人間の運命1


授業でロシア・フォルマリズムの解説をした。これまで授業では、通年で批評理論を概観してきたのだが、最近の傾向で、半期になった。そうなると、もったいないがモットーの私は通年でやっていたことを、可能な限り半期に詰め込むという無謀なことをしていたので、逆に、ここ数年は、盛りだくさんすぎる内容を一回の授業にもりこむので、話すほうもたいへんで、学生もまたたいへんだったにちがいない。


今年は通年にもどした。ただ、これまで1回で話していたことを2回で話すので、時間があまりがちになった。また半期のときも、だんだん慣れてきて、早く話が終わってしまうことにもなったので、時間がたくさんあるとネタがつき始める。


そこでいろいろな材料を補足するのだが、今日は、突然、思いついた話をして、話がうまくまとまらなくなった。ここで、その話をしても、まとめる自信はないのだが……


ロシア・フォルマリズムトロツキーなどから批判されはじめ、シクロフスキーが総括・反省論文を書かされるようになったころ、そのころ『人間』という雑誌に、若き天才作家が長編小説を連載しはじめる。やがてそれは大長編小説へと発展するのだが、その雑誌は、フォルマリズムとは対極にある保守系リアリズムの雑誌。いっぽうフォルマリズムはというとモスクワとペテルブルグではじまり、前衛的芸術運動とも連動したアカデミックな運動であり集団だった。この点でもこの天才作家は、フォルマリストたちの対極にあった。なにしろ出身はウクライナの農民か商人の出だったからだ。


その作家はショーロホフ、作品は『静かなるドン』。『静かなるドン』というとヤクザ小説かヤクザ映画かと思うかもしれないが、これはソ連の有名な長編小説で、昔は、書店の棚に、必ず並んでいた(文庫本にして数冊)。だから実際に読んでいなくても、タイトルはみんな知っていた。新田たつおが、親が死んで、無理やり親分を継がされた若いデザイナーの二重生活を中心とした漫画作品に『静かなるドン』とタイトルをつけた頃は、もう本家の小説も書店から消えていた頃だったが、そのタイトルは文化記憶として受け継がれていたように思う。『静かなるドン』のドンは、やくざの親分ではなく、ウクライナを流れる大河のこと。静かなるは、そのドン河の枕詞らしい。


で主人公は、ウクライナのドン・コサック。コサックとはなにかといわれてうまく説明できないのだが、ロシアの作家ゴーゴリの短編に「隊長ブーリバ」Taras Bulbaというのがあって、私は子供のころ、これを子供向けにリライトしたものを読んだことがあるし、またアメリカ映画にもなった(主役はユル・ブリンナー)。とはいえコサックたちは、どういう敵と、なぜ戦うのかはよくわからなかったのだが、私のうろおぼえでは、捕えられたブーリバは、いままさに処刑され死ぬ寸前、部下たちに馬で断崖絶壁から河に降りて脱出することを命じて、仲間を救うというような名場面もあった(記憶ちがいかもしれないが)。


でショーロホフの『静かなるドン』。私は中学生の頃、読んだ記憶がある。それはまちがいないが、内容は忘れてしまった。覚えていること、主人公は若いドン・コサック。第一次世界大戦に参加する。このとき驚いたのはコサック騎兵たちがみんな槍をもって突撃するのである。機関銃と大砲と戦車と飛行機の時代に、馬に槍? 日本の戦国時代か? と違和感にとらわれたことがある。その違和感は、のちにペキンパーの映画『ダンディー少佐』を見るまで消えることはなかった。ペキンパーのこの映画、南北戦争時代という設定で、北軍の騎兵隊の隊長(チャールトン・ヘストンが演じていた)が、南軍の捕虜を連れて、メキシコ領内に入るという困難な任務を遂行するのだが、最後に、アメリカに戻るとき、国境の川でメキシコにいるフランス軍との戦闘に入る。北軍の騎兵はライフルと拳銃で武装しているが、フランス軍の騎馬兵は全員、長い槍をもっている。川での大混戦シーンとなると、銃よりも槍のほうが効果があって、槍の威力、おそるべしという印象をもった。


