ミーム

(On Lost Cause 1)

先月の終わりにみた映画『消されたヘッドライン』(映画を見る限り、ヘッドライン、消されていません)――この映画を見ながら、日本英文学会の腐りきった執行部をこれからどうやって攻撃してやろうか、というか、この映画を見ながら、腐りきった執行部を放置することは、許されない、とことん追求すべきだという思いがわいてきた。


ちなみに、私の父は会社のやり方を批判して、窓際族になって、定年まで不遇な会社生活を送った。若い頃は会社でも相当なやり手だったようだが、定年の頃は、まったく失意の生活だった。負け犬なのだが、正義を貫いて負け犬になったのだから、私としては、むしろ尊敬している。


父は、いうなれば鬼軍曹のような人間で、実際、私の子供の頃の父は、家に帰っても電話で部下を怒鳴りつけていて、子供心にも、怖いやっちゃと思っていたし、母は、そんな父を、帰宅してから電話までして怒るとはやりすぎだと、いつも非難していた。高校生の頃、私と父は学校と職場が同じ方向だったので、朝、一緒に出かけたことがあったが、あるとき、乗っていた地下鉄が事故のため、駅のホームに停車したまま動かなくなったことがあった。ものすごく混んでいる地下鉄ではなかったし、まあ少し待っていれば開通するだろうくらいの気持ちでのんびり待っていたが、ホームでは、駅員に詰め寄って事情を聞いている乗客も何人かいた。それを見ていた父は、やおらホームに降り立つと、数人の乗客に囲まれ、事情を説明している駅員に、つかつかと歩み寄って、大声でいいかげんにせいと駅員を怒鳴った。もちろん私は、いま駅員をどなりつけた小柄な男と自分は無関係だというふりを必死でしていたのだが。まあ、それから私はなんだかんだと口実をつけて、父といっしょに朝出かけなくなった。


私は、父とは正反対の人間で、たとえば学生や人を怒鳴ったりしたことはこれまで一度もないし、これからもないだろう。そもそも人を怒鳴ったことなどない。ともかく会社でも帰宅してからでも、鬼軍曹のような父は、会社やり方を批判して上司と対立した。父にしてみれば、方法論とか合理性の問題ではなく、責任論とか筋論のところで、許せなかったことがあったようだ。その点をついて上司をやりこめた。まあ、父のような鬼軍曹に徹底的に批判された上司は相当根に持ったであろうことは予想される。運悪く、その上司(当時の支店長)が、やがて社長になったのだから、父親に未来はなかった。


もっとも父の会社が法律を犯すような不正をしたから、内部告発したというような大胆なことではなく、ある意味では、些細なことだったかもしれないが、筋の通らないことを、父は絶対に許さなかった。そして課長どまりで、出世できなかった。定年間近の頃は、支店長代理という完全に閑職の窓際族で、会社もよく休んでいた。会社の、たとえささいなことでも、「不正」を指摘して、受け入れられず、負け犬になったのだが悪と戦い、不正をただすかぎり、勝とうが負けようが、それは尊敬に値することである。逆に不正を擁護したり、不正を放置したり容認した場合、それに成功しても失敗しても、人間の屑である


私と父は、性格も違うし、趣味も違い、そんなに似ていないので、接点というようなものがないのだが、不正を憎み、不正と戦うということにおいて、私は父との接点に到達することができる。不正を暴くことには、けっこう血が騒ぐ。


とはいえ、残念なことに、父は、政治的には保守で、自民党支持者だった。だから社会的・政治的不正には、あまり関心がなかったため、というよりも自民党と見解が同じだった、つまり保守的であったため、テリー・イーグルトンの父親――イーグルトンの父親は、実際、地方政治の場で、政治的・社会的不正を告発しようとした――とは違い残念だ(イーグルトンの父親情報は、イーグルトンの新著より)。


付記:私はよく、頭のよい金持ちは革新系左翼に、頭の悪い金持ちは保守系右翼に、頭のよい貧乏人は保守系右翼に、頭の悪い貧乏人は革新系左翼になると語るのだが、保守系右翼になる頭のよい貧乏人のモデルは、私の父親である。私は頭の悪い貧乏人である。英文学学会は、頭の悪い金持ちと頭のよい貧乏人がほとんどだから、みんなというかほとんどの会員が保守系である。