになった。


『ザ・バンク』 (2009)と映画『魔王』とをつないだのは、トム・クルーズ=シュタウヘンベルク(もしくは暗殺未遂事件と関連する)的役どころであったアーミン・ミュラー=スタールの存在だったが、いまにして思うと、『ザ・バンク』の主役クライヴ・オーウェンもまた、彼のもうひとつの主演映画『トゥモロー・ワールド』(Children of Men, 2006)を通して『魔王』に、そして聖クリストフォロスに繋がっていた。


子供が生まれなくなった近未来に奇跡的に生まれた赤ん坊を守り、最後に、自分の命と引き換えに、その子(黒人の女性が産んだ子供)の生存を確保する白人男性であるオーウェンの運命を描いた『トゥモロー・ワールド』は、このブログでも以前書いたことがあるのだが、人間のある種の普遍的な運命とも連動していた。たとえば映画『プライベート・ライアン』では、一人の兵士を生きて帰還させるために、死んでゆく兵士たち――たとえその小隊は全滅ではないとしても――が、描かれたたが、当時、その映画を見た私にとっては、子供はこうして生かされていくのだという思いが強く残った。子供はみんなプライベート・ライアンである。その子を生かすために、親あるいは親の世代は交換貨幣として命を捨てる(たしか映画のなかで死ぬトム・ハンクスの最後の台詞も、命の交換のテーマと連動していた)。そして私自身、自分も、こうして生かされてきたのだと、親が死んだときに、あらためて感じていた。


プライベート・ライアン』では、生き残り初老を迎えたライアンが、家族を連れて、墓参りするところから始まる。自分を助けるために死んでいった少尉(トム・ハンクス)の墓にやってきたのである。映画は、最後に、この墓前に戻る。兵士たちに生かされ、兵士たちの命と引き換えに生き残ったライアンが、はたして自分は、これまでりっぱに生きてきたのだろうかと、墓前で泣き崩れるところがあるが、その思いこそが、倫理の誕生の瞬間だと私は思っている。自分は、死者に生かされてきた。その死者に自分の人生を恥ずかしくないものとして報告できるのだろうか。地位とか名誉とか財産といったもの、そんなこの世の虚飾は、死者には何の意味もない。むしろそんなものを自慢に思うことは、死者への冒涜だろう。それが死者に申し開きできる、りっぱに生きてきたことの意味ではないだろう。自分の人生は、自分を生かしてくれた死者を満足させるにふさわしい人生だったのか。その基準となるのは、地位とか名誉とか財産ではなく、まさにりっぱに生きてきたか、つまり「正義」である。正義を全うしたかどうかが、死者に対して、私ができる唯一の恩返しなのである。


残念ながら、私たちの人生は、死者が求める正義を全うすることはない。どれほど正義を重んじようとも限界がある。死者の死に報いることは永遠にできないかもしれない。だが最後の手段が残されている。私たちは自分の命と引き換えに子供を、あるいは子供の世代の人間を生かすのである。それによって私たちは、私たちを生かしてくれた死者への恩に報いることができる。『プライベート・ライアン』を見た頃は、親が死んだ直後だったので、子供の立場から考えていたが、『グラン・トリノ』では、親の立場から考えるようになった。べつに私には子供はいないが、どうしたら子供たちを生かして死ねるかを考えるようになった。



だが『グラン・トリノ』は、もう少し歴史特殊的である。つまり親と子(あるいはそれに照応する人間)とが、いかに互いを生かし、そして親が子のためにいかに死ねるかというテーマだけでなく、まさに聖クリストフォロスの伝説を――『魔王』経由で――彷彿とさせるものがある。『魔王』では、第二次世界大戦におけるドイツ人のみならず、ヨーロッパ人全体が、大量虐殺されたユダヤ人に対して負っている罪の意識を、ユダヤ人の少年を戦火から、おそらくみずからの命を犠牲にして助けるという、フランス人ナチス協力者の行動を通して、浮き彫りにすると同時に、罪状消滅への不可能な願望をにじませていた。


同じように『グラン・トリノ』でもクリント・イーウッドが少年を助けようとするのは、少年の属するモン族(ミャオ族といったほうが、馴染み深いのだが、これは差別的な呼称であることが、映画(とはいえ差別用語満載の映画だが)からもわかるので避けるが)がベトナム戦争のときに、米軍に協力したからではない(米軍に強力したために、ベトナム戦争終結後は、迫害される運命にあったため、米国に移民として逃れてきたということだが)。いや、それもあるのだろうが、第一義的には、少年が、朝鮮戦争時に従軍した主人公が、虐殺してきたアジア人の代表であったからだ。また軍人であり、虐殺者であること、それがまたアメリカのマッチョ文化と骨がらみなっていることで、みずからの汚れを痛切に意識した老人が、その汚れゆえに聖なる存在として昇天してゆくとでもいえようか。


老人にとって、モン族の少年は、肩に重くのしかかる幼子のイエスなのである。重くのしかかるイエスとしての少年を背負って、彼を助けるために命を捨てる聖クリストフォロス。とりかえしのつかない罪を背負った人間にとって、最後の、救済の可能性。聖クリストフォロス物語は、いまもなお、語り継がれるべき使命を担っているように思えるのである。