ウィカーマン

西川美和監督の『ディア・ドクター』は予想通りのすばらしい映画で、2時間を越える映画だったが、最後まで心地よい緊張感のなか見ることができた。もちろん予想外のこともあった。鶴瓶は、人当たりもよく人がよさそうな風貌のなのかに、冷笑的な詐欺師的な要素を隠し持つ狡猾な人物というイメージ、あるいは好人物だが調子に乗りすぎて下半身をさらけ出すような暴走すると泊まらなくなるという、ある種の危険性を秘めた人物というこれまでのイメージというか現在も続いているイメージ*1は、今回の映画にはなかった。


実際のところ予告編だけで、偽医者の話だとわかったので、その名医ぶり(偽医者はたいてい名医として評判が高い)を堪能しようと思ったら、すでに周囲では、とりわけ余貴美子扮する看護師は、偽医者であることを見抜いているふしもあり、また薬品会社のセールスマン香川照之も、偽医者であることを知っているのであって、映画は、むしろ、いたましいまでに偽医者であることに悩む鶴瓶の姿をみせつける。


では、なにが面白いかと言えば、医師免許を持っていない人物を、名医にする共同体のありよう、周囲の環境の力である。人の命の綱を自分の手に握っているという緊張と快感こそ、人を医師にならんと駆り立てるものだ。だが、実は、そのような生死を決定権を握る存在は、共同体によって要請され創造されたともいえる。映画のなかで何度も登場するディープフォーカスの見事な山村の映像。それはまたこの山村(整然とした農耕地を含む)そのものが生命をもって、人間を育み、創造する存在であるかのようにみえる*2


典型的なのが、最初のほうの場面で、老人が寿司を食べていたら、急に苦しみだして、 意識がなくなっている。鶴瓶が往診に出かけ、ぐったりとして寝ている男性の老人の様子を見たあと、いよいよ研修医の瑛太が挿管するというと、鶴瓶は集まった家族や親戚の者たちの様子さらには看護師の表情をうかがいはじめる。言葉には出さないが、どうやら周囲はこの高齢の老人がこのまま死んでくれたらいいと思っているふしがある。介護で疲労困憊しているらしい農家の嫁が、いちばん老人の死を望んでいるようにも思う。その気配を察した鶴瓶は、瑛太に処置をやめさせ、臨終として扱うことにする。葬式の話を始める者もいる。鶴瓶は、最後の別れに、老人をだきかかえ、よく頑張ったねと死者をなぐさめるつもりで背中を優しく叩くとと、その瞬間、老人の喉につかえていた寿司が飛び出てきて、老人は息を吹き返す。集まった者たちは、そこで、鶴瓶を名医として褒め称える。


この悲喜劇。ここからわかるように鶴瓶は名医ではない。そして周囲から名医ともてはやされる瞬間こそ、鶴瓶にとって敗北の瞬間であり、村を出て行きたくなる衝動が抑えきれなくなりそうな瞬間なのである。彼は偽医者として辣腕をふるい、周囲の者から尊敬され崇拝され、王として神として君臨するのではなく、むしろ共同幻想の産物として、周囲から操られているにすぎない。偽医者という主体的犯罪者にみえたものが、実は、村という共同体こそが主体で、彼らが名医を幻想として産出したのである。あるいは鶴瓶は、彼らの名医幻想を引き受けることになった哀れな道化にすぎないのである。


このことは、鶴瓶が村から逃げ出したのは、偽医者であることがバレルからと思って映画を見ていたわたしたちの予想が裏切られることからもわかる。彼が逃げ出したのは八千草薫の嘘についていけない、あるいはその死を引き受けるしかなくなるからであって、偽医者であることがばれのそうになったからではない――実は、そんなことはとっくにばれているのである。いやもっと正確にいえば、彼は偽でもなく、ただのゼロあるじはサイファーである。だからこそ、共同幻想の引き受けてに、あるいは共同幻想の投影先として最適だったのある。