『静かなるドン』へ。もちろん、第一次世界大戦の途中で、ロシア革命がおこる。停戦し、主人公たちはウクライナへと戻る。そして、どうなるかというと主人公は、反革命軍である白軍(白衛軍ともいうが)に身を投じ、ロシア各地を転戦する(正確にいえば帝政に反感をもっていた主人公は、革命に全面的に反対ではないが、同時に革命政権のやり方にも反感をもち、白軍から赤軍にも行くがまた白軍にもどったりする)。もちろん時代の趨勢はソヴィエト政権の確立へと流れてゆき、主人公は、すべてを失って、最後に、生まれ故郷の村へ帰ってくる。主人公の運命の極まりとともに、この大長編小説は終わる。


物語は面白いから、いま読んでもじゅうぶんに楽しめるはず。当時、中学生だった私でも、このノーベル賞をもらったロシアの社会主義リアリズムの作家の作品が、反革命軍に身を投じた主人公を描いているというのはすごいなと思った。敵の目を通してロシア革命とソヴィエト政権を描いているのであるから。この敵の目を通して、ロシア革命を描くというのは、案外、ロシア・フォルマリズムのいう「異化」に近いのではないかと思ったりしたし、敵の目から描くことに、どういうイデオロギー的意味があるのか、1990年代くらいまでけっこう真剣に考えていた。


ただショーロホフがやろうとしたのは、もっと単純なことだったと、あとでわかった。ショーロホフ、革命政権、嫌いだったのである。あるいは憎んでいたのである。ソ連が崩壊してロシアとウクライナが分かれたように、ウクライナはロシアの一地方ではなく、別の国であったのだ。ロシア革命後のウクライナは、ソヴィエト政権樹立のため、ロシア側からかなりひどい目にあった。ウクライナの村々ではロシアの共産党員による弾圧が続いた(ショーロホフの次の長編『開かれた処女地』は、ソ連の農業政策に沿った物語展開で、面白みがないとえばそれまでだが、そこでも共産党の指導に反対するウクライナの農民反乱が描かれている)。このところを赤裸々に描いているので、連載中の『静かなるドン』は発禁処分にあったか、その部分が削除された。そして連載の継続すらあやしくなった。


そこでショーロホフは、ゴーリキーの口ききで、スターリンに会い直談判することになった。スターリンとショーロホフの間で何が話あわれたのかはわからないが、この会談以後、連載は、継続された(どこからこの知識をもってきたのかと疑問に思われるかもしれないが、比較的新しい英訳版のイントロダクションから)。


このことはロシア・フォルマリズムの運命とも関係する。すでに述べたように、ロシア・フォルマリズムの理論は、革新的あるいは革命的ともいえる斬新さがあり、またそれは当時の前衛芸術運動とも容易に連携しうるほどの先進性をもっていた。都会的で、洗練されていて、アカデミックで、革新的。そして反リアリズム。これは、社会主義リアリズムをとるべき芸術の方向と考えていたソ連上層部にまっこうから反対する潮流であった。ロシア・フォルマリズムが、批判され抑圧され歴史から消えてゆくのは時間の問題であった。これに対し、ウクライナ出身で、ロシアの社会主義政権には、ふくむとこがあるようだが、しかし、書いている小説は、第一次大戦から革命、その後の内戦時代を描くリアリズム小説で、こうした作品こそが、一般人民にもわかりやすく親しみ深く、そのぶんイデオロギー装置となりうると判断したのだろう。


革命的なものは、革命後の革命政権維持と保守化のなかで、排除されるしかなかった。最初に、フォルマリズムを批判してたトロツキーが排除された。そしてフォルマリズムもまた、雪解けから、フランス構造主義の誕生の頃まで、歴史から消えていく運命にあったのだ。


なお誤解のないように言っておくと、『静かなるドン』は結局、ソ連プロパガンダかと思われては困る。この作品から、単純なプロパガンダ性を読み取るのは不可能である――ただし、洋の東西、社会主義・資本主義、どんな作品でもプロパガンダなので、程度の差だといえばそれまでなのだが。(つづく)