朗読者1


イギリスで成人教育週間というのがあったが、それはカルチャーセンターへの誘いを偽装したものにすぎないのだろうと、さして気にもとめなかったのだが、イギリスでテレビをぼんやりみていたら、成人教育というのが、私たち日本人が考えているものとは違うことがわかった。


その成人教育週間には、テレビで関連したドラマをやっていた。アメリカのテレビドラマで、主役は、当時、日本でも人気があったデニス・ウィーヴァーDenis Weaver。彼が主役のドラマはNHKでも放送された――『警部マクロード』。あるいはスピルヴァーグ監督の初期の傑作『激突』にも主演しているというとわかるだろうか。


物語は彼が工場長だか班長を勤める工場が、会社の都合で閉鎖されるところから始まる。回顧される従業員でも、コンピュータの研修を受ければ、新しい職場が約束されていた。従業員たちは、しぶしぶコンピュータを使う職場に配置換えになるのだが、工場長だけはそれを潔しとせず、会社を辞める。もとの従業員たちは、その姿勢を高く評価するのだった。


しかし彼がコンピュータの講習を受けることなく会社を辞めたのは理由があった。それは彼は字が読めなかったのだ。工場長までやっている人間が字が読めない! 驚くべきことである。ドラマは、そんな字が読めない彼の緊張に満ちた日常を描いてゆく。たとえば職業安定所のようなところに行くと、ガラスドアに張り紙あって、このドアは壊れているから右手の通用口から入ってくれと注意書きがある。テレビを見ていたわたしは、その張り紙の英語は簡単に理解できた。ところがデニス・ウィーヴァーは、そのドアに近づくと、開かないのでどんどんと叩くのである。一瞬、驚いたたが、そうか、彼は字が読めないからべつのドアから入るという指示が理解できないのだ。


このあたりから、ドラマをみている私は、完全に上から目線で見ることになった。イギリスでは下手な英語を話し、よくわからない周囲の英語を聞き分けなければいけなくて、常に緊張しているのだが、文字は読める。少なくとも、そのドラマのネイティヴアメリカ人が理解できない文字が、私には理解できるのだから。そしてこの上から目線の優越感に心地よく浸りながらドラマを見ることになった。


職業安定上ではガラスドアを叩くデニス・ウィーヴァーに対して、職員が、この張り紙が見えないのか、あっちのドアから入ってくださいと、かなりむっとして話しかけてくる。字が読めないことから生ずるトラブルはほかにもある。たとえばこのお父さん、子供たち(もう成人しているのだが)の希望もあって、シーフードの高級レストランで家族そろって食事をすることになる。しかしメニューが読めないお父さんは、ハンバーガーでいいという。ここにはそんなものはないという子供たちの非難の声にもめげずにハンバーガーを押し通すお父さんは、その頑固ぶりがけっこう好感をもってむかえられているのだが、そのレストランでトイレにいったお父さん、どちらに入っていいかわからない。そのしゃれたレストランでは、トイレの入り口に「セイラー」と「マーメイド」と書いてあって、通常のシンボルを使っていない。それでお父さん、どちらへ入っていいかわからないのである。まあこのお父さん、トイレの横で待っていて、男女がどちらに入ったかを見極めて入るのだが、そこでもひと悶着ある。このお父さん、男っぽい体格の男性的服装をした女性を、男性と勘違いして、女性用トイレに入ってしまったからである。


このお父さん、トラック運転手の職を見つけて、仕事を始めるのだが、初日に、交通事故に巻き込まれてしまう。事故を目撃することになった彼は、公衆電話から救急車を呼ぼうとするのだが、場所がよくわからない。オペレーターも、なにか周囲に手がかりのあるものはありませんかと聞いてくる。お父さんの眼に代わってカメラが360度回転する。すると通りの名前とか地名とか店の名前とか、手がかりになる文字は氾濫している。視聴者には、それがわかる。しかしこのお父さん、字が読めないのである。思い余って、お父さんはオペレーターにほんとうのことを言う。私は字が読めないのだ、と。