私は読んだことがないのだが、たとえば渡辺淳一の「雲の階段」という偽医者物は、偽医者だが腕は確かで周囲からの信頼されているという設定らしいのだが、この設定は、偽医者物では典型であるらしい。まあ手塚治虫のブラック・ジャックが典型だともいえようか。天才医師だが、医師免許を剥奪されているから治療を行えば偽医者である――ブラック・ジャックは。しかしこの映画で鶴瓶扮する医者は、実体なき、シニフィエなき、シニフィアン、つまり偽医者であって、たしかな腕など存在しない。彼が名医になっているのは、自らの力ではなく、周囲の共同幻想ゆえである。あるいは構造的に名医になっているのであって、主体的に名医になっているのではない――ブラック・ジャックではないのだ。実際、名医である鶴瓶と、若き研修医の瑛太のペアは、さながら現代に蘇えった黒澤明の赤ひげ、三船敏郎加山雄三のペアみたいなものではないか。共同体は、二人を、そのペアに見立てているのである。


最も典型的なのが、思い余った鶴瓶瑛太に、自分は偽医者であるとほんとうのことを話すときである。かなり緊迫感に満ちた展開だが、瑛太は、それを鶴瓶一流の自虐的冗談として受け流してしまう。病院長である自分の父親は、経営のことしか頭になく、自分の父親のほうこそ、偽医者であると瑛太は言ってのける。しかし瑛太は、鶴瓶のなかに理想の医師像を構築しているのだから、鶴瓶が偽医者であるはずがない。共同体が、瑛太が、鶴瓶に理想的な医者、赤ひげ像を投影し構築したのだから、それが偽医者であるはずがない。鶴瓶が、自分を名医として装っているのではなく、共同体が鶴瓶に理想的な医者を構築したのであるから、偽医者ではありえない。


共同体のものであれ、個人のものであれ、投影と幻想が、現実を作り出しているのであるからには、材料となる人物がいれば、名医はつねにどこにでもあらわれる。鶴瓶逃亡のあと、映画は、結末をつけあぐねているかのように、だらだつづく。この映画での投影と幻想は、神(名医)が過疎の村に降臨したかのような物語形態をとるため、狂騒と祝祭状態が現出するのだが、逃亡後は、まさに祭りの後のわびしさと現実しか残らないため、すべてが生気と魅力を失ってゆく。瑛太も、ただの無責任な若者にしかみえなくなり、有能な看護師であった余貴美子は、病気の子供をかかえた疲れた中年女にしかみえなくなる。病院に入院した八千草薫も、とくに鶴瓶に愛着を感じていないかにみえる。捜査はすすみ、刑事たち偽医者が果たしていた役割をじゅうぶんに理解するようになるが、しかし、関係者たちは、気の抜けた抜け殻になっている。そして二人の刑事が、逃亡中の鶴瓶に肉迫し、駅の同じホームの喫煙所で隣り合わせになったとき、列車が画面を横切ってゆく。『ゆれる』の最後の場面、香川照之がバスに乗ったか乗らなかったかを、観客の想像に委ねることになった、あのバスの映像が重なりあうのだが、ここでは列車が通過したあとのホームでは、鶴瓶が忽然と姿を消しているのである。あたかもそれは、刑事たち二人が作り出した幻想で、自分の影のごとく、どんなに追いかけても捕まらない存在であるかのようだ。


そして最後の場面。入院中の八千草薫の前に、食事を持ってくる配膳係がやってくる。白いキャップとマスクをしているので顔はわからないが、どうも鶴瓶の横顔のようにみえる。驚き、微笑む八千草薫。そこで映画は終わる。逃亡中の鶴瓶が戻ってきた、あるいは会いにきたともとれるのだが、同時に、それは八千草薫の幻想であるかのようにもみえる。


ネット上の映画評で、偽医者/鶴瓶の独白というかたちで全体の物語を保管しつつ要約していた巧みな文章があったが、興味ぶかく刺激的なその文章も、逃亡後から八千草薫の前にあらわれるまでの行動は、独白ではうまく説明できない。そう、現実的にはありえないことであり、最後の鶴瓶かもしれない配膳係りが現実の客観的存在か、幻想の産物かは、五分五分というよりもほぼ幻想の存在であろう。おそらく鶴瓶が演じているその配膳係は謎めいていながら、客観的存在であり映像化されている。と同時に、物語レベルでは、八千草薫が見ているのは彼女の幻想が作り出した鶴瓶でもある。


