ダンボールの城

すでに見てきた映画だが、『ディア・ドクター』との主題的関係もあって、語ることに。


新宿ピカデリーは、気がつかないうちに大きくきれいなシネコンに生まれ変わったが、そこでの単館上映といのはちょっと残念である。どんな映画なのか、予想もつかなった映画だが、観ると実に面白い映画で、娯楽映画としても、また映画についての映画としても、じゅうぶんに楽しめる映画となっている。


実は名古屋の方で、その映画にエキストラに出演されている方(大学教員なのだが。エンドロールでは見逃したが、プログラムにはきちんとエキストラ全員の名前が載っていて、そこにその方の名前もあった)から招待券(と缶バッジ)をいただいたので見に行ったのだが、あいにく到着したら招待券を忘れていて、自腹で見ることになった(招待券はその後、学生にあげた。缶バッジはあげずに、持っている。)。招待券だとポイントがつかないが、自腹だとポイントがつくので得したような気持ちになったのだが、まあこれって、株で大きな損失を蒙っても、財布の底に100円玉を見つけて嬉しくなるような、本末転倒的な感じ方かもしれないが


愛知工業大学(AITと言うのだとはじめて知った)が、お金を出して作っている、要は、大学が作った映画だが、公開前でのテレビでの宣伝などでは愛知工業大学の名前は全くでなかった。まあ大学が作った映画となるとへんに素人っぽいか、逆に難解すぎる映画という先入観を与えてしまって敬遠されるかもしれない(またダンボールの城という題材は、それだけでアマチュア映画というイメージを与えかねないが、プロのつくったりっぱな娯楽映画である)。ただそれにしても大学で映画を作るというのはすばらしい*1


戦国時代に武将の霊が現代に蘇えり、城を築こうとし、それに地元の大工や職人、さらには住民たちが協力してダンボールの城を築くことになると書くと、物語の荒唐無稽さに唖然となって、どこをどう補完して説明したら良いかわからなくなるが、同時に、映画をみていると、この荒唐無稽さが違和感なく入り込んできて、そこに映画ならではの力業が感じられる。これは、通常の建築材料を使って城を築く話ではなく、ダンボールという丈夫だが、同時に吹けば飛ぶような紙で城をつくる話である。そこに映画らしさがうまれる。つまり映画もまた、ダンボールの城をつくるようなものだから。


このダンボールの城は、書割のようなまがいものである。映画のなかではダンボールの城を実際に作っていて、その存在感は圧倒的なのだが*2、テレビでの紹介のときには、見える面しか作っていないことが明かされた。立体的な巨大な書割なのである。それを支えるのは集団の共同作業だが、作業だけではない。意志が、怨念が、希望が、自負が、悔恨が、絶望が、復讐心が、和解が、名誉が、政治が、そう、関係者すべての思いが、それを支えているのである。彼らの思いがダンボールを支えている、ダンボールを城にみせている。と同時に、彼らの思いは、共同幻想がどれほど強くとも、それはダンボールの城でしかない。強度はあっても、長持ちはしない。その強さとはかなさ。そのみすぼらしさと壮麗さ。共同幻想とは、かくあるものだということを知らしめてくれるのが、まさにダンボールの城なのである。もしこれが通常の建材で鉄骨で城を作る話なら、ただの城作りであり、そこに共同幻想性は生じない。むしろ、あやういから、はかないから、ながもちしないつかのまのものであるから、稀有な一瞬であるから、共同幻想性を強く感じさせるのである。


それはちょうど、偽医者が名医に変貌すること、そしてこの名医もまた、いつも逃亡したがっていることとつながるだろう。偽医者もまた、ダンボールでできている。共同体が、みずからの名医を投影し幻視したときに、鶴瓶が生まれたように、このダンボールの城ももまた、そのいかがわしさと、もろさと、強さによって、共同幻想そのものと化す。いや、おそらく共同幻想とは、ダンボールの城なのである――強くてもろくて瞬時のものでありながら永遠に記憶に残る。


これはたとえば、名医が鶴瓶の肉体を借りていた(たぶんそれは、実際に医師であった父親であり、父親のペンライトがそれを暗示する)ともいえるのだが、この映画でも同じことが起こる。戦国時代の武将が、豆腐屋の息子(片岡愛之助)の体を、軍師が大工の棟梁(阿藤快)の体を、家来がホームレスの体を借りている。彼らの肉体そのものが、まぎれもなく21世紀の名古屋城から車で1時間のところに地域の住民なのだが、同時にそれはまた彷徨う霊たちでもあるという二重性こそ、客観と主観、過去と現在を共存させるドゥルーズのいう「時間イメージ」そのものである。そしてこの時間イメージとは、ここでは共同幻想と同じものだと考えられる。


このことは戦国時代、君主は家柄で決まったが、現在では、君主は住民が決めるという台詞が如実に物語っている。わかりきった政治制度の違いについて、映画は念を押しているのではない。また映画は民主的であるといっているのでもない。君主は共同幻想でつくられるということなのだ。それが現代において明確にみえてきたということである。いかなる君主も、テオ・アンゲロプロスアレキサンダー大王である。片岡愛之助の威厳のある武将姿からは。偽医者であるとはいいがたないかもしれないが、しかし、いかなる君主も、共同体に食べられ、吐き出される偽医者なのである。


片岡愛之助扮する武将は、住民が君主を選ぶと聞いて、それでは君主は召使ではないかと語っている。真の召使=共同幻想の産物が、英雄となるのである。


住民たちが集団で、ダンボールの城を作るということは、同時にもまた、内容面でも、また実際の作業面でも、映画作りと連動する。ダンボールの城づくりは、映画作りのアレゴリーだとすれば、この映画は、まさに映画を作る(アレゴリー)を作る映画なのである。かくして、集団性、共同性、投影と幻想性、時間イメージなど、この映画は、すぐれて映画的主題を集約させているといえるだろう。作ることの映画。夢見ることの映画。いや、映画とは、そもそも作ることと夢見ることのであるとすれば、これまさに映画のなかの映画、映画的映画なのである(カラスのモチーフは次第に重要性を増してゆくが、最後には、カラスが飛び去って行く――彷徨う戦国武将たちの魂も昇天したことが暗示されるのだが、鳥が出てくるのは、いかにも映画的ではないか)。


付記:集団性、投影と集団幻想。それらは、『ディア・ドクター』に通ずるのだが、同時に、『蟹工船』にも通じないだろうか。だが、今回、残念ながら『蟹工船』は、こうした集団的ユートピア幻想だけは信じてないように見える。このことについては近々。

*1:手塚真も協力しているようだが、残念ながら『MW』よりも、こちらの映画のほうがすばらしいぞ。

*2:水辺にそそり立つこの城は、照明の作用で、まるで金閣寺のように光り輝くのだ。