この事件があってから、彼は文字を読めるように勉強することになった。黒人のボランティアの青年に週に一度、ダイナーで、文字を習うのである。ところがある日、かつての工場の従業員たちの一団が、そのダイナーに入ってくる。そこで元工場長を見つけ、皆なつかしがって集まってくる。旧交を温めるお父さんだが、このお父さんが、黒人の青年と同じテーブルに座っていることにかつての従業員たちが気づきはじめると、人種差別の激しい町でもあるらしく、いったい何事かと緊張が走る。するとお父さん、機転をきかせて、「いやあ、この青年は字が読めないものだから、私がこうして週に一回、ボランティアで字を教えてやっているのさ」とテーブルの上にあった英語の教科書を示して話すと、そこで一挙に緊張感がほぐれる。もとの従業員たちも、その黒人の青年に、おやじさんはいい人だから、おやじさんについてしっかり勉強するだぞと言い放って、にこやかにダイナーを出てゆく。


もちろんお父さんはその黒人の青年に平謝りするのだが、最初はむっとしていた青年も、まあお父さんを許してくれる。これはたぶん、字が読めない人たちの実際の経験に基づいてシナリオを作っているのだろうけど、面白い。よく出来たシナリオだとほんとうに感心した。


またそのドラマのなかで黒人の青年が、自分は新聞が読めるようになるまで5年か10年かかった(正確には覚えていないのだが、たぶん10年だった)と言っているのを聞いて驚きまた嬉しくなった。黒人の青年は英語のネイティヴである。毎日英語を使い、毎日英語に接していて、それでも英語の新聞が読めるようになるのに長い時間がかかる。日本人が中学から英語を習っていても、新聞すら読めないと英語教育が批判されるのだが、読めなくて当然である。いかに読むことは難しいか。時間がかかるか、英語教育批判者は思い知るべきだと、そう思った。


結局、お父さん、子供たちにも、字が読めないことがばれる日が来る。子供たちは驚愕する。だって、お父さん、毎朝、新聞を読んでいたじゃない。いや、あれは読むふりをしていただけだ、と。え、お父さん、高校を卒業しているのでしょう。字が読めなくて、どうして高校を卒業できたの? みんなお母さん(妻)が助けてくれたんだ、と。


実は成人週間では、字が読めない人が出演するテレビ番組もあって、そのなかで、いままでどうしていたのか。またどうして高校を卒業できたのか(字が読めなくても高校卒業者は多いらしい)という質問に対して、ガールフレンドが助けてくれた、友達が身代わり受験してくれたなどという話がかえってくる。結局、援助者が現れて、切り抜けてきたのだ。後に妻になる高校の同級生の女性が、字が読めない生徒を助けてくれたというのは、かなり現実味があることのようだ。


こうした子供たちの驚きと軽蔑に直面し、裸の自分をさらすしかなくなったお父さんは、それでも家族に支えられながら、少しずつ字が読めるようになる。ラストシーン。何も知らない小さな女の子、そのお父さんの可愛い孫娘なのだが、おじいちゃんに絵本を読んで欲しいと本をもってくる。これまでは邪険にはねつけていた彼も、孫娘を膝において、絵本を読んでやる。絵本の英語だから単純なのだが、それでも彼にはたどたどしく読むことしかできない。デニス・ウィーヴァーの顔に浮かぶのは、喜びでもなければ、悲しいでもない、また満足感でもない、泣き笑いでもない、そのなんとも複雑な表情は、必死に文字を読んでいる時の表情なのだ。ストップモーション。そこでドラマは終わる。私の知らない世界がそこにあったし、最後には上から目線もなくなり、かなり感銘を受けることになった。


私はこのドラマを見ていたから、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を翻訳で読んだ時、主人公よりもずっと早く、この女性は字が読めないのだということがわかった。彼女の言動には、字が読めない人間の行動パタンが明確に見て取れたからである。(つづく)