ドゥルーズの用語でいえば、これは「時間イメージ」である。主観でもあるし客観でもあるもの、現実でもあり幻想でもあるもの、このふたつを融合させたのが映画におけるイメージであって、「運動イメージ」の対極にあるこの「時間イメージ」は、客観的現実みえて、幻想と投影の産物でもあるの。映画の映像そのものがのが、偽医者であり、共同体幻想の産物であり、観客による投影なのだ。したがって、この映画の鶴瓶は、まさに映画ならではの、虚構と現実、実在と幻想、主観と客観が共存する、あるいはその狭間に生起する映画的表象モードそのものを体現しているともいえるだろう(ちなみに、一度はいなくなった、あるいは死んだと思われた人物が、再び最後に戻ってくるというのは、いかにも映画的な終わり方であり*3、その意味でも、鶴瓶は、映画的表象パタンを忠実に踏襲しているがゆえに、映画的存在になりおおせている。鶴瓶は、映画の神である。小説ではなく、映画ならではの、偽医者なのである。


だが、この自己参照的なフォルマリズム的結論で終えるのは嫌じゃい。そこで別の結びを。


私は大学教員だが、私は実は偽教師だと言ったら、信じてもらえるだろうか。たぶん、信じてもらえる。それは私が本気でそう思っているせいでもあろうが、同時に、私は、共同体が理念化する大学教員像とは、似ても似つかぬからだ。だから、私は偽教員であると語っても、誰も疑わない、最初からそうだと思っていましたといわれるに決まっている。そもそも共同体の理念にふさわしくない私は、存在し欲しくない、できることなら偽者であってもらいたい、最初から思われているはずだから。


しかし皮肉なことに、それこそ、私が本物であることの証拠となる。自分では本物でrはない、本物なんかにはなりたくないと思っていても、また歴代のいかにも大学教員然とした人たちと私との間に類似点はなさそうなので、どうみても自分は偽者だろうと思っていても、私が、このように、みずから、偽者である宣言できることが、本物の証拠である。まあ能力とか実力とか人格に、決して小さくはない重大な欠陥があることは自他共に認めるが、しかし、それを認めても職を追われることはないということは、どこかに自負があったり、制度的に本物であることが保証されるからである。また私が、これまでの大学教員をモデルとして真似てはいないということは、欠陥があっても、どこかで、主体的な自己認識と自己確信がある証拠であって、これだけは、まがい物、模倣物には、決して真似のできないことなのだから。つまりまがい者には、まがい者の真似だけはできないのである。


まあ、そこまでむつかしく考えなくても、あながた生まれてから日本人として育てられてきたとき、その言動は日本人らしくない、偽者の日本人みたいだといわれても、それを誇りに思うことはあっても、それで自信をなくすことはない。偽者であるという形容は、私の独自性をあらわすほめ言葉にもなるし、だからといって、自分が日本人ではないと思うこともない。逸脱は、真の日本人性の基盤の上に成立する。一方、日本の文化に同化し日本人の心性を身につけ日本の生活習慣に溶け込もうとする外国人がいたとすれば、それは日本人らしくないといわれたら、そうとう自信もなくすし、悩むだろう。結局、本物だからこそ、偽者になりたいし、偽者でもいいと思うし、逆に、偽者だからこそ、本物であることにこだわることになる。ああ、どこからが偽者で、どこからが本物か、それを見分ける術を教えて欲しいものだ。

*1:そのもっとも良性面が出たのが山田洋次監督で吉永小百合と共演した『かあべい』の、独身で遊び人で、滞在している家の女の子には嫌われながらも、どこか憎めず、戦争中の統制に逆らうもののなすすべもなく警察につかまるが、それでもへこたれず気ままな生活態度を崩さす、最後には野垂れ死にするらしい叔父さん(吉永小百合の)役だったが。

*2:隅々にまで焦点のあっているこの村の映像は、1)村の光景そのものが、なにか生命をもっているいこと【Nature性】、そして2)よく管理された田畑を示すことで、人為的作業の明白な暗示【Art性】とを共存させることで、自然と共同体とが、個人を超える創造性を秘めていることを暗示しているかのようだ。

*3:同時期に公開された映画では手塚治虫原作の『MWムウ』がそうで、死んだはずの玉木宏は、誰もが忘れかけた頃、最後に、語りでもある刑事・石橋凌のもとに戻ってくのだ。7月11日に奇しくも見ることになったので。