わたしを離さないで

臓器移植については、6月18日の脳死を人の死とする法案の可決(ただし衆議院のみ)については、賛成もあれば反対もある。臓器移植が受けられなくて子供を死なせた夫婦が国会の審議を傍聴していたが、彼らの行動は自発的なものか、政治的に利用されたものか、政治的に利用するものか、明かされることはないだろうが、臓器移植については、人間の命に関わる問題で、有無を言わせぬところがあるので、そこに政治的なもの金銭的なものがチェックされることなく入りこみやすい。


私は臓器移植に反対である。私は歳を取りすぎているので、私の臓器が移植されることはないだろうし、そもそも私の腐れ臓器など移植の対象とはならないのだが、臓器移植に反対するのは、人間の命を重んずるからである。その逆ではない。


今回は心臓死ではなく脳死を人の死と判定しようとしてるわけだが、臓器移植をいつするかについては、今後も、前倒しは進むだろう。つまり死体から臓器を移植しても、意味はない。死んだ直後の臓器を移植するのがいいということだが、この論理からつきつめゆくと臓器は生きている肉体から取り出すのが一番なのである。


したがって臓器移植に反対なのは、たとえば怪我で病院に入院しても、治療をすれば助かる可能性があるところ、すぐに放置され脳死と判定され臓器移植にまわされる可能性が出てくるからだ。いや、基本的にそうなってしまう。あるいは親が自分の子供の臓器をブローカーに売ったり、これほど格差が進み、貧困層が増えている現状では、自分で自分の臓器を売る人間が出てきても不思議ではない。この場合、幼児虐待であれ、自業自得であれ、どちらも臓器移植に関わる人間を富ませることになるため、人間の命、いや臓器の市場化は、すでに第三世界では生じているのだが、日本でもいよいよ本格化することになる。


繰り返すと、怪我で入院した人に対しても、命を救うために最善の努力をして欲しいと思うのだが、臓器移植がこのまま進むと、怪我人は、臓器移植用の宝の山としか見られなくなり、怪我をしたら最後、あとは臓器移植されるしかなくなってしまうのだ。


もとより、すでに述べたように、最も良い臓器移植は、生きている人間から臓器を取ることである*1。もはや怪我人だけではない。健康な人間もまた臓器移植用の材料としみられてしまうだろうし、だったら通常人が臓器移植の脅威にさらされる前に、臓器移植用の人間を飼育しておいたほうがいいということにもなるだろう*2


いやそれでも、たとえいま健康で生きていても、自分の臓器で自分の子供が、あるいは他人が救えるなら自分は死んでもいいと思う善意の人は多いだろう。自己犠牲というのは、人間にとって最も美しい行為である。問題は、そうした善意の人の美しい自己犠牲を利用して金儲けする醜い業者がいることだ。悪魔が人間の善意を利用して富むのである。悪魔を許してはならない。


付記:悪魔の集団日本臓器学会(医師が悪魔だというのではない。推進派が悪魔だというのだ)は、アメリカに渡っての臓器移植手術費用と、日本で臓器移植手術が簡単に行えるようになったときの費用とを比べた資料を作っている。それによると、アメリカで手術を受けた場合は1億くらい。日本では150万程度とのこと。この差はどこからくるかというと、アメリカへの渡航費用ならびに滞在費が加わるからであり、日本では保険が適用されるからとのこと。馬脚をあらわすとはこのことである。悪魔のひずめが見えるぞ。渡航費・滞在費を差し引いても1億円近い差が埋まるはずはない。日本とアメリカでの手術費用に、そこまでの格差があるとは思えない。つまり日本では高額な手術費用を保険でまかなうから安くなるのである。ということは移植手術は、ものすごく金がかかる。儲かるのである。日本での患者負担は少ない。ドナーは自己犠牲願望がかなう。そして医療機関は保険からどんどんお金が下りるため儲かる。私が悪魔だったら……。

*1:モンティ・パイソン・グループによる映画『人生の意味』では近未来の話として、ある日、医療チームが突如、一般人の家を訪問し、「あなたはドナーに登録しているから」といって、生きた人間から、麻酔もかけず臓器を取り出すコントがあったことを覚えておいでだろうか。そのスプラッター・コントでは、さすがにもろに映像は出さず、飛び散る血と、断末魔の絶叫で、生体からの臓器摘出を演出していた。そもそも笑えないブラック・ユーモア的ファンタジーだが、いまやそれはファンタジーではなくなろうとしている。

*2:この項のタイトルになっているカズオ・イシグロの小説参照。