State of Play(映画編1)

消されたヘッドライン』というタイトルの映画を見る。原題はState of Play(2009)。ただし映画をみる限り、ヘッドライン、消されていなのだけれど。


本日、帰りに映画を見た。新型インフルエンザのため映画館から遠のいていたので、久しぶりである。特に予定はなかったので、こういうときには、普段見れない、怖い映画を見るのだが、近くのシネコンでは特に怖い映画はなくて、また時間帯の問題もあるから、選択肢は「スタート・トレック」と「消されたヘッドライン」にしぼられた。「スタートレック」は今日は初日なので人が多いかもしれない(久しぶりの映画館なので、人込みは怖い)。また今日が金曜日ではなく、土曜日だと思い込んでいるので、観客が少ないのも気になったのだが、あとで考えれば、今日は雨の金曜日の夜なのである。


観客は少なくて助かったが、上映間際に、母親と女の子(3歳か4歳くらいか)の親子連れが入ってきて、私の前の席に並んで座った。え、こんな女の子が、こんな夜に、こんなアメリカの政治的サスペンス映画を見るのか。母親は上映の部屋をまちがったのではないかと心配になったが、そうではないらしい。母親がみたい映画に子供が付き合わされているのか。まあ事情はいろいろあるのだろう。しかし、次の瞬間、あることに気づいた。ふたりともマスクをしている。最近は、新型インフルエンザに対する危機感がずいぶん薄れ、マスクをしている人は少ない。となると、これは防衛用のマスクではなくて、病人が迷惑をかけないマスクではないか。え、やばい。これだと絶対にうつる。そもそも病人が映画館に来るな。あるいは過剰に防衛しているだけなのか。う〜ん、これで私の命運もつきるのか。


ケヴィン・マクドナルドの映画は毎年見ていて(『ラスト・キング・オブ・スコットランド』(2007)『敵こそ我が友−−クラウス・バルビーの三つの人生』(2008))、今年もまたというところだが、映画はNHK衛星放送で放映されていたBBCのテレビドラマState of Playのリメイク。全6回のミニシリーズをリメイクして、2時間ちょっとの映画にした。もともとはイギリスを舞台にした話で、この映画でも、英語もThank YouといわれてPleasureと言ったり、オイOiといって人を呼んだりして、けっこうブリティッシュしている。


ただ多くの映画評にすでにあるように、結末が物足らない。たぶん原作では企業の犯罪が確定したあと、付録のように、あるいは最後の驚きとして、もう一波乱あるのではないかと思うが(実際には見ていないで、あくまでも憶測である)、映画のほうは、企業の犯罪が暴かれないで(最後のエンドクレジットにおける新聞紙面では企業が告発されたことがわかるのだが)、いきなり最後のサプライズに行くので、いままでのあれはなんだったのかという印象が強い。


しかも企業も悪いけれども個人も悪いというのは、結局、プラマイ・ゼロで、現状維持ではないのだろうか。いや、映画の本編では、プラマイゼロどころか企業のことは棚上げされてしまうのだから、むしろ不満すら残る。


実は、この映画を見ながら、日本英文学会の腐りきった執行部をこれからどうやって攻撃してやろうか、というか、この映画を見ながら、腐りきった執行部を放置することは、許されない、とことん追求すべきだという思いがわいてきた。


そういうわけで公明正大さを求めるのが私の人生の最終目標であって、不正と矛盾を絶対に許さない反権力を貫くべきだ、たとえ、Watch your backといわれようとも。しかし、映画のあの結末は、ちょっと萎えた。萎えたけれども、あの結末から、別の怒りがわいてきた。すべてを個人のせいにしようとするイデオロギー操作である。この件についてはさらに、State of Play(英文学会編)で続ける。